59. It's only a Paper Moon





     ☆



 考えられることは二通りだ。


 一つに、『こちら』が『あちら』に侵蝕されつつある。


 一つに、私の主観が『あちら』に飛んでいってしまった。


 最悪なことに(どちらをとっても最悪だが)、可能性が高いのは後者であるようだ。佐倉くんは『桃原杏子』との情事に思考を傾けている。


 言葉というのは、送り手、受け手の双方がいて初めて意味を持つ。言葉の意味を歪めに歪めてきたのは彼であるにしろ、私は初めて自分のぞんざいなアドバイスを後悔した。


 彼の心の声は、つきっぱなしのラジオのようなものだった。日常生活を脅かすほどのものではないが、無視できない程度の存在感がある。『未知の記憶』の通りだ。


 記憶と違うことが一点あるとすれば、彼の声が疲弊しきっているということだった。


 無感動で落ち着き払っているかと思えば、時折から騒ぎをはじめ、すぐにまた沈みこむ。ぼおっと物思いに耽ることもなく、目の前の事象を淡々と描写し続けるも、しまいにはそれすらも投げ出し、『だるい』だの『ねむい』だの。


 正直なところ、聞けたものではなかった。


 いや、聞けたものではないのは前々からなのだが、『聞けたものではない話』としての体裁は整っていた。昨今の彼は、物語ることそれ自体に疲れ果ててしまっている。


 佐倉くんが、誰かに言って聞かせるために彼の人生を歩んでいるわけではないのは承知の上だ。私だって好き好んで彼の道程に聞き耳をそばだてているわけではない。


 それでも、日に日に悲壮さを増していくばかりの彼の心の声を聞かされ続けるのは、応えた。


 だから私は、ただイラついたというだけでこんなことを言ったわけではない。イラついてはいたけど。


「……だから、死んでみます?」


「…………はい?」


 それは、ずっと彼の片隅にあった思考を代弁したに過ぎない。それをすっとぼけたように反芻する彼の姿は、いっそ悼ましいとまで言えた。


 そう。対面したときに限っては、彼はいたっていつも通りなのだ。すぐに人の言うことを混ぜっ返して、そのくせ人の話は半分も聞いちゃいない。人の顔色を窺うのは得意なはずなのに、結局言いたい放題に言葉をばら撒く。どちらの世界の部室でも、よく見知った彼の姿だ。


 彼はきっと、臆病だった。本心を曝すことをよしとせず、それでも抱えてしまう致命的な"本心"を、益体もない思考を塗り重ねることによって覆い隠してきた。


 だから私は、本当の意味での彼の本心は知らない。並べ立てられた言葉の端と端を繋ぎ合わせてできたちぐはぐな模造品から、それを想像することしかできない。だからこそ、きっと。


「佐倉くん、もう帰りましょう……」


『天地がひっくり返っても、帰宅デートのお誘いではない。つまり、現実に戻ろう、という促しである。


 やつれきった影山さんから一体何を頼まれるのかと身構えていたが、告げられた内容は割といつも通り。こう言っちゃアレだけど、ちょっと肩透かしだ。』


【俺はどこかで、その言葉を待っていたのかもしれない。でも……この舞台から降りる理由を、俺以外に求めていいような段階はとうに終わっていた。】


[帰ろうだなんて影山さんは言うけれど。俺はどこに"帰れる"んだろう。


 この桃源郷が俺の住処でないなんてことはわかっちゃいるが。彼女に手をかれた先に、少しでも甘い果実があろうものなら、きっと俺の帰る先は、そこですらない。]


〔影山さんはどうしても俺を真人間にしたいみたいだけど、一体何が彼女をここまで駆り立てるのだろうか。ウチのおかんなら五秒で近所の田んぼに俺を投げ込んでるところだ。辛抱強いのも考え物である。〕


≪弱り目の影山さんという世にも珍しい画がそこにはあった。意外とまつげが長い。……いや、そんなこと気にしている場合ではなくて。≫


{俺が殺してきた・・・・・言葉に、一斉に襲いかかられたような気分だった。なればこそ俺は、この言葉すらも、斬り伏せるほかない。真正面からは無理にしても、絡め手ならばあるいは……}


 このなかに、いわゆる『正解』はない。彼の心の声、そのいずれにも深い意味は込められていないのだろう。


 しかし、その声の全てを形象する、一つの"核"こそが、彼の本心に違いなかった。



     ☆



 それは、彼のいちばん深いところ。


 つまり、この『世界』そのものだ。


 世界かれが、変容を始めた。



     ☆



 彼がそれを自覚してから、事態はあれよあれよと収束に向かっていった。川で滂沱ぼうだとして涙していた彼には申し訳ないが、彼の嘘の告白に付き合わされた私の気持ちにもなってほしいが、とにかく私と佐倉くんは、二人して夜更けの大学の、だだ広い前庭のベンチで、ぼそぼそと喋りあっていた。そこに至る過程について、私が何か口を差しはさむというのも野暮な話であろう。これはどう考えたって、徹頭徹尾として彼の物語なのだから。


 そうはわかっていながらも、私はつい、言葉を溢していた。


「もしも……万が一なのですが……」


 万が一、私が彼の告白を受け、それを承諾していたら。


 佐倉くんによれば、どうやら私は優しいらしい。優しい私が、憐みから彼の手を掬いあげていたら。


 ありえないことだ、とは思えなかった。自分でも理由は測りかねたが、彼の告白に即答できなかったということはつまり、私がその是非を一瞬でも考慮に入れてしまったことの証左に他ならない。


 きっと今すぐに答えの出る問ではない。なにより、私に睦言むつごとを囁く佐倉くんの姿を想像してしまって、私は内心で首を震わせた。


「もしかして佐倉くんは、スイーツ300円ぶんくらいでこれまでの行いがチャラになると思っていませんか?」


 口をいたのは、そんなつたない誤魔化しだった。


「……はい?」


 案の定、佐倉くんは気の抜けたように聞き返してくる。


「そりゃ、これで許してくれりゃ丸儲けくらいには思ってるけどさ。さすがにそんなわけないでしょ」


「言わなくていいことまで口にでてますけど」


「ま、影山さんにはさんざん心読まれてたわけだしさ。なんか、今更感ない?」


「それはそうなのですが」


 結局のところ、私がなぞっていたのは、彼の『口に出ていないだけの言葉』に過ぎない。きっと心は、言葉ではないのだ。言葉の裏も読めない私に、一体どうして読めようものか。


「まーでも、影山さんがそういう感じだからこそ、俺も安心して玉砕できたみたいなとこもあるし」


「もしかしてそれ、褒めてるつもりですか……?」


「自虐だよ自虐。俺は結局、俺のことしか見えてないワケ。他人に気を配るのは……当面の課題だな」


 だから、そんな風に、自分だけ何か解ったふうにうなずくのは、少しずるいと思う。


「そんな心持ちでよくもまあ、あんな……あんな真似ができましたね……」


「そりゃもう、絶対フラれるって思ってたからね」


「えぇ……」


「いや、逆によ? あんだけ心の中読まれて、それでも俺にホの字なんて言われたら、ちょっとその子どうかと思うけどなぁ」


 それには大いに同意しておこう。


「仮に影山さんが……その……付き合ってくれたとして、さ。今の俺じゃ、絶対にどっかでなんかやらかして、愛想尽かされて、そんでフラれるだろ? そしたらそん時現実に戻れるかなーって」


 佐倉くんは、人の言葉尻を捕まえてあげつらうのをどうも楽しんでいる節がある。だからきっと、私が何を言いかけて、何を訊こうとしていたかなんて、だいたいはわかっているのだろう。まったく腹立たしい話だ。


「いっそ清々しいまでの自虐っぷりですね……」


 そしてどうせ、今言ったことにだって、本心は1ミリ程度しか含まれていないに違いない。そうやってけぶに巻いて、彼は今までを生き、そして、これからを生きていくのだろう。


 しかし私は知っている。彼は自分を騙すのは抜群に上手だが、自分を騙すのが大嫌いなのだ。今回の一件でいろいろと思い知って、当面の間はおとなしくしているだろうが、いずれ喉元過ぎれば、再び音もなく心をすり減らしていくだろうと、いくら察しの悪い私といえど、それくらいわかる。


「佐倉くん」


 だから私は、彼をもっと知ろうと思った。いや、きっと、既に知らないことのほうが少ないかもしれないけど、少なくとも。


 濃紺の彼方に散らばる光点を見て、彼が何を思うかは、私はまだ知らない。


「ひとつ、お願いしてもいいですか」


 癪なことに、どうやら私はこれを言うのが初めてでは無いらしいが。








     ♡








「──星を見に、いきませんか」






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