48.在りし日





    ♡



 どっかんどっかん景気の良い振動が天井を揺らし、蛍光灯の隙間に溜まった埃がだばだばと宙に投げ出されていくのを睨んでいるだけであっても、時間はゆっくりと進んでいく。


 いつか言ったかもしれないが、天文部の真上には武道場がある。これさえ無ければ最高のくつろぎ空間と言えるこの部室であるが、


「……そんなに気に入ったなら、持って帰ってもいいですよ、そのソファ」


「……わかってないな。わかってないったらわかってない。不便さを楽しむのも、また一興なわけ。わかる?」


 正直な話、こんなデカくてふにゃふにゃ、おまけに結構重いものを家まで持ち帰る気力なんて全く無いし、それ以前に、このソファこれ天文部室ここにあるのがいいんじゃんかよ、なんて言ったところで影山さんは首も傾げず「はあ。そういうものですか」と適当な相槌をうつだけだろう。


 そういう無駄なやりとりを楽しむのもまた一興、なんて余裕綽々に言うには頭上の爆音は耳障りに過ぎた。絶妙なラインである。


「それで……今日は何の用ですか」


 招集をかけた覚えはないのですが。影山さんは依然としてつっけんどんな対応だった。


「用っていうか…………まあ、冷房代くらい大学に持ってもらおうかなーと」


「暇なんですね」


 暇だが。悪いか。


「でも、影山さんが居るなんて珍しくない? 暇なの?」


「……暇に見えますか?」


 影山さんの傍らには、ツルツルのビニール生地がうずたかく積まれている。彼女は、何やら図面とにらめっこしながら、それらのビニールを並べ替えたり、じょきじょき切ったりちくちく縫合したりを繰り返していた。どう見ても暇人にしかできないことだ。


「揚げ足を掬うのが日に日に上手になってますね、佐倉くんは」


「いやいや、冗談だって。で、それなに?」


「……ドーム、です。プラネタリウムの」


「プラネタリウム?」


「ええ。天文部では毎年、学祭で自作のプラネタリウムを上映していたようでして」


「へ~。なんか、意外とそれっぽい活動してたんじゃん……あれ?」


 よたよたとソファから起き上がってみると、窓際で生地を縫い合わせる影山さんの更に奥、壁際の中量ラック最下段には、見るからに傷んだビニールがぐにゃぐにゃに丸められていた。


「あれってそのドームじゃないの?」


 俺が指差す先を流し目でちらりと見ると、ちょっと不機嫌そうに、頷きもせずこう言った。


「……ええ。確かにあれは、昨年まで使っていたものです」


「え? じゃあそれは?」


「新しいものを一から作ってるんです」


「なんで? まあ……確かに、結構傷んでそうだけど」


 ぼろっちい方を手に取ると、経年劣化で溶けたのか、ぺたぺたと粘着質な肌触りになっていた。おまけに、なんか臭い……すえた感じというか、色々と混ざり合ったケミカル臭がする。


「あー……それはあまり触らない方が……」


 広げたり嗅いだりしていると、影山さんが薄汚れた大学ノートを俺に差し出してきた。


「なにこれ? 学祭会計ノート?」


「まぁ、読めば分かりますよ」


 影山さんに言われるがまま、パラパラと中身を見ると、学祭に向けての準備なんかに掛かる経費がつぶさに記載されていた。


 俺の知り得る情報では、今は亡き天文部の先輩連中は、どいつもこいつも人間の罪深い部分を煮凝りにして抜群の人当たりでコーティング……し切れてないような印象だったのだが。意外と几帳面なところもあるんだな、と感心しながら捲っていると……明らかに筆圧強めに書き込まれた、とある頁の1節が目に留まった。そこには、学祭の前夜から最終日にかけての出来事がこう記されていた。


『あの野郎、やりやがった。本番前日だってのに前夜祭だと酒盛りして部室で酔いつぶれた挙句、ドームにくるまって寝ゲロ吐きやがった。本番まで時間ないし、拭けば問題ないだろうが……臭いが気になるのがネックか』


『思いの外、出費がかさんだ。予算の余剰と入場料じゃ打ち上げ代がペイできないので、協議の結果、全会一致でプラネタリウム本体他いくつかの観測器具をネットに売り出すことにした。バックは相場の8割程度だが、無いよかマシだろう。余ったら天皇賞にでも突っ込めばいいか』


 やっぱロクな連中じゃなかった。つか汚ねぇな、ちょっと鼻付けちゃったじゃんかよ!


「そんな訳で、時間も余っているところですし、現状、天文部が廃部の危機に瀕しているのは変わりませんから。プラネタリウムをグレードアップさせて、学園祭だけでなく、新歓にも利用できないかな、と考えていたところです」


 袖で鼻を擦ってゲロ成分を浄化しようとしている俺を横目に、影山さんは今日、ここで作業している経緯を淡々と述べる。


 絶対にわざとなんだろうけど、そういうのは、俺が触る前に先に言うのが仁ってものだろ。


「あ、除菌アルコールなら持ってますよ」


「いや、うん。鼻につけたら咽るよねそれ」


「それもそうですね」


 アルミラックに置かれたバッグから、ポケット用の除菌アルコールジェルを取り出す影山さんの顔は限りなく無表情に近かったけれど、どこかちょっとした悪巧みが成功した子供のような満足感を忍ばせているように見えた。



    ♡



 腐っていたとしても天文部員の端くれ、部長の影山さんがせっせと学祭準備をしているのに、それをただ傍観するわけにもいかない。


 影山さんに、俺でもできることはないかと尋ねたところ、取り敢えず、プラネタリウムの原板に穴を開けるための下書きを作って欲しいと、ネットで拾ったであろう星図を渡された。


 手伝いを申し出た時に、未だかつてないほどに影山さんが目をまん丸に見開いていたのが割と心外だったが、俺も大概彼女には失礼なことを言っているので、そこんとこはイーブンである。


 作業自体は単純で、星図に書き込まれた切り取り線に沿って紙を切り分けて、天球に使う透明のアクリルボウルの内側に貼っていくだけである。小学生の夏休みの自由研究レベルだが、恐らく俺に任せられる仕事なんてこんなもんしかないのだろう。それでも、ともすれば、大学入学以来もっとも天文部らしい活動をしている気がする。


 部室は影山さんと俺の二人きり。


 影山さんはドームに使うビニール生地をせっせと縫い合わせ、俺は俺で結構手元の作業に集中している。部室に存在する音は、天井越しに伝わるどったんばったん大騒ぎばかり……では無かった。


「~♪」


 俺は今、ビックリを通り越して半ば戦慄しているのだが……影山さんがやけに上機嫌だった。


「~♪ ~……♪」


 幻聴かと己の耳を疑っていたのだが間違いない。微かに、とぎれとぎれにだが鼻歌を唄っているのだ……。聞き間違いでなければ、影山さんは、笑点のテーマを延々リピートしている。


「影山さん、笑点好きなの?」


「はい?」


 我慢しきれずに聞いてしまった……。影山さんはピタリと手を止めて高速で此方に目を向けてくる。


「いやね、鼻歌を唄い遊ばせていましたので」


「私がですか?」


「うん」


「そうですか……。完全に無意識でしたね。まあ、好きですけど、毎週欠かさず見ているわけではないです」


「そっか、うん」


「なんですか歯切れの悪い……」


 別に、俺だって笑点トークで影山さんと盛り上がろうと思っていたわけではない。聞きたいことは、また別なところにあった。


「言いたいことがあるなら、言ってみてはどうでしょう」


 よっぽど、俺は顔に内面が出てしまうのか。


 正直なところが佐倉君の唯一の長所でしょう、と影山さんは絶妙に俺を貶しながら促してくれる。


「なんかさ、影山さん、機嫌良さそうだけど……彼氏とかできた?」


「……馬鹿にしてます?」


 俺は答えに窮した。なんたって俺はいつだって影山さんをバカにしてるし、でもそれはたぶん影山さんも同じなはずで、つまりこれは不文律であった部分なのである。


「ああいえ、言いたいことは理解できますが。結局それ『無愛想な女がヤケに丸くなってるけど、男でもできたか?』てことですよね?」


「いや! 違う! マジで他意はないです」


「まあ……そうなんでしょうね。つくづくデリカシーの無い……」


 相手が私だから、ぎりぎりでアウトくらいに収まっているだけだということを自覚すべきだと思いませんか、なんて影山さんは言うけれど。彼女も随分と性格が悪い。





 なんたって、こちとら影山さんの他に言葉を交わす異性なんて、全然いやしないんだから。





    ♡



「今日はこの辺にしておきましょうか」


 俺が天球に星図を貼り終えたのを見計らって、影山さんは手を止めて言った。


「あ、こんなもんでいいの?」


「作業はまだまだありますが……学祭までは時間がありますし、のんびり進めていても間に合いますよ」


 それこそ、歌の1つや2つ口ずさみながらでも。影山さんはちょっと恥ずかしそうに言った。照れるなら言わなきゃいいのに。


「おっけ。了解」


 体力に余裕はあったが、時間は結構経過していて、最寄り駅でラーメンを食べて帰るのにちょうどいい頃合いだった。


「今日はありがとうございました」


 とっちらかった部室を片付けていると、影山さんは丁寧にぺこりと頭を下げて言った。


「………………え?」


「……何を驚いているんですか」


「いや……お礼を言われると思ってなかったから……」


 つい漏れてしまった俺の本音に、影山さんはなにやら言いたそうにしていたけれど、咳払い一つにとどめてくれていた。


「で、影山さん、次の作業はいつ?」


「………………はい?」


「……なんでそんな驚いてんのさ」


「いえ……まさか佐倉くんの語彙の中に、そんな真人間めいた言葉があったとは思いもよらなかったので」


 お互いがお互いをどう認識しているか、良く分かる瞬間だった。


「いえ、実際のところ。作業自体は私1人でも問題ありません。というか、いちいち佐倉くんでも出来そうな仕事を振るのも面倒でして」


「んなこと言わずに手伝わせてよ。俺だって、ほら、暇だし」


「……別に、私に優しくしたところで、これといった特典はありませんが……」


「そんな、俺がいちいち見返りを求めるようなセコい人間に見えますかね」


「この上なく」


 影山さんは短く鼻で嗤った。


「しかし、そこまで言うなら、そうですね。作業の日は予めメールかなにかでお伝えするようにします」


 強制でもないので、予定があるなら無視していただいて結構ですよ。


 丁寧に影山さんは付け加えてくれた。たぶん、その言葉は彼女の中にミジンコ程度には残った俺への配慮からくる、本心そのままなんだろうけど……影山さんが言うと『当日は軽装で結構です』くらいの重みを感じる。


 ただ、久しぶりに過ごした天文部での2人の時間は、予想以上に居心地がいいというか……ぶっちゃけ楽しかったから……素直に、また参加したいなと俺は思っていた。


「力仕事は任せてくれ」


「突然頼もしいですね」


 胸を叩く俺に、影山さんは無表情のままに眼鏡を正す。


「では、帰りのついでに1つ頼みごとをしてもいいですか?」


「お、なんスか」


 影山さんは、ラックの隅っこに丸め込まれた、件のゲロ浸しのドームを指さした。


「これ、ゴミの収集ボックスに投げといてください」


「……ああ」


 ちょっと機嫌が良くても、やっぱり影山さんは影山さんだった。

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