30.覚醒前夜
♡
ゆっくりとマグカップの中身を飲み干した影山さんは、ほぅ、と一息つくと、真剣な目つきで俺に言った。
「いい加減、佐倉くんも認めてはどうでしょう」
「認めるって、なにを?」
「佐倉くんの想定よりも、私の仮説の方がまだ真実に近い、ということです」
影山さんの仮説──つまり、今俺が存在しているこの世界こそが現実で、桃原と甘酸っぱい恋愛模様を送る傍ら、島林先輩のおっぱいの感触を堪能し、大宮とじゃれ合う日常は、俺の良くできた妄想である……という切れ味抜群の説だ。
「……」
「あなたも、薄々勘付いているんじゃないですか?」
俺が言葉に詰まった理由は、影山さんの推し量るところであった。
「いやっ……でも……」
「冷静に省みてください。高校を卒業するまで異性との関わり合いなど1ピコも無かった佐倉くんが、大学生になった瞬間なにをするでもなく美女からひっぱりだこになると……本当にそんな甘っちょろい話があると思いますか?」
「無……くはない……かもしれない」
「では、言い方を変えましょう。そんな天恵に預かりっぱなしの佐倉くんと、周囲に異性もロクにおらず、することといえば自慰に耽るか麻雀くらいがせいぜいの佐倉くん、どちらがより説得力があるか……」
「それ以上はやめろ! やめてくれ……」
そんなの、今更言われなくても充分すぎるくらい分かっている。
今回の時間の巻き戻りに際して、改めて俺は、此方でどのような生活をしていたのか、その足跡を調べていた。そうして把握したことは……此方の俺は、殊更人様に語るべき特徴もない、どうしようもない童貞オタクであったという、目を背けたくなるほど納得できる事実だった。
委細は後述の通りである。
『JOY』の飲み会で散々暴れ回ってめでたくブラックリスト入りし、大手サークルの新歓から半ば締め出しを喰らい早々に知り合いをつくる場を失う。途方に暮れていた最中、偶然、新歓の時に良くしてもらった島林先輩に心躍らせホイホイと『観研』に所属、チャラ夫と恋仲であったことを知った瞬間、目的も失い速攻で幽霊部員と成り果てた。そうして、同じようにキャンパスライフのスタートダッシュに失敗した冴えない童貞野郎共が強烈な引力で結びつき、俺の狭い下宿先を根城に、牌を摘まみ、下らん話に花を咲かせ、日々を漫然と過ごす……。
「自分のことなんだ、そりゃわかるに決まってる。まんま俺だったよ……」
認めるしかなかった。
全ては、俺の生み出した虚像に過ぎない。都合良くコトが進むなんて当たり前のことだろう。だって、全部俺の妄想なんだから……!
それに俺は、狼狽しながらもときめきを覚え、1人で青春ごっこしていたのだと思うと……目と耳を塞いでそのまま石にでもなりたい気分であった。
「少々……刺激が強過ぎたかもしれませんね」
天文部室の人をダメにするソファにしなだれる、まんまダメになった人たる俺の姿に何を思ったのかはわからないが、影山さんはしばらく言葉を選んでいたようだった。
「私なりに色々と考えていたのですが……聞きます?」
「なにを……?」
「何故、佐倉さんが妄想から現実へと戻ってしまうのか、です」
イエスの返事の代わりに、姿勢を正して影山さんを見つめる。
「……単純な話です。佐倉さんが、経験したことがないから、ではないですか?」
「経験……何を?」
「その……ナニを、です」
「ナニって……ナニ?」
「童貞だからです」
「いや、言い直さなくていいから……意味は伝わってるから」
ちょっと気まずげに俺から視線を逸らす影山さんの仕草が新鮮だったので、もうちょっと反応を見ていたかった……というわけではなく。
「それなら、俺も真っ先に思い付いてたよ」
純粋に、影山さんの推察が俺の思い及ぶほどに浅かったものだから、思わず聞き返してしまったのである。
「あ、そうなんですね」
「そりゃね……いざこれから、って時にいつも意識が飛ぶから……。でもさ、それじゃ色々と矛盾してない?」
「と言うと?」
「えー……」
「どうしました?」
「ちょっと下世話な感じになるけど……怒らない?」
「……この際、しょうがないでしょう。佐倉くんと性の話は切っても切り離せませんから」
非常に冷ややかではあったが、せっかく許可が下りたので遠慮なく言わせて貰うことにした。……それでも一応、言葉遣いには気をつけたいところだ。またあの時みたいに凄まれてしまっては適わない。
「俺はさ、正真正銘の童貞なわけ。だから、女の子とキスやハグはおろか、手も繋いだことだってない」
「どうしてそこまで自慢げなのかわかりませんが……続けてください」
「だからさ、まぁ……気を失うのはいっつも挿入の瞬間で、それまでのキスとかおっぱ……胸触ったりとかはリアルに出来たんだよ。それっておかしくない? 言っちゃなんだけど、俺知らないよ? 本当の胸の感触とか」
「なるほど。言われてみればそうですね」
盲点だったとばかりに影山さんは唸って、顎に手を当てて考え込む。
いや、考え込むってほどでも無かった。彼女はすぐに答えを見つけたようで、なんてことないように続ける。
「でもそれは、無意識下に佐倉さんが情報を持っていた……そう考えられませんか」
「……なに、俺が無意識で胸もんだりキスしたりしてたってこと? いや犯罪じゃん」
そうではなく、成長の過程や、日常生活での些細な不可抗力とかではないか、と彼女は言う。
「例えば、赤ちゃんの時に母乳を吸ったり、満員電車で女性と接触したり……」
「じゃあ……キスは?」
「それこそ、親が幼い我が子にすることもあるでしょうし、犬とか飼ってれば口を舐められることもあるでしょう」
「……あ、実家の豆柴…………」
ドンピシャだった。キスじゃなくて、舐められたってとこが特に。
それじゃあなにか、俺は母親の胸の感触に涎を垂らして、我が家の飼い犬の舌に劣情を催していたとでもいうのか。
「しかし、……その、陰部については、通常恋人をつくるでもしなければ無理ですから……」
胃液が逆流しそうなのを堪えるのに必死な俺を余所に、影山さんは満足げに論を〆た。
確かに、女性のなんじゃらの感触なんて、知り得る機会は無かった。あったら童貞じゃないわけだし。
「影山さん、言ってて恥ずかしくないのコレ…………ああいや、おちょくってるわけじゃなくてね。俺はもう墓掘って埋まりたいレベルで恥ずかしいんだけど、解説してる側としてはどうなのかなって思って」
「……そんなにですね。なにぶん、あまりにバカバカしくて、現実感が皆無なものですから。なぜ佐倉くんではなく私が考察しているのだろう、と憤りさえ感じています」
「そッスか……」
足りない知識はTEN○Aで疑似的に再現しているけれど、しかし、俺の中ではあくまでTEN○Aであり、それ以上でも以下でもない。妄想の中でいざその瞬間に達すると、イメージがあまりにもTEN○Aに引っ張られすぎて、現実に引き戻される……ということか。
……いや待てよ。
「ですから佐倉くんも、空虚な妄想に浸っていないで、真摯に女性とお付き合いした方が良いと思いますよ」
「そうか……うん」
影山さんのロジックを真とするならば、打開する案は即座に浮かんだ。今俺は……最高に冴えてる。
要は、知らないのならば知ればいいのだろう。
真面目で
そして今日は、初めてのバイト代が振り込まれるはずの日であった。
「ありがとう影山さん。おかげで目が覚めた」
「お礼されるようなことをした覚えはありませんが……」
「そんなことない! 影山さんは天才だよ! やっぱ、わかんないことは頭いい人に訊くに限るね、うん」
「なんか……元気ですね」
「あ、そう? まあ、謎が解けたところでアレなんだけど、俺は急用思い出したから帰るよ」
こうなってはいてもたってもいられない。今度こそ、俺は性こ……成功してみせるのだ!
俺はソファから勢いよく立つと、急変したテンションに置いてけぼりをくらってる影山さんを残して、天文部の部室を後にすることにした。
「あ、そういえば……」
「どしたの?」
「いえ……やはり、なんでもないです」
鉄扉を開けようとする俺に、影山さんはなにやら言おうとしたけれど、すぐにそれを引っ込めた。
「……今のあなたには、余り関係のないことだと思いますので」
ずいぶんと勿体ぶった口振りが気になったけれど、それよりも、目下のやるべきことで俺は頭が一杯だった。
つまり、この時の俺は、いつかした天体観測をしようって話なんぞすっかり頭から抜け落ちていたのである。
♡
影山さんの謎解きを聴き終えた俺は、急いで自宅に戻り、シャワーを浴びてありったけの現金を財布へ詰め込み、夜の繁華街へと突撃した。言うまでもなく、風俗店で情報を体得しに、である。
なにぶん初めての風俗体験だったので、鉄砲玉のように飛び出したはいいものの、歩くうちに不安が大きくなってくる。法外な値段を要求されて、恐いお兄ちゃんに囲まれながらATMに行くなんてこと、ありふれた話だろう。それを若気の至りと表現できるほど、今の俺に余裕はない。
しかし、その点に関しては、現実の俺は有能であった。俺の数少ない大学の友人の1人が、既に都内の風俗事情に精通していたのである。俺達は、彼をハカセと呼んで侮蔑の念を示しながらも大変慕っていた。
ハカセにアドバイスを求め連絡してみれば、5分としないうちに、近隣の優良店のリストと、事前に用意してあったとしか思えない文量のレビューが立て続けと送られてきた。
妄想にかまけていた俺の記憶の中では話したこともない相手だったけれど、その熱い友情に、頼もしさと親近感で胸が一杯になった。人間、こうなってはいよいよ終わりである。
そうして、風俗店を渡り歩き、3人の嬢に相手してもらった。指名する時の写真となんか違くないと思うこと3回中3回だったけれど、この際、容姿は不問であった。
これは……学びの場なのだ。
嬢に土下座しながら行為の師事を仰ぐ俺は、さぞ滑稽であったろう。それでも彼女たちはサービス業のプロだった。鬼気迫る俺の表情を、「初カノの前で恥かきたくないもんね」と絶妙な勘違いと共に受け入れてくれたのだ。
こうして俺は宇宙の神秘、その一端を知った。もはや、現実に屈する理由など、どこにもありはしない。
家へと戻り、深夜の住宅街の中、自転車を走らせる。
段差を越える度に、かごの中のTEN○Aが暴れ回った。
今から、俺は妄想の世界へと旅立つ。
ホンモノではないのかもしれないが、俺にとってあの生活は幸せなものだった。そして、幸せを求めることこそが、人間の生きる意味であり目的だ。
現実と向き合え、と影山さんは暗に助言していた。しかし、何もない現実を直視して何を得られる? 無限に近い無力感にただ身をやつしていくのが関の山だ。そんな人生、御免被る。
自転車を10分も走らせれば、目的地に着く。
夜中の玉川上水の沿道は、人っ子一人おらず、せせらぎだけが、とくとくと静かに響いていた。
これまで、幾度も繰り返した現実と妄想の往復の中で、妄想への行き方はおよそ見当がついていた。俺を現実に縛り付け、ありのままの俺を表現するアイコン……TEN○Aを拒絶すること。これが、妄想へとトリップする手段だった。 試したわけじゃないが、確信に近いものがある。
なにもこうして川まで来る必要は無かったけれど、これからやるのは俺にとっては儀式のようなもので、今日に限っては現実からの訣別を意味していた。
真っ赤な原色ボディは、闇夜に紛れることのない存在感を放っている。手に取ると、掴み心地良く、ピストン運動にも耐えうるようにホールド性が徹底的に計算された凹凸がピタリと俺の手にフィットする。
幾度、寂しい夜を共にしただろう……何度、情けない"オレ”を慰め元気づけてくれただろう……。感謝こそすれ、憎むなんてお門違いもいいところだ。だが、それ以上に余りに長い時間一緒にいたコイツは、俺を俺として閉じ込める呪縛となっていた。
というより、ぶっちゃけ俺はシリコンより生身の方がいい。『前提として、肉体的快楽を得るだけならオナホが断然気持ちいい。次が自分の手。嬢は3番目だ。それでも行くというなら、以下に情報を示そう』なんてハカセは言ってたけど。そんなこと言うのになぜ、彼が風俗狂いなのかわかるだろうか。
そう、風情。風情だ。俺たちは何より、人肌の温もりを欲している……!!
「こんな現実、クソ喰らえだ!」
大きく振りかぶり、煌々と輝く月へ向けて、俺は手中のTEN○Aを力の限り遠くへとぶん投げた。
胡蝶が
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