19. 転進



     ♡



「喋り疲れました。……帰っていいですか」


 衝撃の事実を俺に向かってつきつけるだけつきつけた影山さんは、相変わらずストレートな物言いで俺を部室から追い出した。

 一応知った仲ではあっても、部員じゃない俺を残して帰ることはできないのだという。


 そればかりは正論だからどうしようもない。というか、俺も特に天文部室に残ってやることなんて有りもしなかったため、西日がガンガンに差し込む階段を降りて、部室棟を後にする。


 影山さんが見せてくれた新入生の名簿に、桃原の名前は載っていなかった。それはつまり、もとから彼女がこの学校に存在していなかったことを意味する。


 なるほど、朝から度々感じていた違和感もこれでキレイに説明がつく。最初からいないのだから、メールの履歴もなきゃ、周囲の人間の記憶にもないのは当然だ。


 本来絶望しても良さそうなこの事象に対して、俺がにわかに覚えていたのは、興奮であった。


 だってこんな、世にも奇妙な状況に置かれて、なにか壮大な物語の中にあるような高揚を抱かないなんて無理な話だろう。


 いや、確かに、シャレにならない事態ではあるんだけど、正直、これから何が起こるのかを期待していないといえば嘘になる。


 もしかしたら、テコ入れからのバトル展開ってのも十分考えられるぞ。魔法とかバンバン撃ち合ったりしちゃうかもしれない。


 ……思い返せば、この時の俺はだいぶ楽観的に構えていた。

 しかし、だからといって……いや、だからこそ。そっくりそのまま影山さんの仮説──桃原と結ばれたあの夜に至るまでが、俺の妄想だったってことを支持するわけにはいかなかった。


 つまり、彼女のいうことを信じるのであれば、俺は自分の夢の中で桃原なる理想系の美少女を創り上げ、先輩と桃原とのわいきゃい愉快で心躍るキャンパスライフを夢想していたことになる。


 いや、さすがに無理だろ。


 そりゃ、最近なんか物事がいい方向に転がりまくってんなぁ、とは常々思ってたし、桃原たちとしゃべくっている時間は夢見心地であったのも否めない。しかし、しかしだ。


 桃原の如き美少女を造形する想像力が俺にあるか、と言われれば、ノー、なのである。


 童貞オタクの妄想と一笑に付すには、桃原はオシャレ過ぎた(というか俺のオシャレ偏差値が低すぎなのだが)し、予想外の言動にあたふたさせられたことも多々ある。


 それになにより、桃原が抱きついてきたときの温もりも、島林先輩が胸を押しつけてきたときの熱も、間違いなく俺の未体験ゾーンであった。


 影山さん本人も言っていたが、彼女の説だって仮説に過ぎないのだ。その場ではなんとなく納得してしまったが、どんなことも淡々と喋るから、説得力があるように聞こえるだけに違いない。もし男友達に影山さんとおんなじことを説明されても、相手にせず一発ぶん殴るだけだろうことは想像に難くない。


「え……ここで?」


 さて、『観研』に戻ってみるか否かと、部室棟の前で少しばかり逡巡していると、どこからか島林先輩の声が聞こえた。


 発生源であろう方角に目を向ける。部室棟の裏手、住宅街とキャンパスとの境界線として設けられたブロック塀との僅かな隙間に、先輩がするりと入っていくのが、視界の端に捉えられた。


「いいじゃん、ちょっとだけ」


「それ、いつも言ってる……」


 好奇心は猫を殺すという。そして俺は、そこら辺の野良猫とタメ張れるくらいの貧弱さタフネスをウリにしている。


 そこはかとなく嫌な予感はしたが、異様な空気を放つ例の隙間に、俺の足は吸い寄せられていた。


 覗き見ではない。これはれっきとした情報収集だ。こういう細かい観察の積み重ねが、好感度の糧となっていくのだ。


 恒例の自己弁護を済ませると、俺は息を潜めて、部室棟の角から片目を忍ばせた。


 そこには、ブロック塀を背にして立つ先輩と、彼女に覆い被さるようにして壁ドンするチャラ夫がいた。


 なんてこった。チャラ夫め、進退窮まって、遂に人の道を外れちまったのか! このままでは先輩の純血が!


 脳内で、パパパパパパパゥア〜、とまぬけな警告音が鳴り響く。助けを呼ぶ暇なんてあるはずない。この身を賭してでも守るんだ。


 いざ参らん、と身を乗り出しかけたところで、


「別に、ここじゃなくてもよくない? 誰か来たらヤバいし……」


「静香が大きな声出さなきゃヘーキだって」


 ……なんか、違う。


 これはチャラ夫が強硬手段に出た訳じゃない。そう悟るのに、それほど時間は要さなかった。


 先輩、全然嫌がる素振りがないんだ。


 チャラ夫の手は、さっきからずっと先輩の腰に回されていて、デニムの上を太股から尻にかけて、ゆっくりと這いずっている。こんなの、普段ならとっくに血祭りにあげられているレベルの所業だ。というか、フツーにしょっぴかれるレベルのやらしい手つきであった。


 だというのに、先輩はその手の上に軽く自分の手を重ねるだけで、本気で止めにいかない。俺にはわかる。あれは、形ばかりの抵抗だ。だってアレ、


 まるで演技する気ないAVでよく見るやつじゃん……!!


「そういやさ」


「ん……。なに?」


「部室で、佐倉君になんて言おうとしたん?」


「え? あー、あの時……んっ」


「お、エロい声」


「うっさい。……今日の例会は来てくれるのかな、て……」


「なんじゃそら」


「だって……佐倉君、最初の2、3回来ただけで顔出さなくなってたし、さ……。せっかく入ったんだから、楽しんで欲し……笑わないでよ」


「いや、でもさー、あのタイミングでそりゃねーべ」


「だから、言うの止めたじゃん」


「ごめんて」


 耳鳴りがした。


 2人の会話も、もはや耳障りな只の"音"でしかなかった。

 ただ、俺が2人の雰囲気作りのダシにいいように使われている事だけは、かろうじて理解できた。


 この後の展開なんて、見てもないのに、見たくもないのにそらんじられる。


 動悸が激しくなって、耳鳴りが一層酷くなった。全身の血という血が目から吹き出しそうになるのに、手も足も動かせずにいた。


「でもやっぱ、静香もブキヨーなりに優しいよな。そーゆーとこ、好きだわ」


やっすい告白……」


「嫌だった?」


「嫌、じゃない」


 チャラ夫の手が上を向く。進路を転換したそれが、先輩のデニムからカットソーの下へと侵入していき──


『これが現実なんですよ』


 刹那、俺は弾かれたように身を翻した。


 叫びそうになるのを堪えるので必死だった。……いや、実際は叫んでいたかもしれない。わからないが、とにかく走り出していた。


 最後に見た、先輩の蕩けた表情が、網膜に焼き付いて離れない。


 他愛のない話で笑ってくれる桃原も、喫煙所で微笑みかけてくれた先輩も、全部ぐちゃぐちゃに溶けていく。


 なんだこれ!? なんだってんだよこれは!?


 俺の絶叫に、影山さんの冷淡な声が木霊する。


『これが現実です』


 んなわけあるか!


 あってたまるか!


 視界がぼやける。涙は出ていなかった。いや、泣ければ、喚ければ、どれだけ楽だったことか。


 影山さんの言うことが正しいのかもしれない、と一瞬でも思ってしまったのだ。その瞬間、ありえない、ありえないと脳内で繰り返す言葉もどこか嘘っぽく、空虚なものに思えてくる。


「悪夢だ……」


 そうか。そういうことか。これが、これこそが悪い夢なのだ。そうでなくては、説明がつかない。


 方角も適当で、信号を守っていたのかさえもちぐはぐで、果ては歩いているのか走っているのかさえ曖昧だった。


 それでも、気付けば下宿先のアパートに戻っていた。帰巣本能ってやつだろう。おそらく俺の理性は、野生に還りかけていた。


 今日はもう寝よう。寝て、起きれば、きっとこの悪夢だって終わりだ。だから、


「なんで……」


 玄関には、出鼻を挫くように──あるいは、俺の帰りを待っていたかのように。


 TEN○Aが立っていた。


 まるで、『お前には、オレがいるだろ?』とでも言わんばかりだった。


「……寝る前に、おひとつどうぞ、ってか?」


 夜風に冷めた汗が俺の身体を伝っているからか、もう何もかも投げ出して寝ようと決意したからか。


 俺はほんのちょっとだけ冷静になっていた。


 この上なく冷静に、俺は、キレた。


「バカにすんじゃねーよ!!!!」


 こみ上げてきた怒りを抑えることなく、俺はにっくきシマシマを蹴り飛ばした、その瞬間。


 ──"目が醒めた。"

 

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