53.イクリプシング・バイナリ
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川から出て、土手を這いつくばるように登る俺に、終始冷めた視線を送っていた影山さんだったけれど、顔面蒼白で目元を赤く腫らした俺を間近で見ると、「とにかく座りましょう」と川に隣接した公園へと連れて行ってくれた。
「……少しは、落ち着きました?」
そこに腰掛けた俺の傍らに、影山さんはそっとエナジードリンクの缶を置く。
影山さんの手にあるコンビニ袋には、同じ銘柄の缶がはちきれんばかりに入っていた。曰く、ストックを切らして近くのコンビニまで買いに行っていたそうだ。今の今まで知らなかったが、どうやら、影山さんの家は俺とかなり近い距離にあったらしい。
「あいにくと、こんな物しか手元にありませんが……」
こんな夜中に渡す物でもないよな……という影山さんの気まずさが、無表情ながらにも読み取れた。
或いは、いい年の男がワンワン泣きながら川に入り、ずぶ濡れになって半狂乱で泥を掻いてる現場を目撃してしまった後悔なのかもしれないが……。いずれにしろ、せっかくの彼女の厚意を無下にする理由もない。
「いや、ありがたくいただきます」
影山さんからの差し入れを前にして、ようやく自分の喉の渇きに気づく。汗、涙、その他諸々。色々と枯れていた。
喉を通過する炭酸の刺激といかにも人工的な甘さが、妙な現実感をもって俺の腹へと落ちていく。
「…………」
俺の様子をじっと見ていた影山さんも、袋から1本取り出してとくとくと飲み始めた。
顔色一つ変えず……いやむしろ、リラックスした雰囲気でホッと一息つく影山さん。ホットココアのCMにでも起用されそうなカット……思わずその手にあるのは俺と同じエナドリである事を忘れてしまいそうになるほどだ。
「その、貰っといてあれだけど……。こんな時間にそんなん飲んで平気なの?」
エナドリの成分に依る高揚か、一息ついた安堵からか。俺は、なんとなしに影山さんに言葉を投げていた。
「ええ。私、夜型なので」
「夜型なのにこれ飲むの?」
「単純に、味が好きなんです。飲み過ぎで効能も何もなくなってしまったのか、特に寝付きが悪くなるとかもないので」
目覚ましとしては使えないのが難点ではありますね、なんてごちる影山さんは、先にフタを開けたはずの俺よりもよっぽど早くそれを飲み干していた。
「それで……」
空になった缶をベンチに置き、影山さんは俺の方へと向き直った。
「そろそろ聞いてもいいんでしょうか?」
何を? とわざわざ問い直すまでもなく、その言葉の後ろに『川に入って何してたんだ?』という意図が込められているのはわかる。
「うっ……」
言葉に詰まる。
本心からなのかは議論の余地があるが、ともかく俺を心配して飲み物までくれた手前、誠実に答えるべきなのは俺だって承知している。
だが、どう言えばいい? 有りのままに伝えて理解が得られるとは到底思えない。
そりゃ、俺は俺なりに思いつめて大真面目に混乱していたわけだけど、ハタから見れば俺の行動は奇人のそれだし、もっと言うとただの変態だ。
「財布を……川に、落として……」
「嘘ですね」
咄嗟に口から出た言い訳も、光の速さで看破されてしまった。
「……てか影山さん、俺の心読めるんじゃなかったっけ」
「それはそうなのですが。ここのところ、佐倉くんの声が、何重にも聴こえて……到底、聞き取れたものではなくてですね」
「マジか」
ちょっと目を離したスキに、だいぶおぞましいことになっていたらしい。
これは、もう……。正直に話すしかないだろう。
影山さんの眼を見ると、どんなに嘘を取り繕っても無駄なのだと、条件反射のように思わされてしまう。これも今まで心を読まれ続けていたせいだろうか。
「えっと、その……。…………TEN○A探してました」
「…………そうですか。帰りたくなったんですね」
聞き返すでもなく、彼女はただ静かに頷いた。
「……え?」
話が早いとかいうレベルではない。
というかそもそも、影山さんTEN○Aの事知ってたのかよとか、色々と突っ込みたいところはあったが、藪蛇な気もしてぐっと堪える。
「違いました?」
「いや、どうだろう……。なんだか自分でもそこら辺がよく分からなくなってさ……」
「でも、あれだけ強情だった佐倉くんの心が揺らぐだけの事が起こったのでしょう? 心の声が多重に聴こえるということは、佐倉くんが相反する思考を幾つも抱え込んで、その狭間で彷徨っている……そのように、私は解釈したんですけれど」
彼女が言うからにはきっとそうなのだろう。俺には最早、彼女の言葉を反芻したり、また
「でも、あんな大見得切った手前さ……。帰りたいっちゃ帰りたいんだけど、帰ってどうすんだよっていう気持ちもあって」
「……まあ、ともかく。あらましを教えてもらっても、いいですか?」
俺はここ数日で起こった、俺と桃原達との出来事をほろほろと語る。
「なるほど……」
話し終えると、影山さんは静かに俺から視線を外して、川沿いに並ぶ街灯の方へと目をやった。
「その話に関しては、珍しく佐倉君の意見に賛同できますね」
俺の『世界、ネタ切れ説』はアッサリと受け入れられた。
これまで何事にも第三者的な態度を貫いてきた影山さんから太鼓判を貰ったとなると、いよいよもって真実味が増してくる。
「やっぱそうだよなぁ……」
エナドリで多少引っ張り上げられたテンションも、一瞬にして緩みきってしまった。いつもみたく、『安直過ぎません?』とバッサリいかれるのを多少なりとも期待してしまっていたのだが、事はそう思い通りにはいかない。
「お気の毒……なんでしょうけど。私がどうこうできる話ではないですし。この世界で貴方は……とりわけ異性に関して新しい知識を得ることは出来ないし、無理矢理変化しようとするとおかしなことになる。詰み、でしょうね」
「やっぱそうだよなぁ……」
これまでの恨みまとめてはらさでかとばかりに、ズケズケと追い討ちを掛ける影山さん。
切れ味抜群の言葉で彼女が切りつけてくる度に溜め息が漏れて、すぐに肺が空っぽになった。
「しかしまあ……変わらないことに価値を見出すのは、世の中ではメジャーな考え方ですよ。それこそ、サザエさんもドラえもんも、不変であるからこそ、万人に受け入れられていると言えましょう」
「それはそうなんだけどさ……。それはほら……なんつーか、違うんだよ。なんなのか、うまく言葉にできないんだけどさ。とにかく……俺は……たぶん、俺は、俺のままでモテたかったんだ。でもホントは、俺が俺のままでモテるはずなんかなくて、そのせいで皆は……」
「面倒な人ですね」
ごにょごにょと言葉を濁す俺に、影山さんはあっけらかんと言い放つ。
突き離すような口振りだけれど、こんな死ぬ程童貞臭い物言いにリアクションがあるだけマシだろう。
「じゃなかったらワケ分かんなくなって川に入ったりしないって」
「それはその通りですが」
もういっそ開き直ってまな板の上で大の字になるしかない俺に、影山さんは呆れながらも少しだけ口角を緩めた。
影山さんの漏らした笑い声は大した音量じゃなかったけれど、人も車も殆ど通らない真夜中の公園には良く響いた。いつもの、人を小馬鹿にしたような、薄く色づいた吐息程度の笑み。
「で、どうするんですか?」
予想以上に自分の声が通った事に恥ずかしさを覚えたのか、影山さんはすぐに笑顔を引っ込めて、そう言った。
「どうって……」
「……これからの事ですよ」
それは、そうだろう。そんなことは分かっている。
答えは、2つに1つ。即ち、帰るか、残るか。
「……………………」
「煮え切らないですね」
俺が無言で唸るのが逡巡によるものだと正しく理解した上で、影山さんは答えを急かした。
「…………さっきも言ったけど、本当にどうすれば良いのか分からないんだよ。現実に戻ったって、大学デビューに失敗して、誰からも相手されず、淀んだ日々を繰り返すだけなわけじゃん」
かといって、この世界に頑として居座り続けたとしても、途方もない虚無感に苛まれ続けるに違いない。
彼女達をこの手で幸せにする、それが可能なのは俺だけなんだ。そんな身勝手な決意さえも、身勝手なままに腐敗しかけている。
「そこまで悲観するものでもないと思いますが……。現実の佐倉くんは佐倉くんで、まあまあ楽しそうにしてましたよ。お友達も、少しはいたみたいですし」
さすがに華があるとは言い難いですが、と彼女は付け足した。
「……え、なに、影山さん、やたら詳しいじゃん。俺のストーカーでもやってたの?」
俺の軽口を受け、影山さんはなんともいえない顔になった。
「…………現実でも、佐倉くんと私には、多少の縁があるのです。ストーカーと言えば、心の声が透けて聴こえる今の方が、よほどそうであると思いますけど」
確かに。
「でも、どちらの佐倉くんも……いえ」
恋愛と縁遠いからこそ、異性という存在、ひいては恋愛という現象に憧れを抱く。容姿が好みで、ちょっとした仕草に心を奪われて、通じ合うこともあればそうでないこともあって、でもそれさえも愛おしいと思える相手……それは、異性の好みなんて次元の話ではなくて、純粋無垢な理想でしかない。
「佐倉くんは、理想が高いのではなく……そもそも、理想と現実を、自ら切り離してしまっているのではないですか」
影山さんは、遠く、道路を跨いだ小川の方に目をやりながら続けた。
「佐倉くんにとっての恋愛は……きっと、宝くじの1等のようなものなんでしょうね。当選金額と、当選確率と、そのどちらにも現実感が感じられない。非日常ですね」
総括すれば。佐倉くんの価値観それ自体が、
「まぁ……返す言葉もないよ。完全に夢見がちな童貞って奴だよね……」
「でも、そのままでもいいんだと、私は思います。もちろん、その考えを手放すのか、覆すのか……そんな日がいつか来ることだってあるかもしれませんけど。でも、そうして変わるにも、意固地に理想を貫くにも……佐倉くんは、愉快に七転八倒して、そのことをこそ笑えるような人間じゃあないですか」
好物のエナジードリンクの効能なのか、影山さんは珍しく饒舌だった。
「…………なんか、やたら俺の評価高くない?」
「別に、褒めてませんけど」
「あっそう…………でも……そうか、愉快に、ね……」
「その点は心配ありませんよ」
投げやりで、乱暴ともとれる物言いで、だけどもその根底にあるのは影山さんらしい優しさ……優しさなのかこれ。
「自分に都合の良い世界を創り上げてしまうほどに自分を大事にできる人間は、そうそういるものでもないでしょう。佐倉くんが、本当の意味で自分が嫌になることなんてないと思います。貴方なら、どんなところでも生きていけますよ。これは、明確に長所と言えます」
ひょっとしたらこれは、現実への帰還へと揺らぐ俺の背中を押すために捻り出した、彼女なりの褒め殺しに過ぎないのかもしれない。
だけど、影山さんの言葉は、確かに俺の胸裡に響いていた。
そうだ。そうだとも。俺以上に、自分を楽しませようと必死になれる人間が居るだろうか。もし誰も俺を愛してくれないのなら、己が愛してやればいい。その気持ちがあれば、どんなに荒涼としたキャンパスライフだろうと、濁り渦巻く激流の如き社会人生活だろうと、力強く歩んでいける気がしてきた。
「そうだね……うん」
これはきっと、前進でも後退でもない。まだ、足を動かそうと、そう思っただけ。だけど、その歩みの先に、あるいは横合い、はたまた背後から。茫洋とした願望からではなく、本心から必死になれるくらいの恋が生じたら。いや、もしかすると、恋愛なんてそっちのけになるような何かをさえ見つけてしまうかもしれない。
きっとそれは、素敵なことで……こんなに優しい悪夢の中にいては、起こり得ないことだ。
「影山さん、俺、戻るよ……現実に」
「そうですか」
影山さんはなんてことなさげに頷きながら、それはなによりです、と短く答えた。
「あー……でもゴメン。ちょっと待って」
一仕事終えたと言わんばかりに本日2本目のエナドリを開ける影山さんに、思いっきり水を刺す。気管に入りでもしたか、けほけほ咽る彼女に、俺は慌てて弁明した。
「……そんな露骨に身構えなくてもいいじゃんよ」
「タイミングに悪意しか感じませんが……まあいいです……」
うっすら涙を浮かべた目に睨まれる。今のは本当に全くの偶然だ。
影山さんとは、こういう細かいところでズレることがある。それが面白かったり面倒くさかったりもするのだが、それよりも……。
「帰る前にちょっとだけ時間貰える? やらなきゃいけない事が1つあってさ」
「やらなきゃいけない事、ですか……。元より、そんなに急かすつもりはありませんでしたが……」
「そっか、ありがと」
実のところ、別にやらなくてもいい事ではある。この世界の出来事全て、俺の自己満足でしかないとすれば、元より俺に義務など発生しない。
だけど、最低でもこれだけは、自分に対して、
「何をするんですか?」
「秘密」
きっとこれは、俺にとって、人生で二度目。
俺はこれから、人を殺しにいく。
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