29. 盲目のパビルサグ



     ♡



「俺、めっっっちゃ頑張ったじゃん!! なんで戻ってんのさ!!」


「開口一番なんですかもう……」


 影山さんがうんざりするのも痛いほど共感できるけど、そんな彼女の気持ちを慮ってもなお余るくらいに、俺は憤慨していた。


「あれ、影山さん、俺がなにやってるか全部わかってんじゃないっけ?」


「ですから、それはあくまでこの部室にいるとき限定の話で……。私も、四六時中居るわけではありませんから」


「そうだっけ……そうだったかも」


 俺が影山さんと会っているということから、既にお分かり頂けているだろう。俺は天文部の部室へ来ていた。無論、例に漏れず桃原のいないバッドな世界で、である。


「また世界が戻っているのは理解しているところですが……。なにしたんですか?」


「よくぞ聞いてくれた」


 皆様におかれましても是非とも傾聴していただきたい。


 俺は、あの日、島林先輩の色仕掛けを断り切ったのだ。半ば朦朧とした意識の中で、迫る先輩の肩を掴み、俺は桃原が好きだから先輩とはできないと伝えた。いくら相手から求められたからといっても、そんな不埒な下郎に落ちることは許されなかった。


 最初こそ、そんな都合良く、会う美少女から軒並み好意を寄せられるだなんて自信過剰な想定はしていなかった。しかし、事実として俺はモテる男になっていて、それは同時に、いずれはどちらかを選ばなくてはならないことを意味していた。


 そのタイムリミットが突如として訪れただけで、やることは変わらない。


 一方をとれば、他方を失うというのは、傲岸な欺瞞だ。そこにあるのは、両方とも手中に収まってしかるべきだ、という歪な前提である。

 本来的には、片方だけでも掬いあげられることを誇るべきなのだ。


 つまり今回は、俺が先輩を選ばなかったのではない。島林先輩が、俺を捕え損ねたのだ。そう思っておかないと罪悪感で押し潰されそうだった。


 先輩はほんのりと目尻を朱く腫らしていたけれど「そっか……。ゴメンね」と彼女らしく、優しく許してくれた。


 先輩との偽の恋人関係も解消することになった。その落とし前として、チャラ夫には俺から全てのことのあらましと、何故そうなったのか……つまり先輩はチャラ夫を本気で嫌がっていることも、全部ぶちまけた。中途半端な状態で桃原と会うことには抵抗があったからだ。


「はぁ……」


 聞くも涙語るも涙な俺の漢前な行動に、影山さんはとても塩味なリアクションだった。……いや、これが如何に偉業かは女性の影山さんには理解しかねるところなのだろう。


 いくらチャラ夫だって、見てくれはチンピラっぽい陽キャなのだ。ともすればぶん殴られるんじゃないかと、こちとらガチで震えてたのである。


 ともかく、俺はキレイさっぱり禍根を断ち、満を持して素直な気持ちを桃原に伝えた。桃原も、俺と先輩の関係を容認してはいたけど、やっぱりモヤモヤしてたみたいで……文字通り全部かなぐり捨てて来た俺を、涙ながらに迎え入れてくれた。


 迷いを捨て、自らを奮い立たせて奔走し、意中の相手に思いをぶつけた……誰がどうみても、これ以上ないくらいのハッピーエンドだ。


「それで、めでたく結ばれたら、今日に戻ってきた……と?」


「まぁ……そうなんだけど……」


 であるのに、これである。そりゃ怒りもする。まるで努力が報われていない。これでは話が違う。訴訟も辞さない。


「あーあと、俺的には『戻ってきた』じゃなくて『飛ばされた』だからね?」


「それはそれは。失礼」


 経緯を語るうちに喉がカラカラになったので、いつのまにか用意してくれていたコーヒーを啜っていると、影山さんはメガネを直しながら口を開いた。


「私の感覚が正しければ、なのですが……。あなたが熱弁した桃原さんと恋仲になった日に、世界が変動した後……もう一度変動があった気がするのですが」


 影山さんの鋭すぎる指摘に、コーヒーが鼻にせり上がって咳き込む。


 先輩の誘惑を振り切り、桃原と結ばれたのは6月の最終週。で、挿入の瞬間にまた記憶が混濁して桃原は消失……。俺は怒りにまかせていつの間にか股間に装着されたオナホをすっぽ抜いて床に叩きつけたら、今度は先輩とのツーリングデートの朝になっていた。


「あー。それは……まぁ……あらゆるルートの可能性を模索しないと……じゃん?」


 影山さんの目は、純粋な疑問ではなくて、8割がた俺がなにをしたのか見抜いていた。


 なにってそりゃ、ナニだよ。やはり彼女に嘘はつけない。


「迷い、何一つ捨て切れてないじゃないですか……」


 もう影山さんの中で俺の評価は底の底まで落ちてしまっているのだろうか。彼女は、眉一つ動かさず、ゴミを見るような目を保持したまま普段通りの平坦なイントネーションで俺を貶した。


「まぁ……それで、島林さんに押し負けて、……コトを起こそうとしたら戻、……えー……此方へ来たと……」


「仰るとおりで」


 おまけに、今回は鎌倉のラブホだったはずなのに、わざわざ自宅にまでワープしていたし、時間も更に巻き戻っていた。丁度、大宮と公園でばったり会った日である。


 因みに、今部室にいるのは、戻った日の翌日にあたる。


「そういえば、此方では、大宮さんはどうだったんですか?」


 以前は、一生懸命デートのプランを練っていたではないですか、と影山さんは言う。ふと、冗談半分で影山さんに念を送っていたことを思い出した。そんな怒ってないっぽいし、あの時の懇願は案外無駄ではなかったのかもしれない。


「桃原さんもいない、島林さんも他の男とくっついて……。となればてっきり、オタクで陽気で美少女な大宮さん……という手札を切るのかと踏んでいましたので」


 影山さんは顔色一つ変えずに、わりと下世話な言葉遣いでそう言った。……この子、俺の心の声を聞き過ぎて、少し思考が汚染されているんじゃないだろうか。


「影山さん……俺をそんな奴だと思ってたのか……」


「これ以上なく正当な評価だと思いますが……」


「まあ、その通りなんだけどさ」


 俺のどうしようもなくスケベでトンチキな本音はこの部室にダダ漏れなわけで……世の男子学生とそう大差はないと思うけれど、潔癖そうな影山さんがそんな評価を下すのも無理からぬ話だ。


 素直に首肯する俺の姿が、影山さんのツボを刺激してしまったのか、彼女はふっと顔を逸らして肩を震わせていた。


 顔見知りになってから初めて、影山さんのちゃんとした笑う姿を見れた気がするけど、その現象自体に驚いてしまって特に感慨はなかった。思っきし見下されてる感あるし。


「その日は、公園に一応行ってみたんだけど、案の定大宮はいなくてさ。でも、バイトのシフトには入ってたから、どーなってんのかなー、って出勤したんだけど……」


 思い出しただけでも憂鬱になるが、影山さんは珍しく興味があるようだったので続ける。


「大宮、別にオタクじゃなかった……。いや、オタクはオタクだったんだけど、ドルオタでさ」


「えぇ……」


「おまけに、同じアイドル好きな劇団員と付き合ってたみたいで、バイトの空き時間にずっとイチャコラしてた」


「そうだったんですね……」


「俺ずっと1人で客ほとんど捌いててさ……。俺、それまでの記憶ないけど、ずーっと寡黙に働く青年だったみたいで……店長からメッチャ評価されてたよ」


「それは……お疲れさまでしたね……ふふっ……」


「影山さん、これそんな面白い?」


「いえ……申し訳ありません。佐倉くんの惨敗具合に少し……」


 悲哀に満ちた語り草がお気に召したのか、影山さんは必死で笑いを堪えようと俯いて、バッチリ笑っていた。


 ……所詮、他人事だから可笑しいのであって、俺にとってはただただ辛く、長い労働だったのだ。いつもの調子で大宮に話しかけて『あれ? 君、そんな私と距離感近かったっけ?』みたいな雰囲気を醸されて、劇団員の相模が慌てて俺の相手を買って出てきた時は、体調不良で早退したい気持ちで一杯だった。


 一向に仕事をしないで俺と同じ時給を貰っているであろう2人に、内心穏やかではなかったけれど……それが影山さんへのささやかなエンターテイメントになっているのならば、浮かばれるところもある……のだろうか。否、そうしておくべきなのだ。でなければ惨め過ぎる。


「人の不幸を笑うのは関心できないなぁ……」


「……佐倉くんのゲスゲスしい内面を知ってる身としては、同情するのも違うかな、と」


「シャーデンフロイデって知ってます? 寓話としては、出来のいい方なんではないでしょうか」なんて言ってのける辺り、影山さんは、俺に毒されてるというより、もとから毒をその身に飼っていたようだった。

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