36.はじまりの朝




     ♡



 事件が起きたのは、6月の最終週。その日は、本格的な夏の到来を予期させるような蒸し暑い日だった。気温と湿度のせいってのもあるけれど、普段より一層狭さを感じるベッドの寝心地の悪さに、自然と目が覚める。


「……ん?」


 眼前にあったのは頭頂部であった。寝息に合わせて微動するしなやかな髪は、言わずもがな美少女のそれである。


 なんだ、桃原が潜り込んできたのか……。起き抜けに目の前に人らしき物体があって面食らったが、すぐに答えを導き出せた。冬場の猫のような彼女の行いは可愛いには可愛いのだが、初夏の時節にされては暑苦しさを覚えてしまうが可愛い。


 ゆうべのお楽しみの疲れが抜けきっていないのか、まだまだ気怠さもあったのでこのままもう一眠り……と思って仰向けに体勢を戻そうとして、ふと違和感に気付く。


「んん?」


 ……二の腕に柔らかい感触があった。見ずともわかる。これはもう間違いなくおっぱいである。しかし問題はそこではない。


 失礼ながら……これ、桃原にしてはデカ過ぎない?


 慎ましい俺が生み出した幻想たる桃原は、お胸の方も随分と慎ましかった。生来、俺は大小、色形問わず愛することの出来る人間でありそこに不満はない。コンプレックスに恥じらう美少女というのはいつの世も男心をくすぐるものであり、ジャパニーズワビサビの真髄とも言えよう。


 ……いや、俺の性癖はどうでもいいんだ。何が言いたいかというと、この人、ひょっとすると桃原じゃないんじゃね?


 そうとなると、うかうか寝ている場合ではない。まどろみに落ちかけていた脳が一気に活発になる。


 飛び起きて布団を剥がしてみれば、そこに居たのは、印象派の絵画の如き柔らかい曲線を俺に絡ませながら眠る島林先輩だった。しかも、真っ黒の下着姿。


 ベッドのそばの煎餅布団の脇には、彼女の私服が丁寧に畳んで置いてある。


 いや、しかし、昨日は確か桃原と家でまったりお泊まりデートと洒落込んでいたはず……。あれ? 桃原じゃなくて先輩だったっけ?


 三人を入れ替わり立ち替わり相手する、なんてつい先日まで童貞だった俺の身には負荷が重すぎたのか。情報処理が追いつかなくなり、ついには誰と会ったのかすら記憶があやふやになってしまったのか……自分の健康状態を案じたけれど、どうやらそれも違うようだ。


 第一に、先輩に下着姿のまま寝させておいて俺だけ完全に寝間着で武装ということはしない。俺もパンいちじゃないと、ハリウッド的事後表現にはなり得ないだろう。


 第二に、いつもお泊まりの時は、我が家のベッドが狭すぎるゆえ、そこは女性に明け渡し俺は床に布団を敷いて寝るようにしている。つまりこの状況は……えーっと……


 どゆこと?


「……あれ? 私、寝てた?」


 事態の把握が追いつかずに軽度のパニックに陥っていると、そわそわと微動する俺に安眠を妨害されたらしく、先輩はおもむろに身を起こした。


「ぉはよ」


「お、おはようございます……」


 寝ぼけ眼を擦りながら微笑む先輩。肩口から零れた髪が、サラリと谷間に集約していく様に全てを忘れそうになるが、そういうことではなく。


「先輩、いつから居ました?」


「え? んー……1時間くらい前、かなぁ」


 卓上の時計に目をやって、暢気なテンションで先輩は答える。時計の針は、もう既に昼近くを示していた。


「俺たぶん、その時爆睡してたと思うんですけど」


「してたね。ちょっとイビキかいてた」


「え、マジすか……じゃなくて。俺が寝てたのにどうやって入ったんですか」


「普通に、玄関から。カギ掛かってなかったし」


「なんですと……」


 曰く、2限の講義に出ようとバイクを走らせ大学へ向かっていたが、途中で急にやる気を失い、俺の家へとハンドルを切ったのだという。そして、家に来てみればカギは空いており、入れば俺が大口を開けて寝ていたのだと言う。


「君の寝顔眺めてたら、なんか私も眠くなっちゃってさ。でも、私服で布団にお邪魔するのも……ね?」


 ね、じゃない。そこでなぜ脱ぐ。


「嫌だった?」


 先輩はブラの肩紐に手をやりながら、きょとんと首を傾げた。そりゃ嫌なはずない。遠心力で身体が持ってかれそうなくらいに高速で首を横に振る俺を見ると、先輩は満足気に微笑んだ。


 いや、しかし……そうか。だんだん思い出してきたぞ。


 昨日、桃原が俺の家に泊まりに来ていたのは俺の思い違いじゃなく、事実だ。飯を食い、だらだらといちゃつき、さ寝(古語表現である)、翌朝──つまり今日、1限の講義を控えていた桃原は3時間ほど前に俺の家を後にした。そんでもって、ニアミスで先輩が俺の家に侵入……もとい訪問してきたのだろう。


 そういえば、戸締まりをしっかりするよう、出掛け際の桃原に忠告されていたような気もする。彼女の言葉に頷くのもそこそこに、低血圧の俺はそのままベッドに戻ってグッスリだったようだ。


 先輩の行動は予測外であったが、見事なまでにスレスレで危機を回避してくれていた。もし、先輩がもう少し早く俺の家へと来ていたらどうなっていたことたろう。また、それを回避するこの世界の因果の力強さたるや。俺はしばらく戦慄と感動で震えた。


「私は、もう少し寝てたいかな」


 記憶の補完が完了した瞬間、見計らったかのように先輩は俺に抱きついてきて、そのままベッドへと倒れ込む。


 こんなセクシーサプライズは、もはやラブコメ通り越して後日談チックであり、それはもう色々と大盛り上がりなのだが、依然として俺の危機は去っていなかった。もっといえば、今日先輩が家に来ること、それ自体非常にマズいのだ……。


 なんせ、今日はこれから、大宮がウチここにくる。


「先輩、あの、俺もできればそうしてたいんですけど……今日はちょっと……」


 大宮とは昼から夕方のバイトまで、俺の家でゲームをする約束をしていたのだ。いや、今日は本当に健全にゲームをするだけだから、俺としてはそんなやましいことをする予定はない。向こうの出方次第では、予定変更もやぶさかではない。


 ……冗談はともかく、先輩をこんな格好でいさせるわけにはいかない。胸は痛むが、大人しく返ってもらわねばなるまいし、その前に最低限服は着てもらわないと。正直、脳内はてんやわんやだった。


 大宮との約束の時間まで30分もない。こんな昼間まで惰眠を貪っていた俺が悪いのだけれど、今更責任の所在を追及している暇はない。反省会は後にして、目の前の課題に対処すべき時だ。


「元気ない? モモちゃんいたっぽいもんね」


「えっ…………わかるんですか?」


「なんとなく、匂いでね」


「いやまぁ……仰るとおりなんですが……それとは別に、もうすぐここに友達が来る予定でして……」


「そっか。残念だけど、仕方ないね」


 一瞬、オンナの勘とやらに背筋が凍る感触があったけれど、事情を説明すると、先輩はあっさりとこれを聞き入れ、ベッドから身体を起こした。


 そのままのそのそと屈み込み、脱いでいた私服に手を伸ばす先輩の無駄に扇情的な後ろ姿を、ヒヤヒヤしながら見つめる俺であったが、これで一先ず事態は収束した。


「お、開いてんじゃーん」


 してなかった。インターホンが鳴った……と同時にドアノブがガチャガチャと音を立てて回る。


「邪魔するぜーい」


 俺が止める間もなく、扉は勢いよく開け放たれて、大宮が現れた。


 バイトはギリギリに出勤する癖になんで今日に限って早いんだよとか、なんでピンポン鳴らすのとドア開けるのがワンアクションなんだよとか、そもそも先輩カギ掛けてなかったのかよとか、開けたんだよなぁ……とか、無数のツッコミが脳裏を駆け巡ったが、そのどれもが喉から出力されることはなく、ドアへと伸ばしかけて届かなかった手だけが虚空に彷徨った。


「どしたん? 怖い顔し……て…………」


 俺の住む1Kアパートの間取りは非情なまでにシンプルで、玄関からそのまま水場があり、そのすぐ奥に居間が広がっている。仕切りなんて無い。要は丸見えだった。


 俺は今日、先輩とはなにもいかがわしい行為に及んでいない。でもそれを理解しているのは俺と先輩と読者諸君くらいのもので、ジーパンに片足突っ込んだだけのほぼ半裸の先輩だけを切り取って見た大宮としては、それはもう、事後でしかない。


 どうしよう。なんと弁明すればいい? こんな現行犯に近しい状況で、何を訴えようが無意味でないか。いや、根本的になんでこんなにもタイミングの悪いことが起こったのだ。これは俺の妄想なんじゃなかったのか。


 紛糾する脳内会議室。絶体絶命の窮地に立たされて、どうしたらいいかわからなくなってしまった。


「"ともだち"、ね……」


 背後から先輩の平坦な声が飛んでくる。恐る恐る見れば、先輩は悠然と着替えを続行していた。声からも表情からも、その感情は伺い知れない。悲しんでいるのか怒っているのかすらも判別つかない、普段通りの少し垂れたまなじりでこっちを見ていた。……平然とし過ぎていてむしろ無茶苦茶怖い。


「あー……。やー……」


 大宮も大宮で、壊れたラジオの様に謎の音を発していた。


「あのー、ホント、なんか、すいませんね。アハハハ……はは…………」


 挙げ句、笑ってるのか引きつってるのかよくわからない表情で、ズリズリと後退し始めた。


 推測するに、大宮は俺の彼女でもないあやふやな立場である、というのを良く理解していて……だからこそ、怒りとか以前よりも『やばい』という気持ちで一杯になっているのだろう。殊、大宮に至っては、ただ約束通りに遊びに来ただけなのに……なんだこいつむちゃくちゃいい奴じゃん可哀想。


「待て! 待つんだ大宮」


 そのまま帰ろうとする大宮を、考えより先に身体が勝手に止めていた。


「ムリムリムリムリ! 私こういうのムリなんだってば!」


「落ち着け。……ていうか、無理ってなんだよ」


「この空気の中に居るのが無理だっつってんの!」


 声を殺しながらも大宮は口を滑らかに回転させる。俺もパニック状態だったが、相手がそれ以上にパニクってくると、不思議と冷静さが甦ってくる。だからといって打開策が思い付くわけではないのが悲しい。


「取り敢えず、あがりなよ。せっかく来たんだしさ」


 玄関先で2人してワチャワチャしていると、気が付けば何故か下だけ着替えを済ませた先輩が後ろに立っていた。……大宮が半泣き状態で背筋をピンとさせる。


「あの……先輩?」


「安心してよ、別に怒ってないし……ていうか、私に怒る権利ないし」


 ビビりまくって膀胱が緩みかけていた俺を見て、先輩は呆れたように笑う。そりゃ、先輩本人も了解の上の浮気相手であるのだから、その通りだが……なんだか聞き分け良すぎやしませんかね……。


 未だに子羊のように震える大宮だったけれど、当の本人から言われてしまっては従うしかない。「ゲームしに来ただけなのに……」と肩を落としながら俺の部屋の敷居を跨いだ。


 肝を冷やし過ぎて腹を下すかと思ったが、鉢合わせしたのが大宮と先輩で本当に、本当に良かった……。大宮はぶっちゃけとばっちり食ってるだけだし、先輩に至ってはマジで何とも思っていないっぽいし……桃原が帰ってでもこない限り、少なくとも半殺しにされることは無い。


 そんな安堵の念が神に聞こえたのか、或いは、俺の慢心は常に覆される為に存在するのか……。


 3人して居間へと戻った瞬間である。


「あれ? 開いてる……。ただいま〜」


 大学へ行っていたはずの桃原のふわふわした声が、玄関から居間に響き渡った。

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