57. a Moonlit Chamber before Nightfall




     ☆



 私の父は、言うところの仕事人間で、わたしのことに関して口出しすることは指折り数える程度だったけれど、それでも、小さい頃に言われたこの言葉は、よく覚えている。


『せめて、敬語を使えるようになりなさい』


 どうやら私には、愛想やら配慮やらというものが著しく欠けているらしい。なんとかしてそれらを身に着けさせようと子育てに四苦八苦していた母とは対照的に、父はそんなことを言ったきり、黙々と夕食を摂っていた。


 果たして、その教えにより、私がトラブルに巻き込まれたり、ケンカを売られたり(向こうからすれば私が喧嘩を売っているように感じられていたようだが)ということはめっきり少なくなった。


 今になって思えば、対症療法もいいところである。父が教えてくれたのは、人付き合いの妙ではなく、社会生活をうまく送るための知恵であった。蛙の子は蛙、ここに極まれりといった風で、正直笑える。


 おかげさまで他人との衝突は減ったが、他人と関わることも少なくなっていた。少し成長した私は、ふとした拍子で失言するくらいなら、最初から口を噤めばよい、という結論を出していた。


 しかしそれでも話し掛けてくる奇矯な人間というのは、結構な割合で偏在していて、おかげで孤独に苛まれることもなく10代を終えようとしていた私だったが、今回のようなことは初めてだった。


「天体観測だけはやめとけ」


 彼──佐倉孝さくらあつしは、初手から喧嘩を吹っかけてきたのである。



     ☆



「いや、だってこれ、株式投資部の新歓だぜ」


「それと、趣味が天体観測であるということに、何の関係が?」


 私が少なからず剣呑な雰囲気を纏ったのを察してか、佐倉くんは慌てて弁明するように言葉を継いだ。


「キミもタダ飯食らいに来たクチでしょ、なんとなくわかるよ。だから、そーいうスピリチュアルなのはやめとけって。『株式投資』なんてよくわかんないけど意識高そうな看板のサークルはね、新歓で新入生だまくらかして怪しいセミナーとか宗教に引きずり込んでくるって相場が決まってんの」


 周りの先輩がたに聞こえないように、彼は小声でまくし立てた。


「そんなとこで趣味は星を見ることですなんて言ってみろ、鴨が土鍋に乗って来たくらいには思われる」


 決めつけと偏見に満ちた言説だったが、彼の表情にはどこか確信めいたものがあった。そしてどうやら、後から聞いた話、彼の言うことは概ね正しかったらしい。


 しかし、この時の私はそんな事も露知らず、ただただ苛ついていた。


「天体観測と占星術は違います。たとえ同根であるにしろ」


「イメージの話だってば。一般的には一緒くたなの。『星界の使者』なんてタイトルの論文出す業界だぞ」


「……4世紀前の話じゃないですか」


 突っ込みながらも、私は内心舌を巻いた。主に英仏で『星界の使者』と訳されているガリレオ・ガリレイの論文は、専ら日本では『星界の報告』として知られており……いや、そもそもそんなに知られていない。大多数の認識の中では、ガリレオは地球はそれでも回っている人だ。


 これも後から知ったことでは、これは佐倉くんが好きなゲームの引用元元ネタを漁っていた時に仕入れた知識だったらしいが、当然この時の私にそれを知る由もなく、博識はどこに潜んでいるかわからないものだ、と感心したものだった。


「ま、そんなことより今はメシだ。ええと……」


「影山です」


「影山さんね。影山さん、そっちのサラダとってくんない?」


 不躾ながら、自分を棚に上げながら。私はこうも思った。


 この人、モテないだろうなぁ。



     ☆



 どうやらこの大学には『天文部』というものが存在していて、そしてそれは到底"存在している"などと呼べる状態ではないらしい、ということを知ったのは、それから二週間も経とうとしていた頃だった。


 学生団体が発行している新入生向けの部活紹介の冊子には一言もそんなことは書かれていなかったのに、大学の事務局が作成したと思しき当校見取り図の端の端に、『天文部』の3文字を認めた時、何か奇妙な予感があったのは否定できない。


 しかし、私は努めて楽観的であった。そもそも、私が天文部なるものに期待しているのは、私の如き小娘では購入の難しい高額な機材くらいのものである。同好の士と楽しくお喋り、などどうして望もうものか。


 大体、夜空を見上げるのに、隣にもう一人二人と居て、だから何になるというのだろう。


 思い出を共有したとして、結局のところ、私が見た星は、私だけの思い出だ。それが良いことなのか悪いことなのかもわからないままに、私は今までのうのうと生きてきた。


 そういうわけで、私は件の天文部とやらに直接足を運んでみることにした。邪見にされるもよし、歓待されるは尚よし。そんな、ありふれた不安と期待を胸に。


 果たして私を待ち受けていたのは、そのどちらでもなかった。


 ビーズソファに寝そべり、日に焼けた背の漫画のページを捲る手を止め、きょとんとした顔で私を見ていたのは、


「あ。えーと……」


「影山です」


「影山さん、久しぶり……でもないか。……もしかして、入部希望?」


 佐倉くんであった。



     ☆



 佐倉くんの語る天文部の現状とやらは、私の想像するより何倍も下らなく浅ましいものであった。


「ここは『台風の目』なんだってさ。周りで吹き荒れてるのは……たぶん青春とか、そんな感じ」


 おおよそ疾風怒濤シュトゥルムウントドランクとは無縁そうな暢気な調子で、佐倉くんはそう言った。


 彼によれば──いや、彼をここに誘い込んだ何者かによれば、この部屋は、対流圏の些事を突き抜け、遥か彼方に瞬く星々を見通すべくして代々先人が守ってきた凪であるのだという。意味はわかるが、まるで意味がわからなかった。


「早い話が休憩所だね」


「私は」


 頭上からのダン、ダン、というものすごい音に言葉を阻まれる。そういえば、上階には道場があるとどこかの表示で見た覚えがあった。


「私は、『天文部』に来たつもりなのですが」


「それは……まあ、わかるよ。天体観測が趣味っつってたもんね」


 あそこの棚のやつとか、なかなか天文部っぽいんじゃない? なんて彼の指差した先には、無骨な赤道儀が三脚ごと裸のまま無造作に転がされていた。新品だとして、どう転んでも20万円はくだらないものだ。私は絶句した。


「やっぱ、見る人が見ればわかるもんなんだな……あの人、部費をロンダリングして遊び呆けるためにたっかい機材買ったっつってたからなぁ……」


 どうやらこれは、新古品として売り払われ、天文部の諸先輩の懐を温めるために購入されたもののようであった。つい先日まで高校生をやっていた身分としては、途方もない話だったが、佐倉くんはまるで他人事のように続けた。


「……ま、今となっちゃ部室のオブジェだけどね」


「何かあったんですか」


「……なんか、これ買った先輩たち、しょっぴかれたらしいんだよ」


「えぇ……」


 噂だけどね、と付け足した佐倉くんは、もっというと諸説ありすぎてよくわかんないんだけど、とさらに補足した。


「ってわけで、天文部、俺一人になっちゃってさ。形式上、俺が部長なの。だから一応訊いとくけどさ……」


 こんなんだけど、入部する?



    ☆



 是非もなく、私は頷いた。


 佐倉くんが"こんなん"と評したこの環境は、私としては願ったり叶ったりのものだった。唯一の部員である彼は終始この調子だし、私が何をしようが何をしまいが永遠にビーズソファの上でぐでっとしているであろう。ならば私は、彼がぐうたらと惰眠を貪っているのを横目に、あの赤道儀でとびきりの星景写真を撮影してやろうじゃないか。私はひとり意気込んだ。


 3月、特にやることもないからと免許合宿に行っておいた甲斐があったというものだ。カメラはとりあえず父から借りるとして、あと必要なのはレンタカー代くらいだろうか。人間の欲求は手持ちのテクノロジーに規定されるとはよく言ったもので、私の頭の中は、来るべき小旅行の予算組みでいっぱいだった。


 そうして私は、自炊を始めた。


 なにも今すぐアルバイトを始めずとも、支出を切り詰めれば、星を見るには事足りる。『大学生になったら、お友達付き合いにもお金が要るでしょう』なんて純粋な善意で仕送り額を見積もってくれた母には申し訳ないが、これが私だ。雑にレタスとササミをちぎってごまだれをかけただけの棒棒鶏もどきを弁当箱に詰め込む我が子の姿を想像できなかった貴女がいけないのだ。


 だけども、こんな料理ともいえない食糧を衆目に曝すのも流石に気が引けて、自然と私は天文部室で昼食をとるようになった。


 居心地は、さほど悪くない。道場直下と立地は最悪だが、食事を摂れる程度には常識的な椅子と机を備え、レンジとケトルまであって、おまけに天体を自動導入できる赤道儀まである。なるほどこれでは、油断したら居着いてしまうかもしれない。


 ……別に佐倉くんは居着いているわけではなかったけれど。彼は時折ふらっと部室にきて、ビーズソファに座って、そしてふらっと出ていくだけの不思議な生き物だ。そう思うことにした。


 彼は基本的には無害だ。話しかけてみれば、至極適当に反応する。


「そういえば佐倉くんは、どこの学部なんですか?」


「経済。偏差値いっちゃん低いとこだよ」


 今日の会話はこれで終わりだった。


 居心地は、さほど悪くない。



     ☆



 ゴールデンウィークに帰省して、無事に父から超望遠レンズ付きのデジタル一眼を借り受け、何事もなく5月が終わるかに思われた、その3週目。


 もっというと、5月は23日。


 その日を境として、世界は変わった。


 比喩でもなんでもなく、本当に変わってしまったのだ。

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