32.性なる目覚め



     ♡



 そして、一夜が明けた。


 スズメの鳴き声とカーテンの隙間から差し込む朝日に、目を覚ます。いつもよりも視界が低いのは、床に敷いた来客用の煎餅布団で寝ていたからだ。


 我が家の主人たる俺を差し置いてベッドで寝ているのは、何を隠そう大宮だった。上体を起こしてそっと様子を窺ってみれば、こちらに背を向けて静かな寝息を立てている。


 端的に言えば、実験は成功した。


 即ち、昨日の晩バイト終わりに大宮と飲みに行き──行くとこまで行ってしまったのである。


 大まかな流れは以下の通りだ。


「いやはやびっくり。君みたいなオタクにも、春は来るんだねぇ……」


「季節は平等だぜ。望む望まない関係なく、春くらいくるだろ」


「いやいやいやいや! あんな美人に囲まれるなんてこと、どんなイケメンだろうとそうそうないから! ……で、幾ら積んだワケ?」


「全方位に失礼だぞそれ」


 ほろ酔いの大宮は、普段と変わることなく、純粋に従来のマシンガントークの連射力が上がる程度だった。


 いつも通り、ゴキゲンな大宮は止まらない。


「でもまぁ、君みたいなチャキチャキの童貞には、あの2人を相手すんのは無理でしょ」


「はぁ」


「だって、あんなに可愛いんだよ? ほかの、君より遥かにマトモな男達が放っとくわけないじゃん? これまでにもそれなりの経験はあったんじゃない? ちゃんと相手、できんの? キミが?」


「……まるで、男女の仲のなんたるかを知ったような口ぶりだな」


「あたぼうよ! 来年には華々しく大学デビューを果たす予定なんだから! 脳内シミュレーションは万っ全」


「いや結局、ただれた処女の妄想だろそれ」


「んだとコラ」


 そんなこんなで、童貞と処女の情けなさすぎるドッグファイトが勃発し、最終的には売り言葉に買い言葉である。


「やれるもんならやってみやがれってんだアホ!」


「おうよ! できらぁ!」


 曲者の大宮をどうやって口説こうか、思案するまでもなくあれよあれよとそんな流れになっていた。そうして、拍子抜けしそうなほどスムーズに、俺の家へとなだれ込む運びとなったのだが。


「あー、あのさ……えっと……。これ、マジですんの?」


 ちょっとした誤算だったのは、さあいよいよ、という時になって、大宮が日和り始めたことである。


「なにを今さら。怖気付いたか?」


「ちげーし! ……いや……そりゃちょっとは怖いけど……。でも別に、君じゃヤダとかそうじゃなくて……桃原さんのこととか……いいの?」


「それは……いや、まだ付き合ってるわけじゃないし……。それに……仮にだけど、いざその時になって、初めてで死ぬほど緊張して失敗したら、死ぬほど気まずいだろ……とかはちょっと考えたことある」


「そういうもんなの?」


「そういうもんなの」


「じゃ、私が冴えない君に自信をつけてあげるってことか」


「まあ…………そうなるな。……それこそ、大宮はいいのかよ」


「私?」


「このタイミングで聞くのもズルい感じするけど、好きでもない男とさ……ほら……」


「あー……それは大丈夫。私も、そーゆーことには興味あるし、君のこと全然嫌いじゃないし。……なんか、上手く言えないけど……私みたいな変な女ともちゃんと話してくれる君となら、きっと、後悔はしないと思う」


 これを受けて、俺は確信した。


 妄想か現実か、はたまた異世界か……そんなことは置いておいて、だ。


 確かにこの世界は、ひたすら俺にとって都合よくできている。


 いや、だって…………普通こんなコトにはならねーだろ。それともなにか、大宮は菩薩か何かなのか?


 そんな風に首を傾げながらも、大宮とのフィジカルコンタクトの瞬間にホワイトアウトするような事もなく、俺はこの世界に居続けることができた。己の無知を克服し、童貞から脱却した瞬間である。


 こうなると、いよいよもってコレが妄想であることが証明されたようで、なんだか切ない。


 だがしかし、不死身のセミよろしく年中やかましい大宮が、服を脱いでからはしおらしく息を殺しているところなど、はっきりいって見物でしかなかった。そして、そんな大宮が悩ましげな吐息を漏らすたびに、妄想かどうかなんてどうでもよくなっていた。要はギンギンだった。


 俺は、やったぞ。


「起きてたの?」


 圧倒的な達成感に浸っていると、ベッドの上からもぞもぞ衣擦れの音がする。どうやら、大宮も目覚めたようだった。


「おはよ」


 振り返って目が合うと、大宮は、ふへぇ、と笑顔を返した。


 なんでもない朝の挨拶だったけれど、本当に、大宮という美少女と一夜を共にし、朝を迎えたのだということを実感して、ジワジワと感動の波が押し寄せてくるのがわかった。


「ごめん、起こしちゃった?」


「いんや。大丈夫」


 どうやら彼女もご機嫌のようで、寝そべったまま俺の頭へと手を伸ばし、赤子をあやすかのように撫でてきた。


「……なにしてんの?」


「いやー……。ちょうどいいとこに頭があるもんだから……」


 いつもより数段ふにゃふにゃの表情だった寝起きの大宮は、やはり美少女で……日頃の距離感の内側にあるじゃれつきに、昨日彼女が見せた、様々な表情が思い出される。


「コーヒーでも入れるよ」


 このままだと“オレ”が危うかったので、ほどほどにして布団から立ち上がった。


 ヤカンに水を入れて、ご機嫌斜めなオンボロのガスコンロと死闘を繰り広げていたら、大宮が隣へ来た。


「なんか手伝おっか? ……おっ、帰属意識高いじゃん」


「ん? あぁ……それね」


 大宮が手にしたのはバイト先のロゴが入れられたコーヒー豆の袋だった。店頭販売している品だったけれど、全然ハけずに、店長の胃の調子を荒らす効果のある置物と化していたそれを、仕方なく俺が引き取ったものだ。


 ぶっちゃけ、俺はコーヒーの味の良し悪しなんてまるでわからないが……まさか、桃原か島林先輩が家に来た時のために受け取ったものが、こんな形で役に立つとは。


 大宮は、俺の良く知るアニソンを鼻歌混じりに歌いながら、テキパキとフィルターをセットし、豆を投入していく。


 肩が触れ合ったり離れたり、そんな至近の距離感で、煮えそうで煮えないお湯を眺めながら、大宮がぽつりと言葉を発する。


「自信、ついた?」


 真隣に立つ大宮の表情は知れないが、その声色はとても優しかった。


「そうだな。なんか……ありがとうな」


「うむ。ならばよし」


 そうじゃなきゃ、私がひと肌脱いだ意味無いしね。大宮は、俺の肩に側頭部を預けながら、独り言みたいに言った。


「ま、せーぜー頑張りなよ。誰とくっ付くのかは知らないけどさ」


「ああ……そうだな」


「別に、私でもいいんだよ?」


「ああ…………えっ」


 答える俺はよほどのアホヅラだったのだろう。気づけば、大宮は、あはははは、と大笑していた。


「きんもっ!!!! 冗談だってば、冗談」


「いや、悪い……。なんか、昨日のこと思い出しちゃって……」


「そ、それは言わないお約束だろ! こっちだってメッチャ恥ずいんだから!」


「だからごめんて」


 なんでもないような素振りを続けていた大宮も、やはり努めてそう振る舞っていただけのようで……照れ隠しか、がーがーと奇声を挙げる彼女に安堵を覚える。


「あ、彼女できたらちゃんと言ってよ? 浮気相手みたいにされるのはヤだから」


「そりゃ当たり前だろ」


 大宮がこういったことに対して割とオープンというか、あっけらかんとしていて本当に良かった。いや、普段の言動から、そうなんじゃないかと踏んでいたし、だからこそ最初にトライしてみたのだけれど……。


 昨日を境に、責任を取れと騒ぎ立てられていたらどうしようかと内心ヒヤヒヤしていたのだ。


 そして、そうなったらなったで、大宮と付き合っちゃえばいいか、とも。


 もうここまで来ると、この世界が俺にとって都合がいいのか、はたまたこの世界の大宮がアホほど都合のいい女の子なのか、正直わからなくなってくる。


 ……いや。わからなくていいのだ。いわばここは夢の国。夢の中の現象など、もとより筋道立てて説明できるものではない。


 沸騰してちんちんになったヤカンと楽しげに格闘する大宮を横目に、俺はそんなことを思っていた。

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