52.泥濘に沈むアノニム




     ♡




 何かと格好つけて、それらしい言葉で現状を表現してみても、結局のところ、根本的な原因は常に脳裏にチラついていたものでしかなかった。


 ネタ切れだ。


 この世界の原動力である、俺の知識や記憶が枯渇している。


 より正しく表現するなら、俺が没入できる程度にリアリティを持たせるだけのネタ……それが底を尽きていたのだ。


 ずっと目を逸らし続けていたことだったが、その危惧は当然あった。女性との触れ合いなんて、オカンか従姉か画面タッチくらいしかしてこなかったのだから。


 大枠としてのストーリー展開というか、辻褄合わせというか……その点に関しては──自画自賛になってしまうが、俺の無意識はなかなかいい仕事をしていた。


 問題となるのは、例えば会話の内容とか、ふとした時の仕草とか、デートの行先とか……数えだせばキリがない。大きな話の筋道に、御都合主義満載の屁理屈を織り混ぜることは可能でも、こうした人間らしさが見え隠れする、日常の瞬間を誤魔化し続けるのは不可能だった。


 慣れてしまえば視えてくる。数パターンしかない話題、大体予想がつくリアクション……。


 たけど、それは当たり前の事だった。漫画の天才キャラは作者の頭の良さを超えられないように、桃原も先輩も大宮も、俺の想像できる『美少女』を超えることはできない。


 他人の描いた創作物を見ることでしか異性との交流を知る術のなかった俺に、"美少女との毎日"を描ききるなんて、土台無理な話だったのだ。美味い飯を食ったからと言って、美味い飯を作れるようになるわけじゃない。ウィキペディアをまるっと引用した内容を得意げに語る天才キャラに苦笑いしながら、俺もそれと変わらないことをしでかしていたのである。


 そうして、ギャルゲーのワンシーンを延々とリピートするかの如き日々に、俺は少しづつ、だが確実に……飽きてきていた。


 箱庭に飽きた人間が次に何をしでかすかといったら、そりゃ突拍子も無いことを始めるに違いない。


 そこら中に穴を掘って村民を総入れ替えしたり、理由もなく目に見えた人間を全員銃殺したり、裸で世界を救ってみたり。


 果たして俺は、変化を望んだ。極めて無責任かつ適当に、物語の仕掛けをばら撒き始めた。そのせいで自分の飽きに気づくのだから、皮肉なものである。


 この世界は、なにもかもが偽物だ。そう開き直って、好き勝手やり始めた瞬間……たが・・が、外れた。


 彼女らの人間性を担保するものは消え去り、与えられたパーソナリティに基づいて、システマティックな反応を返す、『キャラクター』としての側面のみが残る。


 そしてどうやら、それは俺においても例外ではないらしい。


 この世界を"ラブコメ"であると規定した当初。優しくて、押しが弱くて、優柔不断で、でも決めるところは決めてくれそうな"ラブコメ主人公"をなぞって言葉を選んでいたのは、完全にノリでしかなかった。俺は、ラブコメ化するこの世界を、確かに楽しんでいた。


 それが今やどうだ。言いたいこともまともに言えず、誤魔化すように口から転び出る、"ラブコメ主人公"的なセリフに、いったい何の意味があるというのか。


 俺は、いつしかこの世界と──桃原たちと、まともに向き合うことをやめてしまっていたのだ。


 糸を引くだけの人形師が、踊らされるだけの人形の心情と真摯に相対することは難しい。或いはそんな、傍目からみてアホらしいことを大真面目にやってしまう人種のことを、作家と呼ぶのか。


 俺は作家ではない。故に、この世界で最も不要なものは……おそらく、俺の自我だ。


 しかしまあ、我が身可愛さにこの世界に逃げ込んだ俺の無意識が、そんなことを承服するはずもなく……そうして出来上がったのが、今のいびつな状況なんだろう。


 ……どれくらい時間が経ったのか。


 冷房が切れるタイマーの音に、意識は手元に引き戻される。俺は、いつの間にか、独りで、自室にいた。


 ベッドの上に投げ捨てられたリモコンを取ろうとして、思い掛けず、自分が普段シコッていた時と同じ体勢を取っていたことに気が付いた。


 実は、ぐだぐだ御託を並べなくとも、やるべきことなんて直感的にわかっていた。でも、それを決断することもできないまま、そんな自分の不甲斐なさをしかしそれこそが俺なんだとどこか納得している自分が、ひたすらに……情けない。


「泣かないで」


 不意に、点けなおしたエアコンの冷気に乗って、果実の甘い香りがした。


 その直後に、俯いた頭頂部にふわりと柔らかな感触。俺は誰かに抱き締められていた。


「桃……原……?」


 声の主は桃原だった。髪の色は……よくわからない。その彼女が、ベッドに座る俺の頭を抱え、優しく首筋をなぞる。


 もう、何時間も前に別れたはずの桃原が居た。


 いや、現れた。


 不意打ちに驚きこそすれ、悲鳴は出ない。俺の中の"主人公"が『どうしてここに……!?』と驚いているが、当の俺の身体には、言語を発する力すらなかった。


「そんなに難しく、考えないで」


 俺が口を開くよりも早く、桃原が言う。


「私は……君のことが大好きで。君が、私のことを必要としてくれるだけで、それだけで幸せなの」


 ただ、それだけでいいんじゃないかな。桃原は恥ずかしさを必死に押さえ込むように、声を絞り出す。


「…………」


「せっかくだし……もっと色々、楽しみたいな……」


 色々って、なんだよ。この世界の色々は……『色々』という表現でしかないんだ。


 その『色々』の中身こそが、俺に表現しきれなかった部分なのだから。


「そんな顔されると、こっちまで気分が滅入るのよね」


「大丈夫? 落ち着くまで、ずっとこうしてる?」


 桃原だけじゃない。島林先輩と大宮も……いつの間にか俺の両隣に居た。


 そして、皆一様に、熱っぽく、そしてどこか泣きそうにも見える潤んだ瞳を俺へと向ける。


「みんなが居る前だとちょっと恥ずかしいけど、今日は特別……」


 俺の言葉に耳を傾ける素振りすらなく、桃原が自分のブラウスのボタンに手を掛ける。


 それに倣って、2人も服を脱ぎ、肌を見せ始める。俺の心情ではなく、ただ本能に訴えかけるように。


 目が眩む景色……半裸の美少女に囲まれるという、ある意味男の妄想の原点にして頂点。それを眼前にしながら、俺の心は猛烈な虚無感に襲われる。


 これは……幻影だ。俺は、幻の中にいながらにして、幻から逃げ、幻に閉じこもろうとしている。


「なあ……」


 下着まで脱ごうとする桃原の手を掴んで止める。


「………どうしたの?」


「皆……教えてくれよ……」


 思い返せば、この世界に身を投じてからというもの、無意識に避け続けて、決して口にしなかった言葉があった。


 それを言ったらたぶん、色々と終わってしまうんじゃないかと、鈍いながらも察していたのだろう。


「……俺の、名前。俺は……誰だ?」


 桃原も島林先輩も大宮も……誰一人として、その問いに答える者はなく。凍ったように動かなくなってしまった。




    ♡




 気が付けば、俺は玉川上水沿いの道まで走ってきていた。


 真夜中とはいえ、夏の外気は生温く湿っていて、ぬめぬめと肌にまとわりつくようだ。


 いつだか、TEN○Aを投げ捨てた所に到達する頃には、すっかり汗をかいてしまっていた。


 別に、意味なんてない。


 動かなくなってしまった彼女達を見ていたら、途端に目が滲んで、惨めったらしくなって……逃げ出していた。


 俺には、彼女達をどうしてあげることもできない。


 今更、こんな俺の過去の記憶と知識だけで出来た世界で、ネタ切れを解消する術なんて有りはしない。


 俺は、現実から目を背け、自分を騙してこの世界を創った。全ては、己の欲望に正直になるため、そしてその先の幸せを掴むためにだ。なのに俺ときたら、この世界でさえ自分に嘘をつき、自分が自分でなくなっていくのを座して待つのみ。


 どこから。いつから。何がおかしかったのか。答えは出ない。そりゃそうだ、何から何までおかしかったのだから。人気のない玉川上水の沿道、うっそうとした茂みから静かな水の音が響く。


「クソ!」


 色々と起こり過ぎて頭がおかしくなっていたのかもしれない。


 悪態をついた次の瞬間には、俺は柵を飛び越えていた。


 勢い余って、茂みに足をとられバランスを崩し、斜面を転がりながら小川へと落ちて行く。


「クソ! クソ!」


 あちこち擦り切れて痛む。生臭い川の水にずぶ濡れになりながら、一心不乱にあの時投げ捨てたTEN○Aを探す。


 茂みに覆われた小川に街路灯の明かりは届かない。ここは本当に東京かと疑いたくなるほどの暗闇だ。見えない水底へ手を突っ込んでやたらめったらに掻き回す他ない。


 後悔か、郷愁か……はたまた憤りか……。


 俺自身、もう何がなんだか分からなかった。ただ、無性に、あの姿をもう一度見たいという、その思いだけが俺を突き動かしていた。


 この世界には存在しないのに、それでも……もう一度だけ会いたかった。


 今ならなんとなくわかる。アイツは、俺を縛っていた枷でもなく、ましては苦楽を共にした仲間でもない。


 TEN○Aは……TEN○Aでしかないのだ。


 そんな当たり前の事実に、やがて俺の体力は底をつき、精根尽き果ててその場にへたり込んでしまった。


「クソ! ……ごめん……。ごめんよ……」


 一体、誰に、何を謝ってるのか。


 わからない。わからなかった。


「…………何してるんですか?」


 水の流れだけを感じながら、暗闇で途方に暮れていると……唐突に、上から細い光が当てられた。


 恐らくは携帯のライト。その光源に立つ人の顔は見えなかったけれど、その声はよく知る人のものに聞こえた。


「……影山さん?」


「よくわかりませんが……取り敢えず、通報していいですか?」


 やっぱり、間違いなく、影山さんだった。

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