22. デネボラの妄言
♡
なんだか無性に腹が立ってきた。
簡単なロジックだ。興奮と憤りがないまぜになった状態で、一発ヌいたら、前者は開放感を伴って爆発し、後者だけが心に留まっていた、それだけである。
それでも、今の俺は、かつてなく『賢者』であった。
桃原と恋仲になるとたちまち悪夢へと転落すること、悪夢から目が醒めると時間が少し巻き戻っていること、そして、その後はこれまで見聞きしてきたイベントが繰り返し起こること……。
夢オチ、タイムリープ、パラレルワールド……頭の中で関連しそうな語句を片っ端から集めて羅列していく。一見、無意味な連想ゲームの積み重ねとも思えたが、散らばった点と点が線となっていき、支離滅裂で霞がかった一連の現象に、輪郭を与えていく。
めくるめく森羅万象が走馬灯のように駆け巡り、謎の数式が大量に浮かんでは消え……という、頭が悪い人が想像する頭がいい人のイメージの中に、俺の勘が閃いた。
刹那の閃きは、どこか夢に似ている。すぐにでもカタチにしないと、僅かな光が指先から零れ落ち、最早何も残るまい。果ては、自分が何を見出したかすら、忘却の彼方だ。
トイレの個室を飛び出し、飛ぶようなストライドで"彼女"のもとへと急ぐ。
「………来ると思ってましたよ」
俺は、『天文部』の扉を盛大に開け放った。
中にいた影山さんは、顔色一つ変えずに文庫本を閉じて、ため息のついでみたいな声音でそう言った。前回とは違った出迎えに、彼女は俺と同様、状況を真に理解しているのだと察しが付いた。
「ごめん、待った?」
「……そういうことでは無いんですが」
「なに、もしかして照れてんの?」
「その発想がもう気持ち悪いです」
挨拶もそこそこに済ませて、いつものように、専用スペースとなりつつある例のソファに座る。
どっかり、という擬音が相応しい俺の所作を、影山さんは訝るような視線で追っていた。
「やけに落ち着いてますね」
「ま、2回目だしね」
「私は、それそのこと自体に驚愕しているのですが……」
俺が腰を下ろすと同時、シーソーの対面にいるみたいに彼女は立ち上がって、電気ケトルの電源を入れて、コーヒーの支度に取りかかる。
一応、今この瞬間、俺は部員ではないはずなんだけど、影山さんは嫌な顔一つ……いや、普通にちょっと嫌そうだったけど、それでも形式的には俺を歓待してくれた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「いえ。それよりも……」
影山さんは俺に、マグカップと質問を差し出した。
「2週間ほど時間が戻っていたのですが……今度はなにをしたんですか」
「そのことなんだけどさ。俺も最初は分からなかったんだけど、閃いちゃったわけよ」
影山さんは無言でコーヒーを啜る。返事こそないけれど、続けろ、と眼鏡の奥から訴えが聴こえたような気がしたので、早速自説を披露する。
「ルート分岐してんじゃないかなって、思ったんだ」
「……ルート?」
「そう。桃原と俺があの日恋人同士になると、今みたいな、ぶっちゃけバッドエンドに突入するって寸法……」
「バッドエンド……ですか?」
影山さんは、はて、と小首を傾げるばかりだった。
彼女はどうやら、その手のゲームには超がつくほど疎いようだった。おかげで俺は、恋愛ADVのなんたるかを、ゲームブックの起こりから解説する羽目になった。
「なるほど……」
「えーっと、分かってもらえた?」
「もう大丈夫です。……すみません。正直なところ、語感と文脈でそれとなく想像は付いていたのですが、知ったかぶりもよくないかと思いまして。……あと、佐倉くんに文脈を期待するのも間違いかな、と……」
「めっちゃ殊勝にディスるじゃん」
ギャルゲーとはなにか、根本的なところから女子大生相手に解説してちょっと死にたくなっていたところにこれだ。
「つまり、佐倉くんと桃原さんが恋人同士になると、桃原さんは存在せず、島林さんは別の男性の彼女になっているという……佐倉くん的には最悪な世界に飛ばされてしまうと……?」
「まあ……少なくとも、昨日の段階で桃原と恋人同士になっちゃいけないんだと思う。正しい手順というか方法を経ないと、この悪夢からは逃れられない、的な」
常日頃その手のゲームやらアニメやらに慣れ親しんだオタク諸氏にならば、俺の言いたいことのエッセンスは伝わっているであろう。
俺の考えは、ギャルゲーにおけるフラグ管理、或いはルート選択をミスって延々とセーブポイントからリプレイしているのが今の状況ではないのか、というものであった。セーブポイントというのはつまり、5月の23日──決定的な出来事なんてなにひとつなかったが、それ故に、俺の心が桃原と島林先輩の間で揺れ動いていた、そんな時期だ。
なんでこうなったかなんて知ったこっちゃないが、とにかく俺は現状をそう解釈した。オタクゆえ、これしかしっくり来る説を思いつかなかったってのはあるかもだけど、それでもそこそこに説得力はあると自負している。
「なるほど」
俺の力説に、影山さんはひとしきり頷くと、手短に感想を述べた。
「正直、感心しました」
「おっ、マジ? 影山さんがそう言ってくれると俺も自信が──」
「こうも都合良く捉えられるものかと、感心しました」
「……はい?」
思わずソファからずり落ちそうになる。影山さんは意外と皮肉屋だったみたいだ。
「それだと、此処に佐倉くんの声が聞こえてくる現象に全く触れていないではないですか」
理由を聞く前に、影山さんは淡々とダメ出しを始めた。
「それは……」
全然考えていなかった。でもしょうがないじゃないか。こんな異常事態、自身のことを考えるので手一杯なのだ。
もごもごと口籠る俺を見て、影山さんは「ふっ……」と息を漏らした。おそらくだが、笑っていた。
「加えて言うなら、佐倉くんがバッドエンドと称する今の世界も、貴方の主観でのバッドエンドに過ぎないじゃないですか」
「……あんだって?」
「まぁ、百歩譲って桃原さんについては、居たはずの人が消えてしまうなんて、気の毒だとは思いますが……。少なくとも、島林さんの件は、佐倉くんの単なる嫉妬ですよね?」
「いやっ! ………いや、違う! それは違うぞ」
「そうなんですか?」
「だって、
「……貴方は、島林さんの父親かなにかですか?」
だいたいですね、と影山さんは続ける。
「やれチャラ男だのチャラ夫だの、紛らわしいんですよ。あなたの心の声を聞かされる身にもなってください」
言いがかりもいいところだった。俺だって好きで聞かれてるわけじゃないのに。
「……それに、話せば分かると思うけど、先輩はあんな奴の手込めになるはずないんだよな。奴がなにか外道な手を使ったに違いない」
「というと?」
「……催眠術、とか?」
「発想がチャチ過ぎやしませんか」
今度はため息を吐かれてしまった。
しかし、こうも好き放題言われてしまっては、此方だっていよいよ引っ込みがつかない。
「桃原だって、本当にいたんだ」
「そう言われましても。彼女については、私はあくまで、佐倉くんの心の声で過剰装飾された情報しか持っていませんし」
「確かにいたんだって! 俺は見たし聞いたし触ったし、ヤる寸前までいったんだ!」
「死ね」
明らかに本心からの言葉だった。
周囲のコバエ程度なら地面に縫いつけられそうな圧に負けて、思わずいつもより行間を広くとってしまった。
でも実際、ツヤというツヤをまるっと失った影山さんの瞳は、レッドゾーンまでぶん回していた俺をコンマ1秒で静止させるくらいには迫力があったのだ。
「すませんでした」
即座にソファから上体を起こし陳謝する。カタツムリが土下座したらこんな感じなんだろうな、という姿勢だ。
「いえ……。私も、少々、言葉が過ぎましたね」
俺が恭しく
「理由はどうあれ、佐倉くんが
でもこれは、あくまで、佐倉くんの問題ですから。と、影山さんは投げやりに話を〆にかかった。
「もとより、こんな珍妙な現象に対して、私が……
突き放すような物言いで、心にもない応援の言葉を吐く影山さんに対して。
やっぱ、まだ怒ってる? なんて、聞けるはずもなかった。
♡
自宅に舞い戻って、日課に精……精を出そうとしたが、困ったことが起きた。
「どうしたというんだ……」
元気がでないのである。なにが、とまでは言及しない。そこは察して頂きたい。
題材を選んでいても、TEN○Aを装着しても、思い起こされるのは昼間の先輩とチャラ夫のことばかりだった。
先輩が心からチャラ夫を好いているのかどうかという問題は、この際隅に追いやったとして、それでも、彼らが所構わず2人の世界に没入するほどに、互いに求め合っていたのは紛れもない事実である。
対して今の俺はどうだ? 狭い自室で1人、修行僧が座禅を組むかのように……見事なコントラストである。同じ大学生なのに、どうしてこんなにも違うのか?
ただただ虚しかった。
時間が経ったからこそ、こうして日中のことを思い出す度、湧き出るのはさもしさばかりだった。影山さんの指摘は全く持ってその通りで、俺は間違いなく、2人に嫉妬していた。
一度自覚してしまうともうダメだった。自分の矮小さを嘆く者に、自己の増幅の局地へ至るのは到底無理に思えた。というかなんだよ、このシリコン製品は……。
バカバカしい、止めよう……。
男根のみならず心根まで萎れた俺は、なおも俺にしがみつくTEN○Aを、宙に放り投げたのだった。
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