38. 孤独なるヴァン・マーネン



     ♡



 状況は、控えめに言って最悪だった。


 人生初の修羅場を前に為す術なく敗北してから、3日が経過していた。あれから、桃原から怒りをぶつけられたり、大宮から糾弾されたり、果ては美女三つ巴の仁義無きキャットファイトが繰り広げられたり……なんてことは無かった。いやむしろ、そうであった方が幾分救いがあったかもしれない。


 ちょっと大げさに言えば、村八分に近い。


 LINEを送ろうが既読スルーだし、『観研』に行ってもお目当ての2人はいつも不在。大宮とは結局あの後一緒にバイトに出たけれど、終始気まずいまま退勤時間を迎えて、特に会話という会話もしないなんて有様だ。


 俺は不必要なまでに繊細な心の持ち主なので、他人から怒られたり貶されたりするとすぐに凹む。しかしこの際、叱られようが泣かれようが、なにかしらのリアクションが欲しかった。無視っていうのがリアクションなんだよ、と言われたらそれまでだ。どうしようもない。まさにお手上げだった。


 幸運なことに、俺如きポンコツオタクが三股かけてたっていうとんでもないスキャンダルはまだ広まっていない。しかし、そんなことだけを拠り所に俺が平気な顔で社会生活を送れるかと言われれば、もちろんノーである。繰り返すが、俺は繊細なのだ。


『観研』の他の連中やその他麻雀仲間とつるむ気にもなれず、そうすると足を運ぶ場所は自ずと決まっていた。


「……佐倉くんは、私のことをドラえもんか何かだと思っていませんか」


 天文部室に入ると、お約束のように影山さんが呆れ返っていた。俺の近況など手に取るように分かっている彼女には、最早言葉は不要である。俺の心の声も、ちょっとした便利機能になりつつある。


「いや別に、泣きつきに来たってわけじゃなくてね。ちょっとばかし指針というか、そういうものが欲しいなー、と思って」


「……併せて言えば、ここは懺悔室でも無いのですが」


 やれやれと首を振りながら、影山さんは装着していたゴツいヘッドホンを膝の上に置いた。


 一見すると、なるほど彼女も吹奏楽部とかに所属してそうな容姿ではあるし、音楽にも精通しているのかしらんと思ったのだが、


「どうやら、ノイズキャンセリングは佐倉くんの心の声にも有効なようでして」


 騒音作業用のイヤーマフと迷いましたが、普段使い重視でこちらにしました。そう語る影山さんはどこか得意げだった。


 ……いや、この子ちょっと自分見失ってない? それじゃまるで、借金のカタに地下で強制労働させられている中、135ml缶のビールに殺人的愉悦を見出す博徒のような喜び方じゃないか。


 しかし彼女がゴキゲンな理由は、それだけじゃなかったらしい。


「月並みな言葉ですが、ざまあないですね」


 なにがノイキャンだよしっかり聞いてんじゃんよ。


「……残念なことに完全に遮断、とはいかないんですよ。…………いえ、ともかく。わたし、ちゃんと忠告しましたよね。身に余る"求め"はやがて身を滅ぼすと」


 蝋で固めたニ翼で天高く舞い上がり、太陽に近付きすぎたがゆえに蝋が溶けて失墜したイカロスの神話と同じですね、と影山さんは言う。


 確かに、同じような意味のクッソ投げやりな忠告を受けた覚えはあるが、明らかに後付けで具体的に俺を貶しにかかってるし、そもそも神話に寄せなくていい。


「だからって妥協して生きろって? そんな、せっかく犠牲になってもらった影山さんが浮かばれなくない?」


犠牲者ほんにんの前で良く言えましたね……。丁度、いい勉強になったでしょうし、もう戻りませんか?」


「んなこと言ったって、今となっちゃ戻り方も分からないし」


「いえ、単純に……今まで通り、経験したことない事柄に直面すればいいのでは?」


 しこたま経験・・を積んだ俺は最早敵無しであり、いきなりそんなこと言われても困る…………あ、そういやあったよやってないこと。


 いやはや、しかし。


「……いやっ、さすがに後ろの穴とかはちょっと……」


「いっぺん死んどきます?」


 この程度の冗談(俺は半分くらい本気だったが)じゃ動じなくなったのか、影山さんは特に凄むこともなくサラッとそう言った。


「ごめんごめん、でもさ……実際、わかんないもんはわかんないじゃん?」


「……だから、死んでみます?」


「…………はい?」


 佐倉くん……というか、生きとし生きる人間が遍く経験したことがないこと……それが、『死』ですよ。なんて言ってのける影山さん。


「さすがに、ホントにただ死ぬだけだったら大変なので、手段としてオススメはしませんが」


 冗談はさておき、と続ける彼女の目は全く笑っていなかった。


 こちらとしても、普通にむちゃくちゃ恨まれるであろうことをしているという自覚は大アリなので、罪悪感でタマでも握りつぶされようという気分になる。


 だが、それでも、俺はこの世界に居ると決めたのだ。


「だから、どうしたらいいか教えて下さいお願いします」


「……最近、佐倉くんが必死すぎて周りが見えてないのか、単に図々しいだけなのかわからなくなってきました……」


 両方である。……ていうか、それどっちも悪口じゃない? 普通こういう時って、かたっぽはプラスなこと言わない?


「そもそも、本来であれば佐倉くんは友達もろくにいない童貞なんですよ? 例え一人であろうと一時ひとときであろうと、異性と思うままに付き合えるのですから、それで充分……いえ、佐倉くんにとっては過ぎた幸運ではないですか」


「影山さん、俺だって傷ついたりするんだぜ?」


「……いえ、今のはちゃんと傷つけようという意図のもとの発言だったのですが」


「それに……」


「それに?」


「いっぺん味わったら……今更、ねぇ?」


「…………素直さが褒めそやされるのにも、限度があると思いません?」


 影山さんの前では、もうどう取り繕っても無駄なのでいっそ開き直っているし、てっきり彼女自身もそろそろ慣れた頃合いだと踏んでいたのだが……微妙に引き気味だった。やはり、テレパシーのように響く天の声と、俺の肉声とでは感じ方が変わるのだろうか……乙女心というのはかくも難解なものである。


「話が逸れてしまいましたね。そろそろ本題に戻りましょう」


「え? 本題?」


「……助言を仰いだのは、佐倉くんからだったように記憶していますが」


「あ、うん。それね」


 言われて思い出す。


『修羅場になっちったんだけど、これからどうしたらいいんだろうか』


 やはり影山さんは真面目というか寛容というか……まさか、真剣に考えていてくれてるとは思いもよらなかった。


「まぁ……順当に考えて、桃原さんと和解して残り2人と縁を切るか、桃原さんとは喧嘩別れして2人のどちらかと付き合うか……なのでは?」


「えー……」


「なにが『えー』ですか」


「いやー、だってさぁ……」


「まさかとは思いますが……この期に及んで三股継続を目論でいるのですか?」


 言葉を濁す俺の態度に全てを察した影山さんの眉がヒクヒクと動く。いやっ、だって、まだ1週間くらいしか三股してないんだぜ……現実を切り捨ててまで得た対価としては、明らかにチープな感が否めない。


 心の中で毒づくけど、仏の顔も三度までというし、口にすることも否定することも出来ないままに影山さんから顔を逸らすのが精一杯だった。


「さっきも言いましたけど……慕ってくれる女性なんて、1人だけでも佐倉くんには過ぎた幸運なんですから。そこいらで手を打つのがベストだと思いますよ」


 さとすような口調で影山さんは言う。というか、手を打つって……影山さんもいよいよ言葉選びがストレートにゲスくなってきたな……。


 いや、言っていることは正論なんだけど。


「やっぱりこの状況からハーレムルート復帰は無理なのか……」


「まあ、私はある意味ホッとしてますけど」


「なんで影山さんがほっとするのさ」


「浮気が発覚して、桃原さんが怒ったということは、裏を返せば、その状況を妄想の中に作り出した佐倉くん本人に、後ろめたさと自罰意識が残っていたということですよね」


 いくら他人の恋路とはいえ、その他人が名ばかりの部員とはいえ、知り合いがそこまで恥も外聞もない屑では、心穏やかではない。今日の影山さんは、口調こそいつも通り冷たく突き放すような感じだったが、その内容は物分りの悪い子どもに言って聞かせる先生のそれであった。


 どういう心境の変化かは知る由もなかったけれど、理路整然とした影山さんの説得には、いつもいつも『やっぱそうなのかも……』と思えてきてしまうから不思議だ。本当に、詐欺とか上手そうだよな。秋葉原とかにある画廊なんか天職なんじゃなかろうか。


 そんな益体のないことを想像しながらも、心の片隅では、影山さんの言葉に乗せられてまんまと俺の野望のディスカウントが始まっていた時である。


「うわっ!」


「……? どうしました?」


「桃原からLINEが来た!」


「それはまた、この上ないタイミングですね……」


 ポケットのスマホが震えて、手に取れば、待ちこがれていた桃原からの連絡であった。肝心のその内容は、待ち受け画面だけでも読めるほど短い文だった。


「『話したいことがあります。明日の13時は空いてますか?』……。ものっそい他人行儀なんだけど」


「そりゃそうですよ。喧嘩中なんでしょう?」


「結構、怖いんだけど」


「無視したら今度こそ全員失うと思いますが?」


「そう……だよなぁ」


 正論マシーンと化した影山さんが心底どうでもよさそうに、且(か)つ鮮やかに俺の退路を断つ。


 いや、自信を持て。これは俺の妄想なのだ。俺が涙を流すほど無惨な結果はない……はずなのだ。


 そう、これだけは胸を張って言える。俺は浮気したからといって、その責任を取って、今まで築き上げてきた美少女包囲網を全て消し去ってしまうほど仁義に厚い男ではない。


 小狡い俺の無意識のことだから、何か逃げ道が用意されていて然るべきなのだ。


「……うん。俺、行ってくるよ」


『わかりました。場所は?』と返信を済ませて、ソファから立ち上がる。


「私は、欠片も応援してませんけどね」


「そりゃそうかもだけど……。でも、話聞いてくれて楽になったよ。ありがとう」


「そうですか」


 気合いを入れるついでに、腰を反らしてノビをする。


 カバンを手に取りそろそろおいとましようかとしている俺に、影山さんはヘッドホンを装着しながら、1つ檄を飛ばした。


「叶うなら、佐倉くんが、私と同じくらい不幸な目に合うことを祈っています」

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