16. あの子のいない朝と昼
♡
なにか、とてつもない力に引き込まれるような、或いは、崖から落ちるような浮遊感の中にあって、それらが止んだ時には朝になっていた。
壁に掛けている時計を見ると、時刻は6時ちょっと前。カーテン越しの薄明かりと、スズメやらムクドリやらのさえずる声から、まず間違いなく午前の6時であろうことはわかる。
そんな爽やかな早朝、俺は、ベッドの上で、一人で、全裸で、
股間にTEN○Aをぶっ刺したまま。
……どゆこと?
「お前……いたのか」
いつ失くしたかもわからないまま、このまま頼ることもないかなと、すっかり忘れかけていた。……しかし一体、このヒンヤリ感はなんだ。まるで冷蔵庫から出した直後の如き冷気に、俺は首を傾げるばかりであった。冷蔵庫の中なんて、それこそトレーをひっくり返す勢いで探したはずなのに、なぜ…………いや、そんなことはどうでもいい。どうでもよくないが、比較的どうでもいいのだ。
体感時間的における数瞬前まで、俺は桃原と身も心も結ばれていた。いや、より正確に言えば身も結ばれそうになっていた。
じゃあ、この状況はなんだ?
ズキズキと痛む頭が、かつての体験を否応なく想起させる。ちょうど、桃原とのファーストコンタクトも、こんな二日酔いに苛まれながらだった。
でもそれはあまりにもおかしい。あれから俺は、幾度かの飲み会を経て、自らのアルコール分解能の限界を見定めることに成功している。今回はチューハイ2本目に手をかけていた程度のものであり、俺のリミットにはかすりもしていないはずなのだ。
……いや、この際、俺の健康状態だってどうでもいい。もっと甚大に俺の記憶と異なる要素がある。
「桃原は……?」
彼女は忽然と姿を消していた。居ないのだから、帰ったと考えるのが極々自然な発想になるんだろうけど…………おかしいだろ。現実の恋愛って、ヤることヤったら即解散的な、発情期のノラネコみたいな感じなの?
そうでないとしたら、いちばん有り得そうなのは──それと同時にいちばん考慮に入れたくない可能性としては、俺がなにか、それこそ自分で自分の記憶を消したくなるほどのとんでもないやらかしをしたとか……。
知らずと手元に転がっていたスマホに手を伸ばす。現代人の心の拠り所は概ね、この6インチ足らずの板の中にあるのだ。そして、現状を知るための手がかりも、きっと。
が、電源が入らない。バッテリーが仄かに熱を発しているところを見るに、どうやらつけっぱで放置してしまっていたようだ。
期間限定スタンドアローン人間と化した今、俺にできることはスマホを充電することくらいだった。その間も疑問と不安は止まない。心が結ばれても身体的不一致が原因で結局上手くいかない、なんてのは、巷でよく聞く話だが、こちとら対戦経験のないルーキーなのだ。相性の良し悪しなどわかるわけがない。
とりあえず、考えられる限りを単純に時系列で並べるとこうなる。
桃原と結ばれて、にゃんにゃんして、彼女は帰宅して、俺はTEN○Aと合体していた。
まるで意味がわからない。
まあでも、ポジティブに考えれば、だ。なにか失敗して彼女にそっぽ向かれた直後に一人でフィーバーできるほどの精神的タフネスなんて俺には無いに決まっているので、きっと桃原とはなんやかんや上手くいったに決まっている。もしかすると……
そういうプレイなのかもしれない。
……うん、少し落ち着いた。そりゃねーわ。
ただ、なんというか。なにかが変だ。
それが、机の位置の微妙なズレなのか、小物のレイアウトなのか、食った覚えのないカップ焼きそばの残骸なのか……原因は判然としない。拭いきれない違和感が、羽虫のように俺の意識へと纏わりついていた。
「さむっ!」
思考とは別に、身体が唐突に震える。
そうだった。いま俺、裸じゃん。
初夏といえど、朝方に裸でいたらバカでも風邪をひく。
記憶はすっ飛んでいて、寝たかどうかも定かではないけれど、寒さを自覚したら、途端に睡魔が襲ってきた。
バイトもある、サークルもある、そしてなにより桃原とのこれからもある。うかうか風邪をひいている場合ではない。シャワーを浴びなおして、取り敢えず、少し眠ろう。
桃原は……無事に帰ったのだろうか。
♡
いろんな意味で血気盛んなお年頃とはいえ、やはり体力をかなり消耗していたらしく、仮眠のつもりが気付けば昼になっていた。
あえなく、午前の講義はすべて
あれから、桃原からの連絡はなかった。今までだって彼女と四六時中連絡を取り合っていたわけではないが、道端でにゃんこを発見すれば即ブレっブレの写メを寄越してくるような彼女からまったく音沙汰がないとなると、流石に不安を煽られる。
だったらお前から送ればいいじゃん、というのはこの場では真っ当な指摘だ。事実俺もそうしようとした。ところがどっこい、それも出来ない状況だった。
桃原とのメッセージ履歴も、登録してあったSNS各種のアカウントも、すべてが吹っ飛んでいたのである。いや、桃原だけじゃない。男女問わず、大学生になってから知り合ったうちの何人かとの電子的繋がりの一切が絶たれていた。
これが噂の、"インターネットが壊れた"ということなのか。
ともあれ、桃原とは、午後一の講義に二人で仲良く出席するのが定例となっている。だから、経済学部棟のエントランスにある謎のオブジェ兼腰掛けに陣取っていれば、どちらともなく顔を合わせるはずなのだ。
そう、もはや日常的にフツーに行動していれば、自然と桃原と会うようになっているし、なんならそうなるように頑張って仕組んできた。
だのに、桃原は一向に姿を現さなかった。お互い裸でいたから、本当に風邪でもひいたのだろうか。
午後の初め、三限目の講義は、出席票の代わりに前回の講義の内容に関するミニレポートを提出しなければならない。言うまでもなく、俺は真面目な桃原におんぶに抱っこでこのミニレポートを凌いでいたわけで……桃原以外、そこまで厚かましく頼れる知り合いもいない。このまま彼女が現れなかったら、マジメに講義を聴講するほかあるまい。桃原と未だに接触できないことに由来するものとは別に、俺はもう一つの不安を覚えた。
内容、わかんなかったらどうしよう……。
講義室へ入ると、既に席の大半は埋まっていた。前列付近はガラガラ、中腹から最後尾に掛けて混雑具合とチャラさが指数関数的に増していっている。ごくごく平均的な大講義室の光景だ。
中腹手前、少し空いているが変に目立たないゾーンで、遅れてきた桃原がすぐに座れるように、端っこの席を一つ空けて座る。
「あ、スンマセーン」
「……はい?」
講義が始まるまで、昨日の夜のことをなんとか思い出そうと瞑想していると、聞き覚えのあるようなないような、そんな声が聞こえてきた。
「マジごめん、席、ちょっとつめてもらってもいい?」
見れば、チャラ男だった。『JOY』のチャラ男である。何を誇示したいのか、サークル名をデカデカとプリントしたサッカーユニフォームを着て、下はもさいスウェットを履いた野暮ったい出で立ちだった。同じくしてユニフォームを着ている若干垢抜けてない感じの男と、明るく髪を染めた結構可愛いめのギャルを引っ提げている。
なるほど、目立たないゾーンで、三人仲良く横並びで座るために、如何にもかよわそうな
「ん? つかさぁ、ひょっとして、佐倉君じゃね!?」
俺があからさまに「うわっ」ってなリアクションをしてしまったせいで、チャラ男の記憶を掘り起こしてしまったらしい。名前まで控えられていた。
「え? 知り合い?」
「ほら、新歓で暴れ回ってた……」
「あ、思い出した。チェリーくんね、あの時の!」
曰く、勝手にガブガブ飲んで出来上がったあげく、童貞の妄想爆発の下ネタで新入生をドン引きさせながらも『JOY』の一部の野郎と異常なまでの盛り上がりを見せたらしい。そうしてついたあだ名が、名字をもじって
あの日、チャラ男が桃原を狙ってたところに乱入して不興を買ってたかと身構えていたけれど、予想に反し、『JOY』の連中は皆友好的な雰囲気だった。
「講義一緒だったのか。気付かなかったわー。元気してた?」
「あーいや、彼女の席とってるんで……」と断りたかったが、旧友と再会したかのようにバシバシと肩を叩くチャラ男に、俺のセリフは外気に触れることも無く、喉の奥へ奥へと押し込まれていった。桃原、許せ……。
「すいません、散々酔った挙げ句にしれっと帰っちゃって……」
一応、挨拶もせずに(記憶はないけど、んなことしてるワケもないだろう)桃原と抜け出た非礼を詫びておく。表面上、友好的にはしてくれているが、俺がやったことと言えば、新歓を滅茶苦茶に荒らし、あげくチャラ男のナンパを邪魔して横取りしたようなものだ。内心にどのような感情を潜ませているかわかったものではない。
「え? 何言ってんの、佐倉君盛り上げてくれたから今年は男子大漁だったんだぜ?」
「なーんか女子は少ないけどね」とやっかみを入れるギャルに、あはは……と空笑いを合わせる。知ったこっちゃない。
「つかさ、佐倉君、あの日の記憶ないっしょ?」
「えぇ……まぁ、最初の1時間くらいしか……」
「だよなー。まぁ、最後の方ヤバかったもんな……。二次会のこと覚えてないっぽいもんな」
酒に慣れてねーうちはやりがちよな、と急に大人マウンティングに浸るチャラ男。いや、そんなことはどうでもよくて……なんか、話おかしくない?
「二次会……っスか?」
「そう。佐倉君、さっき途中で帰ったって言ってたけど、たぶんそれ、記憶飛んでるだけだぜ」
「途中からもー真っ青でさ、トイレから出てこなくなっちゃったから、ユウキが介抱して一緒に家まで行ってあげたんだよ?」
「言わんでいいっつの」
またぞろギャルが茶々をいれる。因みに、三人目のJOY君は俺からいちばん距離があるためか、最初こそ会話に入ろうと身を乗り出していたけれど、やがてそれも諦め、自席でぼんやりスマホを眺めていた。
そんな景色と同化しかけている奴をフォーカスしてしまう程度に、俺はチャラ男とギャルの言葉に動揺していた。『JOY』の新歓の仔細に関して、ほとんどと言って良いくらいに記憶がないのがもどかしいけれど、少なくとも、俺が彼女から聞いた話とは大きく異なっている。
「いや、でも……俺は桃原と一緒に一次会で抜けたハズなんですけど……」
「桃原? だれ?」
チャラ男はあっけらかんと言う。
「いや、そんな訳……。先輩、結構話してたじゃないですか」
「マジ? 女子?」
「女子ッス」
「可愛い感じ?」
「まー、かなり」
「マジ!? じゃあ忘れるはずないんだけどなぁいダッ!!」
隣のギャルがムッとした顔でチャラ男の手の甲を抓った。彼女かかなにかだろうか。
「なに知らん間に新入生食おうとしてんの」
「いやいやいやいや! 冤罪っしょ!」
「ホントにぃ〜?」
「マジマジ! つか、お前もその……モモ……なんだけ?」
「桃原です」
「そう、その桃原さんって参加してたの覚えてる? 女子の名簿つけてたろ?」
「そんな、いちいち名前まで覚えてないって……」
二人が乳繰り合っている間に始業のチャイムが鳴り、教授が入ってきたところでチャラ男との会話は自然と消滅した。
……桃原はあの新歓にいなかった、のか? そんな馬鹿な。俺にこのギャル子先輩の記憶が何も無かったのと同様に、チャラ男たちも本当にすっかり忘れていただけに違いない。
しかし、あれだけ全力で狙いに行っていたのに、それを忘れるなんてことが有り得るのだろうか。いや、それこそ、ツレの前で旗色が悪いからトボケていたのだろう。そうだ、そうに決まっている。そうじゃなきゃ説明がつかない。
どうにか納得のいく理屈をつけても、朝からずっと覚えている違和感は拭いされないまま、徐々に肥大していく。
結局、教授が訥々と語り続ける、ウェーバーの生い立ちと近代資本主義のおこりなど、全く頭に入ることもなく、桃原のためにと用意したルーズリーフは終始白紙のままだった。
桃原は、最後まで講義に顔を出すことはなかった。
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