41.夏休みの中の夏休み




     ♡



 7月はあっという間に過ぎ去ろうとしていた。


 大学というのは概ね、前後期からなる二学期制であり、うち前期は4月から7月いっぱいまでとなる。


 つまりは、7月は大学生にとってテストシーズンなのだ。


 当月下旬の2週間に渡り、大学側が定めた試験期間が設けられていて、通常はその週にあるコマが、そのまま試験になる。がしかし、試験を実施しない代わりに、長大なレポートの提出を要求してくる講義や、試験週間前の最後のコマで抜き打ち試験をするのではないか、と根も葉もない噂で持ちきりな講義があったり。


 忘れてしまいがちだが、この島国における最高学府は他でもない"人生の夏休みだいがく"であり、出席とらないからって普段サボりがちな講義であっても、ちゃんとワケのわからない内容なのである。土壇場でマジメなヤツから板書をせしめれば一夜漬けでどうにかなった高校時代とは違い、土石流の如く押し寄せる専門用語に轢き殺されること請け合い。


 では、過半数を占めるであろう、俺みたいに学ぶ気力の無い学生はどうすればいいのか。もっと言えば、島林先輩のようなバ……お世辞にも学力にステータスを振っているとは思えないサボり魔が、どうしてダブらずにいられるのだろうか。


 活路は、情報にある。


 早い話、過去問だ。小中高みたく、毎年趣向を凝らしてテスト問題を作り変えるような殊勝な教授なんてのは、大学には早々いない。そこにはきっと様々な理由があるのだろうが、事実として過去問が手に入れば8割がたなんとかなる、というのを抑えておけばオーケーだ。

 

 そして、大半のサークルがそうであるように、我らが『観研』もまた、過去問の集積地としての機能を果たしていた。


 桃原がどうだったかは知らないが、俺にとってサークルに所属する目的の第一義はこれだった。


 俺の方針は、単位の取得にかかる最低限の点数を、最低限の努力で掴みとろう、というものだったが、それでも過去問を頭に詰め込むには相応の時間が掛かる。

 

 桃原はなにかと俺と"勉強会"をやりたがったが、俺は断腸の思いでその悉くを固辞した。きっと彼女が想像している"勉強会"というのは、お互いのわからないところを和気あいあいと教え合うそれであって、おそらく問題文のキーワードと解答を紐付けて暗記する作業ではない。


「隣にいるだけでいいんだけどな……」


 消え入るような声でそう零す桃原に、俺は心を鬼にしてこう告げた。でも、隣にいたら……それこそ勉強どころではなくなるわけで。


 真っ赤になって俺をぽこすかする桃原を拝めただけで、その場は十分であった。


 島林先輩は始終ゾンビみたいな顔でタバコをふかしているし、大宮に『最近試験期間で大変なんだよね』なんて大学生っぽい話を振ろうものなら一生5分くらい口聞いてもらえなくなるのは目に見えている。


 そんなわけで、ヒロインズとの接触機会は目減りしていた。だが俺とて、最早この程度では動じない。というか、俺なんかよりよっぽど彼女らの方こそやきもきしているんじゃないだろうか。


 なんたってあいつら、俺に惚れてるんだから。……いくら妄想とはいえ、自分で言ってて背筋が寒くなるな、これ。ハーレムもののラブコメ主人公が鈍感な理由がわかる。そうじゃなきゃ、到底見れたもんじゃないからだ。


 だが俺は、人様を楽しませるためにラブコメやってるわけじゃない。俺自身の幸せを掴むためには、正しい現状把握は必須であろう。


 ……いつだったか、自己の正当化において俺の右に出るものはいない、なんて影山さんに言われたっけか。彼女とも、ずいぶん顔を合わせていない。


 初めての試験を前にあたふたしてたってのも決して嘘じゃないけど、やはり、彼女の幸せを蹴り飛ばした後ろめたさから顔を合わせ辛かったというのが本音である。


 それでも俺は、最後の試験が終わると、なぜだか自ずと天文部室に足を運んでいた。なに、影山さんも『出直してくる』なんて言っていたわけだし、内心はどうあれ表向きは喧嘩別れというわけではない。大丈夫、いつも通り、いつも通り……


 結構な気構えを込めてドアノブを捻ると、半ばで固い手応えがあった。施錠されている。


 そういえば、最近は行くたび影山さんがいるから、ここの鍵に手を掛けることも無かった気がする。


 脱力したまま鍵を開け、人を駄目にするソファに身を沈める。何か物足りない。……そうか。


 上階の武道場のスプリングが軋む中、電気ケトルの電源を入れて、インスタントコーヒーをこしらえる。


「うぇ、にっが」


 真夏の蒸した部室で飲むコーヒーは、熱くて苦くて飲めたものじゃなかった。どうやら、普段俺が飲んでた影山ブレンドはブラックそのまんまってわけじゃなかったらしい。


 それでも、入念に息を吹きかけ、熱を冷ましてから一気に煽ると、カフェインが俺のアンニュイな気分を吹き飛ばしていく。


 一夜漬けの連続で、どこかに抱えていた眠気が取れる。俺はよっこらせと身を起こし、気合いを入れ直した。これから待つ、あらゆる意味でアツい夏に向けて、俺は誰もいない天文部室を後にしたのであった。



     ♡



 普段、例会以外ろくすっぽ活動のない『観研』でも、夏休みには最大級の行事がある。何を隠そう夏合宿だ。


『観光事業研究会』の合宿だからして、当然、男女仲良く観光するだけなのだが……大学側への活動報告の必要性から、3泊4日という中々に歯ごたえのある日程が組まれていた。


 ここで、日程の合わない部員は敢えなく辞退となるので、兼サーしていたりそもそもやる気のない部員は軒並み欠席になる。人数だけで見れば大所帯なサークルだけれど、実際に合宿に参加する人数は20人くらいになった。


 日程も確保した。人数も確定した。残すは、最大にしてメインとなる議題、何処へ行くか……であるのだが……。


「海なんて、ウチみたいに地味なサークルじゃまず有り得ないと考えていたんだが……」


 照り返す灼熱の日差しに当てられ、額に汗を浮かべながら、サークル代表のメガネ先輩がしみじみと呟く。メガネを外した状態でいきなり隣に立つものだから、一瞬誰か分からなかったが、代表で間違いないだろう。


 そんな彼の言葉通り、俺達『観研』は海へと来ていた。静岡は熱海を通り越し、伊豆半島の海水浴場である。


「実際、最初は女子も難色示してましたし……」


「う〜ん……そう言う意味では、稲田のごり押しが役に立ったな」


 旅の主題たる目的地の設定は、例会の全体報告が終わった後に、参加者のみで膝を合わせて行われた。しかし、議会はウィーン会議もビックリなほど遅々として進まなかった。


 クリアすべき課題が多すぎたのだ。


 第一に金銭的問題、懐に余裕のない学生の旅であるからして、経費の圧縮は至上の命題である。移動手段もさることながら、宿なんかもなるべく安いところが好ましい。


 第二に時間的制約、これは3泊という長い時間を、退屈せずにそれなりに楽しめるスポットが点在していることが求められていた。


 そして第三にネタかぶりの回避である。在籍しているサークル員がこれまで行ったことが無く『行ってみたいかも』と思える場所でないと、旅先でつまらなそうな態度をされても飯が不味くなるばかりである。


 最初は、各々が欲望の赴くままに『関西の有名な温泉地』『夏は暑いから北海道』『どうせならここはでっかくヨーロッパ周遊』とポンポンと意見が出されたが、そのどれもが課題をクリアしきれずに見送りに次ぐ見送り……。結局、関東近辺の観光地にするのが妥当か……と代表が折衷案を模索し始めた辺りで、アイツのうわっついた一声があがったのである。


「やっぱさ、夏と言えば海っしょ」


 稲田チャラ夫である。場が紛糾したところを見計らっての発言だった。


「え〜……」


 すかさず、女性陣から不満の声が飛んでくる。無論、下心が見え透いていたからだ。最大のお目当ては島林先輩のおっぱいであることは火を見るより明らかであった。それに、桃原を始め、『観研』にはそれなりに綺麗どころがそれっている。チャラ夫の眼は、千載一遇とばかりに血走っていた。


 チャラ夫ではなくとも、夏といえば山、川、よりやっぱ海だし、大学生にもなってしまえばそうそうお目にかかることのない『同じ学校の女子の水着姿』を見てみたい……というのは、なにもチャラ夫に限らず我々男子が胸に秘めていた希望である。


 しかし、『観研』の女性陣は皆揃って身持ちの堅そうな人が多く、他人に肌を露出することに抵抗がありそうだな……というのは、ここ数ヶ月で充分察することができた。


 そういう事情を読んで、チャラ夫を除く男子は、海という候補を敢えて外して話していたのである。ただ、矢面に立って男子の心根を叫ぶその日のチャラ夫に、男子達は若干引きながらも、ワンチャンあるかもだから頑張れ、と熱いエールを送っていただろう。その証拠に、中立的な代表すらも、黙して語らず、チャラ夫と女性陣の論戦を見守っていた。


 俺は、合宿とは別でヒロインズとプールに行こうと計画していたので、ぶっちゃけどっちでも良かった。男子諸君とは、立つステージが違うのだから、口出しは無粋である。


「え、マジで!? 皆、海行きたくない感じ?」


「だって紫外線キツいし」


「海水ってベタつくし」


「魚よりは肉かな………」


 上級生女子が、口々に海に対する反対意見を述べる。最後の少しズレた意見は、頬杖着いた島林先輩のものである。


「なんだよ〜、皆ノリ悪いな〜」


 やはり、プレゼンターがチャラ夫では論外か。代表が静かに首を振り、俺の隣の一年男子は小さく舌打ちする。


 河原BBQとかでワンチャン水着持参に賭けるしかないのか。そんな諦めの空気が流れている中、しかしチャラ夫の目はまだ輝きを失っていなかった、希望……いやそれよりも確かな、確信めいた未来を見据えていた。


「せっかく、伊豆で親戚が旅館経営してたから、交渉してみようと思ったのになー」


 わざとらしくチャラ夫はとんでもない餌を垂らしてきたのである。


「りょかん……?」


 そして、その予想外の言葉に、議会に顔を出す全員が食い付いたのである。


「俺のおじさん、ココのオーナーなんよ」


 そうして、用意しておいたかのように、チャラ夫がスマホでかざしてきた画面には……三つ星旅館のホームページが映っていたのであった。


「──格安であんなにいい宿に泊まれて、おまけに海でリア充っぽいことまでできる。今回に限っては、稲田様々だな」


「最初はその場の出任せかと疑ってたんですけど……人ってのは分からないですね」


 無駄に筋肉質な代表が高笑いする度に、胸筋の筋がヒクヒクと震えた。……これまで余り意識してこなかったが、この人はこの人でアクが強い。


 しかし、代表の言う通りである。まさか、チャラ夫にあんな設定を盛り込むなんて……最近の俺は冴えている。やはり、凡庸な俺と育ちが普通なヒロイン達が、身の丈から外れた非日常を味わうには、お嬢様キャラかスネ夫ポジが必要不可欠だったのだ。


「な? 俺、超ファインプレーっしょ」


 背後から得意げに現れたチャラ夫が、代表の肩に手を回す。


「今回は色々と助かったよ」と謝辞を述べながらも、しれっとチャラ夫の腕を掴んで肩から外す代表……。今回の件で、男子連中からチャラ夫の株が爆上がりしたことに間違いないが……それはあくまで彼のステータスに依拠するもので、その人格まで受け入れられたわけではなかった。悲しいかな。


「男子集合!」


 女子が着替えている間、ブルーシートやパラソルの設営、浮き輪の準備などを率先して進めていた残りの男子を、代表が召集する。


 普段のだらけきった様はどこへやら、軍隊ばりの駆け足、整列休めで居並ぶ男子たち。


「あー……。さっき島林からラインが来ていたが……。もうちょいしたら、女子が着替え終わってココに集合する」


 真夏に上裸で寄り添って、ただでさえ気持ち悪いのに、いよいよ迫る肌色に、男子の熱量は危険な領域へ。……いや、俺だって肌色には慣れてきてはいるが、桃原や島林先輩の水着は大変気になるところであり、つまりは俺もソワソワしていた。


「お前たちの気持ちは分かる。だが、あんまりにもヤらしい目で見たり、変に手を出したりして不祥事を起こさないように! あくまでサークル活動だからな。俺が責任問われちゃうから」


 組織の長として、代表が最低限の言葉で、行き場のない性欲を己に保持し続ける悲しき男子達へ釘を指す。


 日陰者というレッテルを張られているが……『観研』がこうして俺が居心地良く感じられるのは、良識を備えた代表がいて、人の道理を外れないようにしていてくれているからなのかもしれない。


 この熱気に乗っかるのも、たまには悪くないだろう。これは普段のデートとは違う。無論、桃原達の水着は気になるけれど、今日はあくまで『男子』で『女子』の水着を眺めるのが主題なのだ。持てる物は、持たざる物に視点を合わせることができる。そこから見える景色というのも、また乙なものだ。


「んなこと言っちゃってさー。代表が一番ムラムラしてんじゃねぇの?」


 砂浜が謎の連帯感に包まれる中、チャラ夫が下品なヤジを飛ばす。


「それは心配ない。今の俺は…………賢者だ」


「あ、そっすか……」


 チャラ夫がドン引きするくらいに、代表もテンションがおかしかった。


 夏が、始まる。

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