17. たくさん笑う君が好き



     ♡



「うーん。桃原さん、ね……」


 『観研』の部室にて、島林先輩は相変わらずの眠たいんだかやる気が無いんだか判断のつかない生返事をした。


「知らない、かも。まぁ、私、未だに新入生の顔と名前、一致してないんだけど……」


 5秒くらい考え込んで(多分なんも考えてないけど)、あはは、と先輩は力無く笑った。


「でもほら、モモちゃんなんて呼んでたじゃないですか」


「……そうだっけ?」


 三限の終業のチャイムが鳴ると同時、チャラ男達の飲みの誘いを適当に躱して、俺は『観研』の部室へと一直線に向かった。


 あの『JOY』の新歓に関しては、なんせ俺に記憶がないだけに、チャラ男やギャル子先輩の方が事実を正しく認識している可能性は高い。それは認めよう。自室で目を覚まして桃原と言葉を交わしたあの瞬間も、二日酔いでどこか現実感が希薄だったので、前後関係を誤認しているってのも十分有り得る。


 ただ、それでも、桃原はいたのだ。確かに、俺の隣に。


 素面でずっと同じ時間を共有してきたこの『観研』であれば。ここならば桃原の居所について、手掛かりを得られることもあろう。


 そんな閃きに縋り、部室へと急行すると、渡りに舟とばかりに先輩が椅子に座ってカフェラテを啜っていた。


 そこまでは良かったんだが、よもや先輩の記憶の中にすら桃原は存在していないとは。決して一度や二度でなく会話を交わした相手のことを忘れるなんて、いくら常日頃ぽやぽやしてる島林先輩でもそこまでアホじゃないはずである。


 ようやく俺は実感を以って理解した。どうやら、おかしなことになっている。


「あんまし顔出してないとかあんじゃね? 部員録的なのないの?」


 視界に入れつつもスルーしていたのだが、部室には、先輩と一緒にチャラ夫も居た。ヤツが先輩の隣を陣取っていたのが気になったけど、果たして二席空いた先を隣と呼ぶべきかは限りなく微妙である。


 しかし、チャラ夫のくせして的確なことを言う。


 記録を確かめないと思い出せないくらい桃原が皆の頭から消えているのも問題だけど、最低限、存在だけでも確認したかった。


「そーいうのは代表の仕事だから、私はなんとも……。……あ、でも、ポータルには名簿あるかも」


 我が大学には、在学生向けのポータルサイトがあった。そこでは、個々人が履修登録や時間割の確認、休講等のお知らせ受取なんかを行うことができる。スマホ時代においてはありふれたシステムと言えるだろう。


 サークル各位も、そのポータルサイトで年間の活動報告や部員の登録管理なんかを行っているらしい。逆に言えば、サイトで登録さえされていれば誰でも部員として扱われるので、天文部の様に大半が幽霊部員なのに部として存続しているところもあるのだが、それはともかくとして。


 先輩は、ごそごそと探るようにポケットからスマホを取り出して、ポータルサイトにアクセスした。


「やっぱ居ないけど……」


「どれ、見して」


「近いんだけど」


「そんな事ゆーなってなあ、しずかぁ〜」


「名前で呼ばないで」


 隙あらば接近しようとするチャラ夫を、先輩は肘を張ってグイグイと押し返す。まあ、確かに、チャラ夫先輩がこれを夫婦漫才だと勘違いしちゃう気持ちもわからんではない。


 しかし、これを本気で嫌がってると知る身からすれば、なんとも哀れな光景だ。チャラ夫にとっても、先輩にとっても。


 だがなんというか、この人たちはいつも通りで安心し…………あれ? なんかおかしくね? なにが、ってのはいまいちピンと来ないんだけど……何かがおかしい。


 いや、今いちばんおかしいのは間違いなく、"桃原の不在"なんだけれども。


「本当に居ないんですか?」


 先輩がひょいと差し出したスマホを受け取り、目を皿にして何往復もスワイプする。


 スワイプしてスワイプして……だけど、桃原杏子の名は、半日前に俺の彼女となった女の子は、いくら画面を擦ろうとも現れない。


「マジかよ……」


「えーっと……彼女?」


「…………はい……」


「ウチにいたんだよね?」


「はい……居たんです、本当に……」


 桃原がころころと笑う声が、ちょっと吹き出すように笑う表情が、口を抑えて大笑する仕草が、頭の中をぐるぐるとリフレインする。

 思い返せば、あのコはいつだって笑っていた。むくれて見せてもだいたいそれは冗談で、数秒しないうちに照れて笑っちゃうような、そんなコだったのだ。


 そんな、桃原が、消えた。


 2ヶ月弱という短いけど短くない時間、彼女とたくさん話して、たくさん笑って、たくさんドキッとさせられていた俺は、一体何にときめいていたというのか。


 電子の海に揺蕩たゆた情報データは、人の記憶なんてあやふやなモノよりも余程客観的で、それ故の無慈悲さを俺に突きつけてくる。


「……」


 最早言葉もなかった。演技でも何でもなく、本当に桃原の事をハナから知らないであろう様子の二人に、これ以上何を言っても意味がない。居もしない人の話を必死に語るなど、狂人のそれである。


 たとえ俺の記憶や経験が正しくたって、正しい者がこの世に一人しかいなければ、それはもう間違いでしかないのだ。


 先輩もチャラ夫も、茫然自失の俺を前に、おろおろと困ったように顔を見合わせていた。


「あ〜……佐倉君さ、そろそろ俺ら、ゼミに顔出そうと思ってるんだけど……例会までココ居る?」


 珍しく空気を読んだように、チャラ夫が控えめな声で提案する。


「いえ、俺もちょっと用事あるんで……。すんません、なんか、変なこと言って」


 これ以上、桃原が居たはずのこの空間に居続けたら、さらに頭がおかしくなりそうだった。今だって俺は、十二分におかしくなってしまっているのに。


 それになにより──原因は分からないし、本当に感覚の問題なんだけど、自分の居場所だったはずの『観研』に、今はどことなく疎外感を覚えていた。


 今はもっと別などこかで、頭を冷やすべきだ。


「あのさ──」


 きびすを返そうとした瞬間、ふと先輩と目が合う。


「……なんですか?」


「えーっと……。ううん、なんでもない」


「そう、ですか……」


 憔悴しきった俺に、掛ける言葉も見当たらなくなってしまったのか。島林先輩はそれ以上、引き止めてくることもなかった。

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