50.錯視




      ♡



 たんとん、かたかた。たんとん、かたかた。


 包丁がリズミカルにまな板を叩き、沸騰した蒸気が鍋のフタを忙しなく震わせる。我が家の猫の額ほどの広さも無いキッチンが、今みたいにキッチンとしての機能を果たすタイミングは存外に少ない。


 島林先輩が、珍しく──本当に珍しく、料理をしていた。少なくとも俺は、彼女がキッチンに立つ姿を初めて見た。


 カレーとチャーハンとカレーチャーハン以外ロクに作ったことのない俺でも、先輩の手際の良さは一朝一夕に身につくものではないとわかる。姿勢よくテキパキと料理を作っていく先輩は、空を仰ぎどんよりした眼でタバコを吹かすいつもの姿からは想像つかない。


「はい、できた」


 ものの1時間もしないうちにちゃぶ台に晩御飯が並ぶ。主食、主菜、副菜、汁物、と絵に描いて額縁に飾れるくらいの家庭的な献立だった。


「なんか、すいません。何から何まで」


「気にしないで」


 大した手間じゃないから、と先輩は缶ビールのプルタブを捻って気持ちのいい音をたてる。


「はい、乾杯」


「あ、乾杯っす」


 促されるまま、缶ビールをぶつけ合う。


 鈍い反動をそのままに、缶を両手に「くぅー!!」と可愛らしく唸る先輩。


「……先輩、ビールいけるんですね」


 なんだかんだ言って、彼女と盃を酌み交わすのは二人で鎌倉に出掛けたあの時以来だ。あの時は俺もいっぱいいっぱいだったから、島林先輩が何を飲んでたかなんて意識の外だった。


「………………」


「………………先輩?」


「かわいく、ないよね」


「ああいえ、そういうことでは」


「でも、夏はビール。清少納言だってそう言ってる」


「あはは……」


 生姜焼きを頬張りながら、くいっとビールを傾け幸せそうにする先輩に、俺は曖昧な笑いを返すことしかできない。


「どしたの? ボーっとして」


「え? ああいえ、先輩の飲みっぷりについ……」


「うっ……。ここはひとつ、見なかったことに……」


 先輩は思い出したかのように照れだした。


 なにかがおかしい。なんというか、いつもの先輩らしからぬ、というか……


 桃原っぽいのだ。


 俺とて、先輩はこんなこと言わない! なんて声高に叫べるほど彼女を把握できてる身ではないが、それでも、甲斐甲斐しく手料理を振るい、ちょっとオヤジ臭い仕草を指摘すれば照れだすその姿は、否応なしに桃原と重ね合わせてしまう。


「やっぱり、ぼーっとしてる。……疲れてる?」


「はは……ここんとこ、色々たてこんでますからね」


「む……」


 当人たち公認で女性をとっかえひっかえしているこの状況を混ぜっ返す俺に、かわいらしく頬を膨らませてみせるのだって、いかにも桃原がしそうなリアクションではないか。こんな時いつもの先輩だったら……


 先輩だったら、何を言うのか。いや。


 先輩だったら、何だというのか。


 おかしな方向に思考が研ぎ澄まされていく。


 きっと俺はこの時、相当険しい顔をしていた。島林先輩が、なんだか慌てたように身を乗り出してくる。


「……だいじょぶ?」


「大丈夫……なはずなんですけど…………」


 言い切る前に、先輩は有無を言わさぬ優しい手つきで、俺を抱きしめた。


「だいじょーぶ、だよ。きみが大丈夫じゃなくなっちゃっても……私は、大丈夫」


 酷く酩酊したみたいにクラクラする。するすると髪に指を通して俺の頭を撫でる先輩の手に、得体の知れない異物感がある。


「いいこ、いいこ……」


 バブみだオギャりだとはしゃぐ気力は無かった。目の前の、島林静香のカタチをした"なにか"に対して、俺は震える思いで言葉を紡いだ。


「先輩」


「……なーに?」


「先輩は……先輩ですか?」


 結局のところ、この問いは、前提からして間違っている。今ここにいる"島林先輩"は、俺がクソったれな現実から抽出した一種の理想像の投影であり、その見た目が先輩であることにさしたる意味などないのだ。ちょっとしたifで手が届きかねないところにいる異性の中から、たまたま彼女が選ばれただけ。


 それでも、訊かずにはいられなかった。


「いきなり、どしたの?」


 だから、こんな風に、いつもみたいに、不思議そうに首を傾げる先輩を見て、思ってしまう。


「……なんでもないです。忘れてください」


「…………なに、きみ、死ぬの?」


 彼女は、永遠に彼女のままなのだろう。


「いやそりゃ、人間なんだからいつかは死にますよ」


 残酷な嘘だ。この世界では恐らく…………人は、死なない。


「すぐそーいうこと言う。これでも心配、してるんだけどな」


「普段ハグしてあやしてくれるような人じゃないじゃないですか、先輩。そんで逆に俺が心配になっちゃってるって話ですよ」


「……酷くない?」


 普段。普通。普遍。彼女は、それらから抜け出せない。


「(以下、とりとめもない会話)」


 早い話、変にリアリティを出そうとしたのがいけなかったのだ。人のリアクションというのは、その時の状況やら気分やら相手やら、様々な要因が絡んで出力される。それを再現しようとして、俺の陳腐な妄想は"キャラの付け直し"という暴挙に出た。桃原に寄ったり、突然ママになったり。我ながら安易なことである。


 今までこの手の問題が露見していなかったのは、単純に俺が彼女たちのことをそれほど知らなかったからだろう。仲を深めて、一緒にいる時間が増えて、彼女たちの内面に触れるようになって。その内面とやらがどうやら無いようだと、世界おれは気づいてしまった。


 彼女たちは、キャラクターなのだ。


 大宮には、よーわからん属性が足された。キャラ立ちのために、複数の属性を利用するのは鉄板であろう。


 先輩は、多面性を付加された。キャラクターの様々な側面を描くことは、そのキャラの深みを増すためには必須と言える。


 そして、桃原は……。




     ♡




「やほー」


 桃原の髪が、真っピンクになっていた。

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