56.愛の挨拶




     ♡




「影山さん!」


 もしかしたらもう帰っているかもしれない。


 そんな可能性は微塵も考慮せずに、ノールックでたてつけの悪い鉄扉を開け放ち、堂々と推して参る。


「かつてないほどに騒々しいですね……」


 相変わらずの、色のない返事。思った通り、影山さんは今日も今日とて部室に居た。


 やおらトートバッグを肩に掛け、今まさに帰ろうとしているところだった。危ないところである。


「帰る方法、見つかったんですか? …………!?」


 バッチリと目が合う。俺と目が合えば自然と、背後で押し合いへし合い部室をのぞき込んでいるだろう俺達にだって気が付く。


 そして、影山さんは、息を呑んで固まった。


 いつだかか、部室にゴキブリが沸いて、飛んで跳ねてで大騒ぎする俺を後目に、慈悲無く新聞紙で叩き潰し手際よく片づけていた影山さんが総毛立って立ち尽くしていた。


 動きが止まったぞ! 今が好機だ! かましたれ!


 俺達が口々にそんな野次を飛ばし、俺の背中を押す。


 弾き出されるように、部室の中へ。


 身を守るようにトートバッグを両の手で握りしめる影山さんに対し、俺は姿勢を改めて、呼吸を整えて、大きく1歩前へ出た。


 俺の歩に合わせて、影山さんは表情をひきつらせたまま1歩下がる。


 俺が進めば進むだけ、同じように影山さんは後退する。見えない壁に阻まれるように。


 この壁はきっと、そんなに悪いものじゃない。でも、今だけは。


「佐倉くん……あの、コレは一体……?」


「影山さん!」


 だから、無理矢理影山さんの肩を掴んだ。まじでごめん、後で死ぬほど謝るから。


「……ッ!!」


「伝えたいことがあるんだ!」


「な、な、な」


 影山さんには悪いが、この場には会話も説明も、理解も解決も要らない。


 押し付けだ。俺の気持ちを、めいっぱいに押し付ける。相互理解なんて難しいことはできないけど、せめて、俺がどう思っているかは……押し付けなければならない。


 本来は、押し付けずにはいられない、が正しいのだろう。でも、そんな気持ちは、俺はまだ知らないから。


 これは、ただの……ままごとだ。


「好きです!」


「…………は?」


「好きです。付き合ってください!」


「…………。……え? え?」


 2回も言えば、さすがに冷静さを欠いた影山さんでも聞き取れただろう。


 掴んでいた肩が僅かに身じろぎする。彼女は、俺の眼差しから逃げるように顔を逸らした。


「…………」


 影山さんが、何かを覚悟したように、あるいは、全てを諦めたように俺と相対したのは……何秒のことだったか。


「………………ごめんなさい」


 あっさりと、俺はフられた。


「そっか……そうだよな」


 生まれて初めての告白は、惨敗に終わった。


「あ、あの……」


 彼女の肩から手を離して俯く俺に、影山さんは恐る恐るだが、心配そうに声をかけてくれる。


「ふっ……くく……」


 そんな彼女の様子すらも、なんだか可笑しくてたまらなかった、


 俺が可笑しくてしょうがないのだ、言わずもがな、俺も、俺も、俺だって。


 爆笑に手を叩く音と、それからこれはなんだろう。故も知らぬ轟音が部室に反響して、やがて全てを埋め尽くした。


 止まない歓声は、やがて光と溶けて眩く輝き出す。その輝きは止めどなく膨れ上がって世界を包み込み、そして──


 光が止んだ後には、辺りから俺たちは消え失せて、唯1人、俺だけが残っていた。


 一転した静寂の中、ふとつま先に何かが触れる。


 足下を見れば、それはずっと探していて、本当はずっとそばにいてくれた──アイツだった。


「…………。私、疲れていたんでしょうか……」


 俺が1人になっていったのを事態の収束と見て、影山さんは安堵の溜め息をつく。


「なんだか、夢のようでしたね……もちろん、悪い意味で」


 影山さんは脱力しきって、人をダメにするソファにすっぽりと沈み込んだ。


「夢じゃないよ、影山さん」


「そうなんですか?」


「いや……夢みたいなもんか」


「どっちですか」


 つまり、夢だけど、夢じゃなかった。


 床に転がったアイツ……泥だらけになったTEN〇Aを拾い上げる。


「とりあえず……一応、終わったよ。やるべきこと」


「……そうですか」


 ほんのちょっと顔をしかめて、影山さんはそう言った。


 俺が見た夢は、ここまでで終わりだ。



     ♡



「ひとつ……、いえ、いくつか訊かなければならないことがありますね」


 ちょっとの間黙っていた影山さんだったが、何かを思い出したかのように声を出した。


「なんとなく、佐倉くんがやろうとしていたことはわかりました。つまり、成否はともかくとして、リアルな恋愛に身を置いて、うまいこと未知のショックに行き合おうとか、そんなところでしょう」


 俺が大学生協のコンビニまで走って買ってきたエナドリを飲みながら影山さんがボヤく。俺を見るその目は、完全に据わっていた。


「まあその……なに? ……よくわかったね」


 何故俺がコンビニまでダッシュしていたかといえば、無論お詫びの印である。


 現実へ帰るための条件。俺が経験したことがなくて且つ、どうしようもなく現実を痛感する……これは正に、リアルの女性に告白してフられる事だった。


 ちょっと優しくされたくらいでワンチャンあると勘違いし、ロクな布石も打たずに己の内に募った感情が暴走して結果、呆気なく散る……。なんとまあ、リアルで救いようのない、お手本の様な童貞の失恋談だろうか。


 その相手にあるのは、あの世界では、都合影山さんしか有り得なかったのだ。


「この方法だと、肝心の影山さんにネタバレしてたら意味ないかもじゃん?」


「それはそうですが……」


「それに、命張ったり犯罪冒すような危険も少ない。正に最善の策だったんだよ」


「だから……そこで思考停止せずに、デリカシーとか、私への配慮とか……諸々考えて、策を練り直すとか……」


「それは……はい。もうしわけございません」


 重ね重ね謝り倒し、レジ袋からロールケーキを取り出して影山さんに供える。


 物で釣ろうとするのは短絡的で感心しない。だいたい、女の子がみんながみんな甘いものが好きだとは限らない。そもそもエナドリとスイーツの取り合わせはいかがなものか。とかなんとか言いながらも、影山さんはちゃっかりそれを受け取ってモソモソと頬張る。


「……もう過ぎたことですし。なんにせよ、私はあの悪夢から抜け出せただけでも、佐倉くんに感謝しなければいけないのかもしれませんね」


 糖分が偉大なのか、影山さんが怒り慣れていないだけなのか……食べ終わると、彼女はそんなことを言い出していた。


 影山さんが鞘を納めたところで、念のためもう一つ買ってあった生どら焼きを食べようと包装を剥いていたら、横合いから奪われて影山さんはまたぞろモソモソしはじめた。『どうせ機嫌が直らなかった時のための予備だろ?』とでも言いたげな、不遜な顔である。まあそうなのだが。


「もしも……万が一なのですが……」


 遠く彼方、腕を組みながら正門の外にあるケヤキ並木へと消えて行くカップルを目線で追いながら、2つ目のスイーツをじっくり堪能した影山さんは、ゆったりと話し始めた。


「もしかして佐倉くんは、スイーツ300円ぶんくらいでこれまでの行いがチャラになると思っていませんか?」


「……はい?」


 考えもしなかった問いかけに隣を向く。


 影山さんは、普段と変わらないクールな表情のまま、目線は横に座る俺をまるっきりスルーして、真っ直ぐ前を捉えていた。


「そりゃ、これで許してくれりゃ丸儲けくらいには思ってるけどさ。さすがにそんなわけないでしょ」


「言わなくていいことまで口にでてますけど」


「ま、影山さんにはさんざん心読まれてたわけだしさ。なんか、今更感ない?」


「それはそうなのですが」


 ほかの人と喋るときはくれぐれも気を付けてくださいね、なんて影山さんは言うけれど、現実に戻った今、この子以外の知り合いなんて皆無なのだ。煽られているようにしか聞こえない。


「まーでも、影山さんがそういう感じだからこそ、俺も安心して玉砕できたみたいなとこもあるし」


「もしかしてそれ、褒めてるつもりですか……?」


「自虐だよ自虐。俺は結局、俺のことしか見えてないワケ。他人に気を配るのは……当面の課題だな」


 でも、だからこそ。己を見つめ続けた結果として、今の俺がある。そうして、俺は、俺を知ったのだ。


「そんな心持ちでよくもまあ、あんな……あんな真似ができましたね……」


「そりゃもう、絶対フラれるって思ってたからね」


「えぇ……」


「いや、逆によ? あんだけ心の中読まれて、それでも俺にホの字なんて言われたら、ちょっとその子どうかと思うけどなぁ」


 まぁ、しかし。


「仮に影山さんが……その……付き合ってくれたとして、さ。今の俺じゃ、絶対にどっかでなんかやらかして、愛想尽かされて、そんでフラれるだろ? そしたらそん時現実に戻れるかなーって」


「いっそ清々しいまでの自虐っぷりですね……」


 どこか釈然としない様子で、影山さんは呆れ笑いを浮かべた。


 しかし、こうして首尾良く帰れたということは、裏を返せば俺はちゃんと失恋したということなのだろうか。


 仮にそうだとしたら、俺は──……。


「佐倉くん」


 過った考えに俺が身悶える前に、影山さんは言った。


「ひとつ、お願いしてもいいですか」

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