18. プルケリマの洞察



     ♡



 よたよたと覚束ない足取りのままに観研の部室を後にし、気づいた時には『天文部』の扉の前にいた。


 本当に、何の気なしであった。観研に人がいなかったら、とりあえずここにも寄ってみる、みたいな日頃のルーチンが、錯綜する思考とは関係なく俺の脚を動かしていたみたいだ。


 ドアノブをひねると鍵は掛かっていなくて、中には影山さんがいた。

 望遠鏡のレンズを筆みたいなブラシで磨いてる途中だった影山さんは、俺の来訪に心底驚いたようで、珍しく俺でも分かるくらいに目を見開いていた。


「え…………、と。なんで来たんですか?」


 俺の記憶の通りにずいぶんな挨拶をする影山さんに、思わず乾いた笑みが溢れる。こんな反応をされて安心してしまうなんて、俺は相当弱っていたようだ。


「相変わらず手厳しいな……。一応でも部員なんだから、なんで来たっていいでしょ」


「……はい?」


 なんか、影山さんに会うたび毎回こんなやりとりをしてるような気がする。

 でも、「そうですか」とか「はぁ」とかに代表される諦めに似た反応を寄越すことが専らの彼女において、ここまで胡乱げにまじまじと見られるのは初めてのパターンであった。


「え、なんか俺、変なこと言った?」


「……ええ。それはもう……」


「えーっと……どこらへんが?」


「佐倉くん、あなた別に……ああ、そうか……そうですね、そういうことか……」


 なにが『そう』なのだろうか。彼女は俺を置いてきぼりにして「道理で……いや、」だのなんだのぶつぶつ呟いていた。正直ちょっと怖かった。


「………………あの、影山さん?」


 セルフ納得ループに入ってしまった影山さんに痺れを切らして、そっと伺いを立てる。

 影山さんは影山さんで一応の結論をこさえたようで、正眼に俺を捕らえると、眼鏡と姿勢を正して口を開いた。


「佐倉くん。あなたは、天文部の部員ではありません」


「……へ?」


「ああいや、少し落ち着いてください。続きがあります」


 てっきり、遂に影山さんの堪忍袋がぷっつんして、俺を放逐すべく動き出したのかと思う暇もなく、彼女はノータイムで俺に待ったをかけ、こう続けた。


「正確に表現するならば、ですね。《此方こちら》では、佐倉くんは天文部に入部していません」


 …………。


 このインテリメガネ、表情差分が皆無なのをいいことに、俺をおちょくっているのか? んだよ、《此方》って……。


 イカすじゃん。


「いきなりどしたの? 影山さん、実はそういう感じの好きだったり?」


「だから嫌だったんですよ……」


 影山さんはわざとらしくため息を吐くと、また手元のレンズのメンテナンス作業に戻ろうとする。もう知らねーよバカ、とでも言いたげだった。


「あ、ちょ、待った待った、待ってよ影山さん、ほんとごめんマジメに聞く」


「…………」


 慌てて謝ると、影山さんは表情こそ微動だにしないし、なんの言葉も発さなかったけれど、すぐに手を止めてくれた。きっとこういう子がダメ男に引っかかるんだろうな、と思ったが頑張って黙った。


 影山さんは、そのまま優しい手つきで望遠鏡を傍らの作業台に置くと、コタツ机の上に放置されていたスマホに手を伸ばしてなにやら操作し始めた。


「これを最初に見せるべきでしたね」


「これは……天文部の部員リスト?」


「そうです。佐倉くんのお名前は……」


「あれ……? マジでないじゃん……いつのまに消──」


「消してませんから」


 先手を打たれてしまった。


 確かに、ポータルに俺の名前は載っていない。それに、ここで彼女が俺に嘘を吐く理由がまるでない。


 ……強いて言えば、彼女の世界観ごっこあそびに引き込むための偽装、とか浮かんだが、それ言ったら一生口きいてもらえなくなりそうだ。


「あー、そしたら……影山さん」


「なんでしょう」


「つまりきみは、部員でもない俺が急に部室に押し入ってきたからビックリした……てこと?」


「……ええ、まあ」


 付け加えるなら、今日この瞬間までまともに喋ったこともないらしい。そう言われて、俺は思わず口を挟んだ。


「じゃなんで影山さんは俺のことわかるのさ」


 俺と影山さんは学部が違う。

 これが持つ意味は、中学やら高校やらでの『違うクラスだから接点がない』とはワケが違う。

 同じ大学であっても学部が違えば、そもそも講義を受ける建物からして違うのだ。そうなると活動範囲も大きく異なってくるし、それこそ、サークルなんかで一緒じゃなければ知り合いになる確率は非常に低い。


「だから、《此方》では、と言ったんです」


「えー……じゃあなに、あちらもあるわけ?」


「それは、佐倉くんもよくご存じだと思いますけど」


「……ん? あー……つまり…………影山さんの勧誘に俺がのっかったのは──」


「あちら、ですね」


「んじゃ、6月になんたら流星群を見に行くことになっているのは」


「うしかい座ですか。それもあちらですね」


「ははーん……」


 なるほどわからん。


 ざっくり、俺の理解できた範囲でいうと、二つの世界を俺は生きていて、でも記憶は一つで、そして……そして、頭上の柔道場から怒号とスプリングが軋む音が響き始めた。うるさすぎて集中できない。


「もいっこ質問いい?」


「……私のわかる範囲であれば」


 影山さんは少し億劫そうだった。しかしそうもいっていられない。


「俺は、えっと……たぶん、影山さんの話で言う、《あっち》? の記憶しかないんだけど……なんで《こっち》の影山さんが《あっち》のことも知ってんの?」


「知りませんよそんなの」


「えぇ……」


 即答だった。ここまで見事にバッサリいかれると、もう何も言えない。


 肩を落として "人をダメにするソファ" にドフッと沈み込んだ俺を一瞥した影山さんは、なにやら立ち上がって書棚へと足を運び始めた。


「実際のところ、よくわからないのは確かなんですが。ただ、分からないなりに、仮説みたいなものを考えてはいます」


「……聞いてもいいやつ?」


「ええ。……つまり、今居るこの部室が現実で、もう一方が佐倉くんの夢──というか、妄想の世界なんじゃないか、と」


「……俺の、夢……………?」


 その心は、と訊ねようとした矢先、彼女は自説の解説を始めた。


「この部室にいると、佐倉くんの声が響いてくるんですよ」


「…………は?」


 予想だにしなかった論拠に、思わず声が裏返る。


 影山さんは、呆気にとられる俺をもう慣れたものとばかりに無視しながら書棚と相対し、背中越しに言葉を継ぐ。


「文字通り、反響するんです。おそらくは、心の声というやつかと」


「そんな馬鹿な……」


「桃原さんと、島林先輩……あとは大宮さん……でしたっけ? 随分楽しそうでしたね」


「……なんで知ってんの」


 影山さんを相手に、彼女たちを話題にしたことなど今まで一度だってない(一回だけ匂わせ的なことをやってみたことはあるが、普通に無視された)。つまりはそういうことだった。


 三人の女性を天秤にかけ悪趣味な品評をする、あなたの気持ち悪いぼやきを聞かされ続ける身にもなってください。書棚を漁りながら、影山さんは声色一つ変えずに空恐ろしいことを言う。正直、血の気が引いた。


「それに引き換え、今日は静かで過ごしやすかったですし……あ、あった。もひとつありますよ、根拠」


 ようやくお目当てのブツを見つけたらしい影山さんは、書棚から一冊の冊子を取り出した。


「オリエンテーション用学務資料……?」


「佐倉くん、どうやら桃原さんにお熱だったみたいなので。暇潰しに探してみたんです」


 パラパラと頁をめくり、あるところで手を止めた影山さんは、それをソファに埋まっている俺の前に差し出した。


 新入生一覧。


「少なくとも、現実こちらには。桃原杏子という名前の1年生はいないようです」

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