58. Moonshine





     ☆



 部室の扉を開けた瞬間、私の意識は濁流に呑まれた。


 もちろん、実際に濁流に流された経験なんて無いのだけれど、幼少期、水に浮くこともままならない時分に連れて行かれて軽くトラウマになっている『波のプール』を何倍も激しくしたような"なにかの波"に、私は正面から浚われようとしていた。


 そしてどうやらその"波"は、固く瞑った瞼の裏に入り込んでまで私を蹂躙せしめたようで、私の心をぐちゃぐちゃにかき混ぜるだけかき混ぜると、後には嘘のような静寂しか残っていない。


 いや、もとより、音など一つも無かったのだが。すべては音もなく起こり、音もなく終わったことだ。


 こうして私は予兆も脈絡もなく、未知の記憶を手にしたのである。



     ☆



 未知であるのに記憶とはどういった了見であろうか、なんて問い質されても今の私には返答に窮する。私の語彙の中で"それ"に最も近しいものが『記憶』であるというだけの話なのだ。


 高熱にうなされて見る悪夢というには、その記憶は平凡に過ぎた。一瞬これが走馬灯なのかと錯覚しそうになるくらいには、それは現実の出来事をなぞっていた。


 にも関わらず私がこれを未知と断じたのはもちろん、私の知る現実と、多少の食い違いがあったためである。


 それ自体は全く些細なことであった。私は株式投資部の新歓で佐倉くんとは出遭わず、天文部に単身入部し、形だけの新歓活動を行っていたところに……そこで初めて佐倉くんが現れ、あっさりと入部を決める。結局のところ、天文部に彼と二人、管を巻いているということには変わりない。


 しかし、私にとって変わりない日常は、佐倉くんの側から見れば劇的と言えるまでの変貌を遂げていたようだ。正直、そんなこと知りたいなんて一瞬として願ったことは無かったけれど、こればかりは仕方がない。


『危なかった。昨日3発ヌいといて正解だった。』


 いや本当に。未来永劫知りたくもないことだった。



     ☆



 つまり、未知の記憶の中にある私は、なぜだか佐倉くんの心の声を聴くことができていたようだった。


 未知の記憶とはいえ、私の記憶だ。あの時あんな言葉を聞いて、あんなにも辟易したというのは当然覚えている。そして同様に、その日は佐倉くんの発案で、部室の大掃除をして二人で盛大にホコリを被っていたのだという本来の記憶も鮮明に残っている。


 こんな状況に置かれて混乱しない人間などいるのだろうか。


 困ったことに、私はそれほど混乱していなかった。自分の正気を疑うことは勿論したが、それにしてはトンチキ度が足りない。宇宙人はいつまで経っても私たちの朝食の献立を傍受しないし、山脈より大きなセミの鳴き声が深淵よりみんみんと届くこともない。ただ、身近にいた人ひとりが心中ワンチャンワンチャン騒ぎ立てるのを聞かされただけである。ため息こそいくらでも漏らせど、どうして息を呑もうか。


 そもそも、こうした事態で混乱するのはなぜかといえば、どちらか一方が現実であると強く信じているからだ。私は並行世界なんて眉唾だとは思っているが、それと同じくらいにこの世界が一つしかないなんてことも信じてはいなかった。そして、そのどちらかが正しかったとして、私程度のおつむにはそれを解き明かすことは不可能であろうこともわかっているつもりだ。


 どうせならもっとシネマチックな錯誤があれば話のタネにもなろうが、世界の命運は私の撫でた双肩には少しばかり重すぎる。この程度のことで済んだことを幸いと思うべきだろう。


 だから私には、このことをどうこうするつもりは全くなかった。誰に話したところでありがちな妄想に過ぎず、物語るにしても起伏が足りない。四六時中佐倉くんの心の声が聞こえるとかならまだしも、心の声は記憶の中にあるばかりで、今は全く聞こえないのだ。困りようがない。


 しかしながら、私がそう思えるのはあくまで"当事者"でないからであって、件の当事者は、事態を相当に重く受け止めていたようだった。


「え…………、と。なんで来たんですか?」


 手慰みに望遠レンズを磨いていた私の視界に映る佐倉くんの顔はずいぶんと青白かった。


「相変わらず手厳しいな……。一応でも部員なんだから、なんで来たっていいでしょ」


「……はい?」


「え、なんか俺、変なこと言った?」


「……ええ。それはもう……」


「えーっと……どこらへんが?」


「佐倉くん、あなた別に……ああ、そうか……そうですね、そういうことか……」


 そして私はもうひとつのことに気づいた。つまり、私がこうして余裕ぶっていられるもうひとつの理由がそれだった。


 単純な話だ。私にあって、彼にないもの。それは、私にとっての『従来の記憶』。


「………………あの、影山さん?」


「佐倉くん。あなたは、天文部の部員ではありません」


 どうやら佐倉くんは、『未知の記憶』の世界から、こちらに迷い込んできてしまったようだ。



     ☆



 念のために言っておくが、別に私は嘘をついているわけではない。前回の場面で自分が部長だなんて豪語していた佐倉くんだったが、その実、ちゃんとした入部の手続きは一切していなくて、先代の部長から部室のカギを託されただけの無所属学生であった。よって『従来の記憶こちらの世界』『未知の記憶あちらの世界』問わず、天文部長は私であり、副部長に会計も私である。そして佐倉くんが正式に入部していたのは『あちら』だけだった。それだけの話だ。それ以上のヤマもオチもない。


「あー、そしたら……影山さん」


「なんでしょう」


「つまりきみは、部員でもない俺が急に部室に押し入ってきたからビックリした……てこと?」


「……ええ、まあ」


 失礼な話、この佐倉くんは『こちら』の佐倉くんより随分と目がギラついているなあ、なんて驚いたりもしていた。言わないけど。


「加えて言えば『あなた』とこうしてちゃんと話すのは……初めてのことですね」


「じゃなんで影山さんは俺のことわかるのさ」


 この反応に私は確信した。彼は、自分の身の周りに何がおこっているのか、まるで理解していない。


 あとの会話といえば、単なる確認作業だ。単なる事実の羅列に佐倉くんがぽこぽこ打ちのめされていく様はなんというか……壮観だった。世の中からイジメが尽きない理由の一端を垣間見た気がする。これは確かに少し面白い。ほどほどに自制しなければ。


「オリエンテーション用学務資料……?」


「佐倉くん、どうやら桃原さんにお熱だったみたいなので。暇潰しに探してみたんです」


 これは完全に嘘だ。本当は佐倉くんを無理やり正式な部員に仕立て上げるために、彼の学籍番号をすっぱ抜く目的で入手した名簿である。


 だからこれは、単なる格好つけであった。


「少なくとも、こちらには。桃原杏子という名前の1年生はいないようです」



     ☆



 ここから暫くの話は、読者の皆様の知るところ以上のものはそんなにない。部室の鉄扉を開ける度に私に流れ込み更新される『未知の記憶』の中にある彼の心の声を精査した私が、あまりにも彼に都合のいい『あちら』を彼の妄想の世界であると仮定したこと、その中で好き放題しながらも彼がみっともなく私に助言を乞うべく時折部室にやってきていたこと、彼が試行錯誤しながらも着実に人としてアレな感じになっていったこと。


 私はそのすべてを、字義通りの生温い視線を以て見守っていた。


 しかし、後になって思えばそれは、少々危機感に欠く姿勢だったと言わざるを得ない。そしておそらく、一歩引いた視点で物事を俯瞰できる自分に、少なからず酔っていた。でもそれは、あくまで自分の『記憶』を、他人事のように覗き込んでいたからこそのことだったのだと、私はある時思い知った。


『俺はもう心に決めていた。実験の対象は……大宮だ。』


 いつの間にやら、私の脳裏には、佐倉くんの声がわんわんと響くようになってしまったのである。

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