28.いつか役に立つ知識、だった
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そもそもの出発が遅かったものだから、先輩と2人、鎌倉を散策しているうちに、気づけば夕暮れ時になっていた。
昼もサービスエリアで軽食を摘まんだ程度で、ちゃんとした食事をとっていなかったから、ひどく空腹だった。どうやらそれは先輩も同じだったようで、ここらで腹を満たすことと相成った。
食事処はそれこそ、掃いて捨てるほどあったけれど、さすがはメジャーな観光地、目に留まるところはどこもかしこも混んでいるし、高級志向に片足突っ込んだお値段のところも多い。
学生特有の貧乏性を遺憾なく発揮し、次の店見てみようか……を繰り返していたら、結局、俺達がたどり着いたのはお馴染みのチェーン居酒屋だった。
迂闊だった。隙間を縫って、ネットで探して予約なりしておくべきだったのだ。これでは今日一日、先輩におんぶにだっこではないか。すっかりゲスト気分で、暢気に観光を楽しんでいてしまっていた。
ぐだぐだこの上ない展開を、先輩は「いいんじゃない?」の一言で了承した。こういういきあたりばったりな感じが割と好き、らしい。このテキトーさ加減が、彼女の無尽蔵の優しさと脇の甘さへと直結しているのだろう。
店が決まったのはいいのだけれど、ここは居酒屋である。当然、酒とつまみを楽しむ場所であり、そんな場で酒を頼まないのは……しかし、運転手の先輩が飲めないのに、俺だけ飲むのも違う気がする。これじゃただの割高な飲食店だ。
「とりあえず、レモンサワーひとつ。……きみは何飲む?」
モラルの狭間で葛藤しながら俺がメニューとにらめっこしていると、先輩は、おしぼりを持ってきた店員に平然と言い放った。
「……はい?」
そのレモンサワーは……俺に聞いてくるのだから、まあ、自分で飲むのだろう。いや待て待て待て。
「え? 先輩、飲むんですか?」
「? 居酒屋だよ?」
「でも運転は……」
「明日になれば平気だって」
「あー……。ん?」
「……あれ? 私、聞いてなかったっけ?」
ここに来て、先日デートに誘われた時の記憶を掘り起こして、気付く。
『週末、暇?』
先輩の言ってた"週末”というのはつまり……土日の両日を指す言葉だったらしい。 いや、分かるかそんなこと。
「もしかして、今日中に帰りたかった……?」
先輩が少し不安げに言う。こんな時だけあからさまに表情を変えるのは、さすがに反則だと思う。
不穏だ。それはもう、とてつもなく。
先輩と一泊するのがヤだとかそういう意味ではない。ただ、ここでの俺の決断が、ひとつの分水嶺になる、そんな気配を感じるのだ。
自惚れとかそういうのはこの際考慮しないとして。
桃原が俺の家に行きたいと言ったあの時。アレと同じ臭いがする。するのだが。
「えー、そしたら俺は……生で」
無理だ。断れるわけがなかった。無理すぎて逆ギレしそう。というかもうキレてる。
桃原と疎遠になりつつある今、この機を逸して、先輩とまでギクシャクしてしまったらどうしてくれるというのだ。
現実は、ゲームとは違う。愚直な選択が常に正しさを担保してくれるとは限らない。
……桃原よ。世の中には、一個人には抗いようのない、大きな流れが存在するんだ。だから、これについては、俺に非はないのだ……。
♡
薄々そんな気はしていたが、先輩は宿の手配など何一つしていなかった。
それこそ、観光地の鎌倉で、しかもとっぷり日が暮れた今からビジネスホテルなんて確保できるはずもなく……。あてどなく先輩と歓楽街を彷徨う。
思考はハッキリしていた。確かに、酔っぱらわないとやってらんない状況ではあったが、酔っぱらっていられる状況でもなかった。
これからの展開は……それこそ童貞でもお察しのところ。どうしよう。いやしかし……自分から泊まる選択をした以上、何を今更……。
いやっ…………しかし、しかし!!
「んー……♪」
俺の理性は、満潮を迎えつつあるリビドーに覆い尽くされつつあった。
「先輩……ちょっと、くっつきすぎです……」
「えー? でも、彼氏にくっつくのは、普通じゃないかなぁ?」
酔っぱらった先輩は、けらけらと笑い上戸を発症しつつ滅茶苦茶に甘えてきた。居酒屋を後にしてから、ずっとこんな調子である。垂れ気味な目尻は輪をかけて
そりゃ、人前で余り飲みたくない、なんて言ってるわけだ。
お可愛いことはたいへん結構なんだけど、おかげで俺の左腕はすっかり感覚を失っていた。というか、感覚を自ら遮断しておかないと、啓蒙され過ぎて赤い月が見えてきそうだった。
「そんなんじゃ歩けませんて……。ほら、カラオケとかあるんで、取り敢えず入りましょ?」
「うた、苦手」
「別に歌うわけでは……」
「こっちでいいじゃん」
駄々をこねる先輩が、指差した先は……まぁ、つまり、ラブホだった。もうこの人、わざとやってるんじゃないのこれ。
酔っぱらい特有の加減を知らない膂力を発揮する先輩に引っ張られるまま、入口へと辿り着く。言うまでもないだろうけど、人生初だ。
うろ覚えのネット知識を総動員してチェックインを済ませる。「ホントに矢印で案内してるんだ」と意味不明に楽しそうな先輩と共に、俺はぐちゃぐちゃになりそうな思考のまま、部屋へと突入した。
♡
もう、どうしたらいいか分からなかった。
先輩は、今頃、湯船を泡だらけにして浸かっているであろう。やけにテンションの高い先輩(あくまで平常時の先輩基準)を余所に、俺は2人掛けにしては幅の広いソファに座して深く深く考えを巡らせていた。
文明人の誇りを捨てて、肉欲の海へと飛び込むのか……。いや、それはなにか、猛烈に違う気がする。
よもや、あくまで偽の関係でちゃんとしたお付き合いはまだ……とか、そんな常識的な理由ではない。うまく説明できないけど、こんな降って湧いたような出来事に流されてはいけない気がする。そう、主体性のないままではいけないのだ。
ここまできてビビっているのか? と野次を飛ばされようが構わない。この際ビビっていると白状してもいい。
一時の欲情に身を委ねて、一度ならずニ度までも俺は地獄を見た、そのことを忘れちゃならない……。これは巧妙な罠だ。ここで負けるわけにはいかないんだ……!
追いつめられた脳味噌がフル回転し、不意に、強烈な閃きが奔った。俺の純血を守り抜くウルトラC……この鉄火場を乗り切る方法を、俺はよく知っているではないか。
それを実行に移すには、先輩がまだ風呂に入っているこの時しかなかった。
俺はテーブルに置いてあったスマホを手に、トイレへとダッシュした。
……。
…………。
賢者になった俺は、もう無敵だ。
先輩が入った後の、バスルームに充満する石鹸の香りにさえ動じない。そう、これでいい。これでいいのだ。
後は、ソファに横になってグッスリ眠ればいい。
そう、冷静に考えればおかしいのだ。だって、先輩は先程まで俺と桃原の微妙な距離感を心配していてくれていたではないか。その先輩が、俺を本気で誘惑するわけがない。
これも、いつもみたく俺があたふたする様を眺めて楽しんでいるだけの悪戯に過ぎないのだろう。今日はちょっと、酒が入ってタガが外れているだけ……という話だ。
それもこれも、俺がホイホイ女子に手を出せない小心者だと知ってのことに違いない。そこの信頼を裏切ってはいけない。
いよいよ意志も固まって、湯船から上がり、一直線にソファへと向かう。
「こーらぁ」
ソファを目前にして、突如、背中をぐっと引っ張られる。
「うぉっぷ!!?」
どこから出たかもわからない間抜けな声をあげて、次の瞬間には、俺はベッドに引きずり込まれていた。
バスローブに身を包んだ先輩が、仰向けに倒れた俺に馬乗りになる。自然、谷間が眼前に現れる。
いや、今の俺は無敵の賢者だ。これはただの脂肪……俺のお腹周りと成分は一緒……。
「そんなとこで寝たら、風邪引くよ?」
「……先輩、酔っぱらうと冗談が笑えなくなりますよね」
よくぞ言ったと思う。自分を誉めてあげたい。軽くどころではなく最低なこと言ってる気がしなくもないけれど。
先輩はそんな俺を、少しだけジトーッと見つめてきて……やがて大きく溜息をついた。
「やっぱ、魅力ないよね……」
「そうじゃないです。そうじゃないんですけど……。ホラ、別に俺達付き合っているわけではないですし……」
「別に、付き合ってないとしちゃいけないって決まりもないでしょ?」
もうここまで来ると間違いなかった。先輩は本気だ……。
「でも俺は……」
続く言葉はなかった。ちょっとでも言語中枢に思考を割けば、視線のコントロールがお留守になって、目の前の胸に釘付けになってしまう。
この上なくキモい、下心全開な俺の挙動にも、先輩は嫌がるどころか、どこか満足げに微笑むばかりで……ぶっちゃけ、一発抜いた程度で太刀打ちできる気がしなかった。
というか、俺の腹の贅肉と先輩のおっぱいが同じなワケないだろ!!
無敵と表現したのは誤りで、正しくは "無敵感" でした。ここに訂正とお詫びを申し上げます。
「恋人ごっこって言ってもさ……私だって、なんでもない人とそんなことできないから……。モモちゃんには悪いけど……私も、欲しいものは欲しい、わけだし」
たぶん、俺はコイみたに口をパクパクさせるばかりで、言葉にもなってないうわごとを繰り返すことしかできなかったと思う。
ヘビー級のボクサー並みのラッシュ力を誇る、先輩の言葉と肉感に、俺の理性はコーナーポストの傍らで震えて亀の子になるばかりだった。
「きみは、モモちゃんのこと気になってるかもしれないけど……。たぶん、だけどさ……」
そんな死に体の俺に、尚も先輩は猛攻を仕掛けてくる。
「私のこともさ、結構好きなんじゃない?」
見透かされたような言葉と共に、先輩は肘をたたんで、身体を重ねてきた。目の前に、先輩の紅潮した顔。そして、俺の胸板の上に、ぶにゅっと形を歪ませた先輩の胸が……。暴力的すぎる。心臓の鼓動が天元突破して、逆にゆっくりに思えてきた。
「いやっ。俺は、俺には……」
「鼻血だしながら言われても、ね……」
「え、マジっすか!?」
「冗談」
「……また先輩はこんな時に──」
なんでそんな悪戯を……。そう言おうとしていた俺は完全に油断しきっていた。いつもみたいなささやかなやり取りに、ほんの一瞬、気を緩めた。狐につままれたような、夢見心地なこの状況に、日常が帰ってきたかのように感じてしまったのだ。
がら空きになった俺の
意地悪な笑みを浮かべて、俺の唇を、ちろ、と舐めてきたのである。
そう、舐められたのだ。
先輩が纏う柑橘系の味と、僅かなタバコの残り香が、俺の五感をスパークさせた。
「!!!!?」
湿った己の唇と、ほんの一瞬触れた先輩の舌の感触を自覚して、俺は限界を越えた。
ずっと、それこそ死ぬ思いで抑えつけていた"オレ”に、どくどくと鼓動が宿り、血が巡る。
「あ……」
先輩も、俺の変化を悟って、チラリと下腹部を見て、妖艶に微笑んだ。
「やっと私のこと、見てくれた……のかな」
ずっと俺の理性を支えてきた桃原への罪悪感がそうさせたのか、彼女の笑顔が脳裏に咲いた。しかし、それも徐々に背景の白い光の中へと掻き消えていく……。
ここまで大胆になりながらも、耳まで真っ赤な先輩に……俺の中で、プツっと何かが弾ける音がした。
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