37.カツ丼くらい出してくれても




     ♡



 どうやら、桃原が出るはずだった講義は、講師の体調不良だかなんだかで休講になり、彼女は喜々として俺ん家へ戻ってきた……らしい。


 らしい、というのは勿論、今この状況で桃原が喜々としているわけがないからである。


「これは一体どういうことなのかな!?」


 裁判官の木槌のように、桃原は平手をバンバンとちゃぶ台に叩きつける。状況的には裁判所というよりは取調室だが。


 帰宅早々、居間の光景を目の当たりにした桃原が、力なく肩からかばんを落とし光沢を失った虚ろな目を携えていた様は、まさしく俺がイメージしていた浮気現場に遭遇してしまった彼女のそれであった。


 ともすれば、どこからともなく包丁を取り出し暴れ回るのではないかと危ぶまれたので、俺は弾き出されたように桃原の前に躍り出て手と口を動かした。気まずさを出すのは返って隠すべき卑しさがあると自白しているようなもので下策である。故に、ここは敢えて堂々とすべきなのだ。そう思考が一巡して頭がおかしくなった俺は、「やー桃原! 早かったじゃあないか!」とアメリカのホームコメディの愉快なパパみたいな口調になり、これに桃原は極めて冷ややかな視線を返した。まるで効果なしである。


 大宮も、俺の捨て身の時間稼ぎにニュータイプばりの察知能力を発揮し、一番の危険因子でありこの期に及んでなおジーパンにブラだけというワイルドな姿の先輩に、「いいから早く上を着て下さい!」と大声を張って窘めてくれていた。


 俺たちの端から見れば滑稽な涙ぐましい努力が実を結んだのか、営みの真っ只中ではなく、先輩に俺、そして大宮……という混沌とした現状を一度咀嚼する必要があると判断したのか。


「話は聞きましょうじゃないですか」


 桃原は、彼女なりに鬼気迫る表情でそう言った。なんか語尾がバグってるし、たぶんこの子もテンパってる。


 そして、左から先輩、桃原、大宮……その美少女3人に対面するように座らされた俺、という構図でちゃぶ台を囲み、今に至る。


「えーっと……」


「説明がひつよーだと思うんだけどな」


 何から話したものかとまごつく俺に、桃原の追及は止まない。今更だが、桃原は怒っていた。コーギー犬のように温和な桃原が目をキリッとさせてもイマイチ迫力に欠けるのは置いておいて。


 ともかく、桃原が納得いかない限り、彼女の怒りもこの事態も収まりそうにないことは明白だった。


 どっからが浮気なのか、という判断は人それぞれで、本番までいったら……な人もいれば、サシで飲みに行っただけでアウトな人もいる、というのはこれまで恋愛にとんと縁がなかった俺でも聞き及んでいるところである。

 桃原がどこらへんに線を引いているのかはわからないが、半裸の女性が自室にいる現状を見て浮気を疑わない人間などいようものだろうか。


 しかし逆に言えば、桃原はそんな、ほぼクロに違いない俺に対して、こうして弁明の場を設けてくれている。俺に、一縷の希望を見いだしてくれている。


 そんな健気な桃原の慈愛を汲んでもなお、俺は事態を煙に巻いて有耶無耶にする方法はないかを思案していた。


 こんな時のために、お互い承知の上で浮気していた島林先輩とだけでも、カバーストーリーの1つや2つ用意しておくべきだった。

 ……いやまあ、結局後の祭りだし、咄嗟に嘘を吐いたところで、マイペースな先輩が上手く乗っかれずに「そんな話したっけ?」とストレートにぶっ壊してくるような気もするが。


 一方で、人類の純粋無垢を抽出して錬成したといっても過言ではない桃原であるけれど、流石に「三人で遊んでたら、なんか暑いとか言い出して先輩が勝手に脱ぎ始めた」なんて口上で押し通せる気はしなかった。アホの子桃原とはいえ、そこまでおバカちゃんではないだろう。


「……何か言ってよ……」


 長い沈黙に、桃原が絞り出すようなトーンでツッコミを入れる。もはや、弁解の余地はない。桃原との短い交際期間は終わりを迎えてしまうのかと思われた。


「もう、嘘下手なんだから、素直に全部話しちゃいなよ」


 状況を見かねた先輩が口を開く。桃原的に一番怪しいであろう先輩の口からそんな言葉が出ちゃった時点で、いよいよもって俺に取れる選択肢は無くなった。いや、それ自体はまごうことなき正論なんだけど……単純にこの人、面倒くさくなっただけだろ……。


「先輩とドコまでいったの!?」


「う……。えー……まぁ……ABCで言えば……C」


「う〜!!」


 怒りと悲しみが呻り声となって、桃原は机を両の手でパタパタと叩く。隣で静かに正座して存在感を消していた大宮が「私、いる意味ある……?」と心中を吐露していた。ほんとごめん。


「先輩! 私信じてたのに!!」


「ゴメンね……。最初はホントにフリだったんだけど、私も本気になっちゃって……」


 面と向かって吠えられては、さすがの先輩も少し怯んだ様子で謝罪した。余り顔には出ていなかったが、可愛い後輩を欺いていたことに胸を痛めていたってとこだろう。


「大宮さんも!」


「そのー……。私は2人が付き合ってるって知らなかったしー。仮に……知ってたら絶対ヤってなかったし」


「……やっぱり、してたんだ……!」


「あっやべ………いやハイ、ごめんなさい……」


 保身に走ろうとして自爆した大宮も、圧力に対する弱さを遺憾なく発揮して、すぐに頭を下げる。


 言葉にならない声を絞り出しながら、桃原はの目尻にはみるみる涙が溜まっていった。大宮が恨めしそうに俺をめつけていたけど、実際恨まれることしかしてないので粛々と受け止めるより他ない。


「も、桃原のことが好きなのは本当なんだ! でも……先輩も大宮も……誰も、悲しませるわけには……」


 寒々しいとはわかっちゃいたけど、黙っていることも、そのまま息が詰まりそうで出来なかった。大宮が『えっ、私もなの!?』みたいな顔で目を剥いているがこの際最後まで巻き込まれていってほしい。


「もう聞きたくない!」


 醜態を晒す俺に、桃原は転がっていた枕を拾って俺に投げつけてきた。痛みは無かった。


「もう……知らない」


 桃原は立ち上がり、俺などに目もくれずに帰ろうとする。


 もはや、生易しい制止などが意味を成す場面ではなかった。


 やはり、いくら俺の都合のいい展開になる世界だからといって、桃原が俺のやらかしを笑顔で容認し、皆で楽しく仲直りスリーピースする訳がなかった。桃原は俺の想像が及ぶ中でも限りなく常識的な対応をしてくれて、そして感情を爆発させた。


 当然である。だって、俺はそういう優しくて良識を備えた美少女が好きで、彼女はそんな俺の欲望を体現するべく生まれ、今日まで育ってきたのだから……。


「ぬわー、もー! どーすんのよ!」


 アパートの階段を踏む、桃原の足音の残響さえも遠くなったところで、大宮が文字通りのたうち回った。


「私、完っ全に悪者じゃん!」


「まぁ……謝っちゃってたし、ね」


「そうですけど! ていうか、なんでそんなに落ち着いてられるんですか」


「いや……結構焦ってるよ?」


 全く以て代わり映えしない先輩に、口をあんぐりさせる大宮。


「ていうか、追いかけなくていいの?」


「え? ……マジ?」


「当ったり前じゃん! ここは追いかけるところでしょうよフツー!」


「いやっ……でも……。追いかけたところで、何を言えばいいのやら」


「なんでそこまでメンドー見られようとすんのさ、もー!」


 情けないのは百も承知だが、これ以上溝を深くするリスクを負うのは躊躇われる。


 緊急事態に動転しっぱなしの大宮は、ひたすらにオーバーリアクションだった。額に手を当てながら天井を仰ぐ。なんやかんや言ってくれちゃいるが、所詮大宮の助言の出典だって、そこいらのアニメとかなのだろう。実際はそんなに甘くはない。


「まあ……ちょっと、時間を置くのも大事かもね」


 騒ぐ大宮を、やんわりと先輩が宥める。 たぶん、今は考えるのが億劫である、というのが彼女の真意の八割を占めているんだろうが……正直、俺も右に同じくだったので何も突っ込まずに見守る。


「あのさ、ベランダ……タバコ、吸ってもいい?」


「あ、どうぞ……」


「ありがと」


 もう何度か、先輩は俺の家に来ているのだけれど、これまで一度もタバコを吸いたいと言ってきたことはなかった。こうなってしまうのも覚悟の上、とはいえ本人の言葉通り、桃原の涙を前に、先輩も結構こたえたのかもわからない。


 島林先輩は立ち上がり、ポケットから灰皿とタバコを取り出して窓を開け、…………すぐに身を翻して戻ってきた。


「どうしたんですか?」


「帰り際のモモちゃんと、目、合っちゃった」


 たぶん、過去1で先輩が焦っていたであろう瞬間だった。

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