39.愚者のラブコメ
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コーヒーカップをテーブルに置くウェイターの手が微かに震え、真っ黒な
議論の余地がないほどに答えは明白だったが、そんな下らない問いにかかずらうくらいには、俺も気まずい思いをしていた。
桃原に指定された喫茶店に入れば、すぐに彼女の後ろ姿が目に入った。この時点でだいぶ帰りたかったが、さらなる視覚情報に俺は思わず眩暈を覚え、四、五回まばたきをするハメになった。
桃原が待ち構えているボックス席には、なんと島林先輩と大宮のものと思しき後頭部まで並んでいたのだ。それも、桃原に浮気がバレたあの日と同じ配置で──つまり、片側のシートに3人ぎゅう詰めになって微動だにせず俺を待っていた。あの日の続きだとでも言わんばかりである。
なるほどあの時の俺は、何の先ぶれも無しに訪れたピンチと、とにかくその場を誤魔化そうとする必死さに身体が突き動かされていたのだろうが、今日は違う。こうして改めて場を設けられてしまうともう駄目だった。
めっちゃ帰りたい。
当然、俺だってただただ恐れ慄いていただけってわけじゃない。今日何が起こるか、何を言われるか、何を言うべきか。それらを家でひたすら座禅を組んでシミュレートしたりもした。
しかし、ごくごく常識的に考えれば、影山さんの言う通りに桃原と別れるか彼女以外を切るか、二つに一つの道しか思い浮かばない。
ここからどうにかハーレムルートへ舵をとるならばそれこそ、催眠術、媚薬漬け、快楽調教、etc, etc…….
俺の思い及ぶところにある手段が揃いも揃って非現実的であることが、逆説的に現実的な選択肢の少なさを示している。
目の前に答えがあるのに気づかないフリをして、延々と悩み続けるポーズをするという意味では、今この状況でさえ俺のスタンスは変わっていない。現実逃避は得意中の得意なのだ。
なんなら、そんなパーソナリティを持っていなければ、ハナからこの世界に逃げ込むことも無かったわけで、こればっかりはどうしようもない。
俺は居直り始めた。
最早何をしても無駄なのだ。死にそうな顔で平謝りが俺にできる唯一のことであり、3人の顔色を伺って、いちばんドン引きしてなさそうなコの懐に泣きながら飛び込めばいい。着地点が用意されているだけ、有情ではないか。
影山さんをして諦めが悪いと評される俺であるが、おそらくそれは正確な表現ではない。
俺は単に、決断が苦手なのだ。
「…………」
だから、こうして諦めきって迎えたはずのこの場でさえも、悠然とコーヒーを飲むべきなのか、おどおどと言い訳を連ねるべきなのか、尻尾をまいて帰るべきなのか、取るべき選択肢が見えない……わけではなく。
"選ぶ"という行為自体が、俺の根本と噛み合っていないのだ。
それ故の沈黙である。席に座る際のちょっとした挨拶と飲み物の注文を除けば、言葉は無かった。四人も集まっていてこれは確かに異様としか言いようがない。
まるで(というか事実として)、3人が3人、俺が口を開くのを待っているようだ。
果たして、最初に痺れを切らしたのは、桃原だった。
「飲みなよ」
「……へ?」
「冷めちゃうよ?」
俯く俺の額に、桃原の声が直撃する。ずいぶんと久しぶりに聞いた気がするその声は、本当に彼女のものなのかと疑いたくなるほど抑揚が無かった。
「あ、ああ……そうだな」
しかし、緊張で喉がカラカラだったのも事実なので、言われるがままにコーヒーへと手を伸ばす。もはや熱を失ってしまったカップを口へと運ぶ瞬間、桃原の表情をチラ見したことを俺は激しく後悔した。年中笑顔で、なんなら少女漫画のコマみたく周囲にポコポコと花を咲かせているような彼女が、物静かに俺を見つめる様はなんというか……理知的だった。当社比偏差値プラス20くらいはある。
会話とも言えないやりとりが終わると、再びのお通夜ムード。俺がソーサーにカップを置く乾いた音がやたらと大きく響く。
「この前のことなんだけど」
その音を合図に、桃原は重々しく口を開いた。
「ああいや、その……。俺が最低なコトしたってのはそのとおりで、今更言い訳なんてできないけど」
「まあまあ。落ち着きなよ」
緊張感に押し出されるように、要領を得ないことをベラベラと話し始める俺を、さっきまで無言でアイスラテに刺さっていたストローの先っぽを弄っていた島林先輩が制した。
この人の空気の読まなさも筋金入りだな、と俺が冷や汗をかいていると、あろうことか先輩は、隣に座る桃原と、更にその奥で小さくなっていた大宮に向かって意味深に微笑んだ。
それに対し桃原は神妙に頷き、大宮は溜め息で返事する。そこに、この前のような剣呑な雰囲気はない。
……どうやら、彼女らとのつながりが途絶えていた3日の間に、彼女らの間でなにかしらの合意がなされていたようだった。
「あのね、私達だけで一回話し合ったんだ」
「そうだったのか……」
「私は……浮気は許せないし、すっごい悲しかった」
「ごめん……」
桃原の中で、もう結論は出ているようだった。今に至る長い沈黙だって、なにも俺の弁明を待っていた訳ではなく、彼女が話を切り出すのに時間を要していただけという話。今日こうして俺が呼ばれたのも、あくまでただの結果報告なのだ。
これは……本格的に先輩と大宮に慰めてもらう(意味深)ほか無さそうだぞ、と俺が悲壮な心持ちで最低な覚悟を決めかけたところである。
「でも、やっぱり、きみのことは大好きで……別れたくないの……!」
「……はい?」
「それに、先輩のことも大好きだから、今更嫌いになんてなれないよ」
「えーっと、桃原……?」
「でもやっぱり浮気は嫌だから……だから」
言葉を溜め、ほんのりと頬を紅潮させる桃原を、固唾を飲んで見守ること約2秒。
「今日から夏休みが終わるまでの間に、誰がいちばんか、キミに決めてもらおうと思うの!」
「……へ?」
高らかにそう宣言する桃原を、俺は一体どんな顔をして見ていたのだろう。
「いやいやいやいや……なんて?」
突拍子もなさすぎて一口に理解することができなかった俺に、桃原は、先日開催されたという美少女談合の結論を懇切丁寧に説明してくれた。
第一に桃原は俺と別れたくない。しかし浮気は許せない。
だからといって、大好きな先輩が俺のことを好きなるのもわかるし、大宮も右に同じくである。
だから、ここは恨みっこなしで、桃原たち3人と俺との関係を一度フラットにして、一定期間を設け、その間に俺に誰か1人を正式な彼女として決めてもらおう……と。
「な……なるほど……?」
これが、お人好しが過ぎる桃原が、苦悩の末に出した折衷案だったのである。
一通りの解説を理解すると、心にのしかかっていた罪悪感という重石が、ほわほわと蜃気楼のようにかき消えていく。
なるほど……。
なるほどな。
そうか、そうきたか……!
気づけば全身の毛穴という毛穴が粟立っていた。俺は、俺の無意識を心底畏怖していた。
確かに、このロジックであれば、ハーレムの期間を延長しつつ、桃原の人間としての無垢性もそのままに保持できている。聡明にして博識な読者諸君であれば、このようなスタイルを取る物語を一般的にどう呼称するか、すでにおわかりだろう。
これは……“ラブコメ”だ。
「というわけで……先輩も大宮さんも、これからは
怒涛の展開に内心チャラ夫並のガンギマリスマイルをキメてる俺の気を知ってか知らずか、桃原はふんすと息巻いた。
「私は別に、二番だろうが三番だろうが、好きなときに好きな人に会えればいいかな、って思ってたんだけどね」
「先輩! そーゆー発言はずるです! イエローカード!」
「……ごめんごめん、冗談だってば」
いつもどおりの悪戯っぽい笑みでウィンクする先輩に、桃原はすかさず噛み付く。数分前までのヒリついた空気は嘘のように消え去っていた。代わりに在るのは、1人の男を取り合う美少女達の微笑ましい掛け合い……なんて平和なバチェラー・ジャパン……。
「あのさ……やっぱ、私……おりていいかな」
しかし、大宮だけは、どうやらスタンスが違うようだった。俺争奪戦線(自分で言うのは面映ゆいが)からは一歩退きたいようで、おずおずと手を挙げている。
「え? いいの?」
「いやー……2人ほどお熱ってわけじゃないし? これまで通り友達でいいっていうか……。ホラ、それに私、受験生だし?」
着々と好感度を積み上げていた桃原と先輩とは違って、大宮は一足飛びに俺との距離を詰めた仲だ。出来上がった関係性に1人放り込まれれば、違和感を覚えるのは当然。
なるほど、ヒロイン3人はやや現実感に欠くし、その線で俺の無意識の調整がなされたのだろうか……。
なんてすぐ弱気になる俺は、さきほど死んだ。
なんせ俺は……人よりちょっと、ラブコメに詳しい。オタクなので。
だから、結局大宮だって参戦するし、今どう転んでも多少の回り道があるかないかの違いでしかない、ということも知っている。ゆえに俺は、どっしり構えて事態を静観することとした。
「ふーん……。本当にそう思うなら、ライバルが減るわけだし、私は構わないけど」
止める道理もない、といったふうにストローを咥える島林先輩が気のない返事をする。
「認めません!」
しかし、桃原がそれを許さなかった。なんという……ラブコメ。
「え、なんでよ……」
「だって、あの時大宮さん……ううん、かおるちゃん、本気で好きだって言ってたじゃん! 私達、ひざを合わせて話し合った仲じゃん!」
「なはッ!」
コーヒーに口をつけていた大宮は盛大に噎せた。
「ここまできて、自分に嘘吐くなんて……そんなの絶対認めないから」
「いい、言ってねーし! こんなせっそーなしのオタクなんか全然好きじゃないし!」
「先輩も聞いてましたよね?」
「きいたね」
「ああ、いや、あれは……その場の流れを壊さないよう、あたしなりに気を回した、と言いますか……」
「のわりに、結構語ってたよね。なんだっけ……『最初はホントにただの気の合う友達って感じだったけど、最近はなんか、かわいいところもあるんだなぁ、というか、そばにいると心が….」
「あーあー! 私が悪うござんした! だからそれ以上は!! ご勘弁を!」
俺に良く見せる意地悪な微笑みをたたえて諳んじる先輩を、顔から火が出そうなほどに真っ赤になった大宮が、喚き立てて止めに入る。
「えっ……えっ?」
「こっち見んなバカ!」
「す、すまん……」
図らずも目が合ってしまった。俺を見た大宮は、更に顔を赤くさせて吠える。
……ラブコメだ。
「もういいです! 分かりました! 言いました! 言いましたよ! 心だってカラダだって満たされてましたよ、ええ!」
このやり取りだけで1日分のカロリーを使い果たしたかのように、大宮はボックスシートにどっと沈んだ。気恥ずかしさで目尻に涙を溜め、恨めしそうに俺を睨んでくる大宮は、まあ可愛かった。
「よろしい」
敵であるはずの大宮の退場を食い止め、桃原は満足げに頷いた。
お互い死力を尽くし、ぶつかり合い、決着をつけてこそ、桃原の溜飲は下がるのだ。愚直でお人好しな桃原らしい……と言えば聞こえはいいが、これも大きな因果の流れに過ぎない。桃原の一途な性格を曲解し生じた、『頑固者』という彼女の新たな一側面から導き出された
驚きはなかった。代わりに俺の胸の裡にあったのは、なるほど、そういうパターンか、という納得。ようやく俺はこの世界の約束を理解した。
俺は、何もしなくていいのだ。
全ては、俺の都合の良い方向に収束する。今までの俺は無駄に猿知恵を働かせ、彼女達をどうにか喜ばせようと奔走していたが……それは甚だ見当違いというもの。なんの努力もせず、甘い汁の上をぷかぷかと漂う。そんな世界を望むのが俺の本質であり、この世界は限りなくそれに近しいものを実現してくれる。結論は決まっているのに、変に張り切って余計な茶々をいれるから、今回の様なトラブルが発生するのだ。
いや、しかし……それすらも結局、解釈に解釈が重ねられ、自己修復──それどころか、俺を甘やかす方向に肥大化していく。いままで己の常識に囚われて勘違いしていた。この世界での正しい生き方、それは、圧倒的に慢心し、心の赴くままに行動する事だったのだ。
「話も決まったことだし。細かいルールも決めときませんか?」
「ルール?」
「争い事とはいっても、お互い最低限のルールは設けるべきだと思うんです」
「お互いの悪評をばら撒くのはやめよう、とか?」
「そうです! そんな感じ!」
「あー……なるほど。つか、島林さん、そんなこと考えてたんすか?」
「私、そんな性格悪そうかな……」
「いやー、結構いい性格してると思いますよ」
「あのー……」
俺を抜きに、ワイキャイと盛り上がりを見せる彼女達に声を掛ける。
「なに?」
これは……様式美だ。
「まあ……こうなった原因もぜんぶ俺なわけだし、今更どうこう言えた立場じゃないってのは分かってるんだけどさ」
ここでこれを言わずに終わるなど、それこそ画竜点睛に欠くというもの。
「これって……俺に拒否権とかある?」
「「「ないけど?」」」
口を揃えて、期待通りの返事がくる。
そう。これだよ。これがラブコメだよ……!
「ですよねー」
俺は、内心で、何度も何度も頷くのであった。
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