26.赤マルってラキストじゃないのか……



     ♡



 美少女との関わり合いという意味では、俺は今まさに人生の絶頂を更新し続けている、というのは疑いようのないことだ。


 かといって、全てが順風満帆というわけではない。絶頂期には絶頂期で、濃淡や明暗が確かに存在することを、先日の "桃原キョウコの消失" 事件絡みで身を以て知ったばかりだ。


 そして現在。俺はあのSFすこしふしぎな事象とは別の問題に直面している。


 たった今桃原から送られてきたLINEを見て、俺は焦りに焦っていた。


『ほんとゴメン! もう予定入っちゃってて;』

(註:セミコロン部は原文では汗を示す絵文字であった)

 

 ここ何日か、桃原と二人きりで会う頻度がグッと減っているのである。それは偏に桃原が、非の打ち所のない美少女であることに他ならなかった。


 既に入学からかれこれ2ヶ月が経つ。いくら大学生活のスタートダッシュをしくじったとはいえ、これだけの期間と彼女のスペックがあれば、そんなチョンボは帳消しになろうというもの。桃原は順当に友達を増やし、男女やサークル、果ては学部の垣根を越えて人気者になっていた。


 もはや彼女は、俺とだけつるんでいられるような存在ではないのだ。


 講義に一緒に出たり、隙間の時間を過ごしたりは依然としてできる。しかしそれでも、桃原はひっきりなしに声を掛けられるのである。大学内で完全に1人な時間があるのか疑わしいほどだ。


 そんなこともあって、必然的に2人でゆったり過ごす時間は目減りしていた。


 こうも雑音まみれでは、おちおち好感度をあげる事もままならない。やはり放課後にしろ休日にしろ、どこか2人きりで会える時間を確保したかった。


 デートに誘うにあたり、俺には宅飲みできなかった埋め合わせという大義名分がある。

 というわけで、漢らしく潔く、正面切って桃原をデートに誘ってみたのだけれど……正直、俺は桃原を侮っていた。


 彼女はともすれば、そこいらのアイドルなんぞとは比べるのもおこがましいレベルで多忙だったのだ。桃原がぱらぱらと捲るシステム手帳を覗き見れば、パステルカラーのペンで予定がぎちぎちに書き込まれている。とてもじゃないが「今週の土曜、暇?」なんて気軽に誘える状況じゃない。


「待ってね! なんとかして時間つくるから!」


 俺の誘いに対し、桃原は顔のパーツを中央に寄せる勢いで唸り、頭を抱えてデートの時間を捻出しようとしてくれたのだが。


 桃原のことだ。きっと彼女は友人関係にも濃い薄いなんて差をつける人間ではないし、意中の相手からの誘いとて、先約をドタキャンすることにも抵抗を覚えるだろう。


 そうまでして俺との時間をつくろうとしてくれる桃原に、嬉しさでくすぐったい気分になったけれど、罪悪感だって無いわけじゃなかった。


「う〜ん……ここの昼勤を休めば……」


「いや、そこまで無理しなくても大丈夫だって。もっと先で、空いてる日ない?」


「うん……ゴメンね」


 そうして、来月半ばにデートをしょんぼりしながら書き込む桃原を見て心を痛めたのは一昨日のこと。


 今日の2限目の講義は、桃原とは別々のものだったが、3限は被っている。ちょっと前なら、どちらともなく観研の部室に集い、和気あいあいと昼食をとるところだった。


 なんだか不安になって、大講義室の後ろの方から『昼、部室来る?』とLINEを飛ばしたところ、前述の回答である。


 彼女の返事はこう続いた。


『鍵だけ渡そっか?』


 違うんだ桃原、俺は別に、うっかり鍵を忘れて部室に入れないから困ってるってわけじゃないんだ……。


『いや、ただ、なんとなく、あいたいなって』


 そこまで打って、送信ボタンをタップする直前に俺は正気に返った。一体なんだこの薄ら寒い文面は。大宮じゃなくてもキモいって言うぞこんなん。


 しかし、俺にはひとつ確信があった。こんなクソキモい文言でも、送ったら最後、桃原は……俺のもとに駆けつけてきてしまう。


 そう思ってる俺自身がド級にキモいのは重々承知だが、あの子は、俺の想像なんて軽々と飛び越してくるくらい、バカみたいにいい子なのだ。そんな子が俺のことを好いてくれているのだから、こうまで都合のいい願望すら、自意識過剰な想定だと一蹴することなどできやしない。


 俺は『大丈夫』とだけ返信しスマホを机におくと、力無く背もたれに身を預けた。


 桃原、先輩、バイト、時々麻雀か天文部。この4つを行き来するサイクルを続けていた俺にとって、桃原との時間が減少していくことは、ようやっと安定し始めたキャンパスライフにぽっかりと風穴をあけられたようなものであった。


 会えない時間が2人の愛を育む、なんて都合のいい解釈ができるだけの余裕はなかった。世の中そんなに甘くはない。放っておいてコトが進展するのならば、年々20歳までの童貞率が増加している統計結果(ネット調べ)の説明が付かない。


 講義を終え、独りキャンパス内を移動していると、昼食に向かうであろう桃原と女子数名とすれ違う。今しがた昼を断ったばかりの相手である俺を目の前にして、桃原は少し申し訳なさそうに、それでも手を振ってくれた。


 気にするなよ、という意味も込めて慣れない笑顔で手を振り返す。こんな時に彼氏面してる場合か、俺……。


「あ」


 空虚な心持ちで観研へと向かう足が止まったのは、喫煙所の前。


 島林先輩がいた。


「お疲れさまです。先日は、どうも」


 先日とは、言うまでもなく大宮の件である。

 結局あの後、大宮はずっと不機嫌で、バイト中も仕事の合間を縫っては俺に舌打ちをしてくる始末だった。嫉妬というものが七つの大罪に名を連ねるその理由を実感した一幕である。


 要するに、フツーにウザかった。


「ちょっと、からかい過ぎちゃったかな……」


 俺の少し嫌味っぽい挨拶に、先輩は苦笑しながら頬を掻く。


「あいつも、あーみえてピュアですから。なにかと刺激が強すぎたんじゃないっすかね」


「そんな、私だって処女ピュアだよ?」


 急なぶっ込みに咽せそうになった。どうしてこの人は、こうコメントしづらいボールをホイホイ投げてくるのだろう。


 美人な先輩に意地悪されて戸惑う俺……そんな構図に幸福感がじわりと押し寄せる一方で、チャラ夫と先輩のあのシーンがフラッシュバックした。夢だと分かっていても、幸せを噛みしめる度に鳴らされる警鐘のようなそれを、無理矢理脳の隅っこへと押しやる。努めて意識しないようにしているのだが、やはりアレは俺にとって、相当ショッキングな構図だったようだ。


 あんなこと、(先輩の生乳含め)忘れようにも忘れられない。


「あの……」


「ん? どしたの?」


「……一本、貰ってもいいですか?」


「……え?」


 思考よりも先に口が動いていた。


 理由は不明だ。もしかしたら、桃原との気まずい距離感も、こびりついたあの忌々しい記憶も、ニコチンがいい具合にごちゃ混ぜにしてくれて、煙と一緒に吐き出せる……と思ったのかもしれない。


 とにかく、気づいた時にはそう言っていたのだ。


「まあ……いいけど」


「ありがとうございます」


 予想外な俺の申し出に、先輩は戸惑った様子だったけど、手ずから一本咥えさせ、火を点けてくれた。


 深呼吸するように、煙と一緒に息を呑もうとした瞬間……案の定、俺の汚れを知らない喉が不純物を全力で拒絶した。げほげほと咽せながら、窒息感と脳が萎んで揺れるような感覚だけが残る。


 ……やっぱり、何がいいのかサッパリわからない。


「あーあ……。慣れないことするから」


「すいません……」


「急に、どうしたの?」


「なんか……なんとなく、今日は上手く吸える気がしたんですけど……」


「なにそれ。こんなの、無理して吸うもんじゃないって……」


 先輩は俺の背中を優しく撫でながら、ヒョイとタバコを取り上げる。

 そして、吸い口をしばらくじっと見た後、そのまま俺の吸いかけを咥えた。


 ……マジかよこの人。いやっ、えっと…………マジかよ。


「最近、良く会うよね」


「そうですか?」


 俺の動揺と視界の揺れが治まったのを見計らったかのように、先輩は口を開いた。


 先輩の指す "最近" が具体的にどの期間を指すのか不明瞭であったけれど、彼女の言うことは恐らく当たっている。


 先輩とは、それこそ毎日のように会って談笑していたけれど、それはあくまでパフォーマンスの意味合いが強かった。今日のように、誰に見せびらかすでもなく2人で会うことは、桃原と比較してずっと少ない。


 しかし、桃原となかなか会えない近頃では、相対的に、とかではなく島林先輩との時間が増えていた。なぜだか、俺の行く先々に、まるで先回りしてるかのように先輩がいるのだ。


 ……いや、まさかね。


 ともあれ、先輩とこうして同じ時間を共有する度に、先輩の人間としての魅力を思い知らされる。だらしないけどそれもサマになっていて、案外人なつっこくて、お茶目で、めちゃくちゃ優しい……ぶっちゃけ好きにならない理由がない。


 いや、しかし、俺はあくまで桃原と添い遂げたい……はずなのだ。


 強固で揺らぎようのないものだと信じていた自らの意志が、根本から腐って、ふらふらと頼りなくかしぐのを俄に感じる。


「……」


 精彩を欠く俺の返事に、先輩は煙を吐くだけで何も言わなかったけれど。


 吸い終えたタバコを灰皿へ捨てると、先輩はゆっくりと問いかけてきた。


「週末、暇?」


「今週、ですか?」


 こく、と先輩は頷く。丁度、桃原をデートに誘おうと思って、あらかじめバイトは空けていた日だった。つまりは暇だった。


「じゃ、ちょっと付き合ってよ」


 呆気にとられている間に、アッサリとデートが決定した瞬間だった。

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