15. コンプラ的に沈黙すべきこともある
♡
シャワールームから発せられるもの特有の、湿気でくぐもったホワイトノイズが、
秒針が息を潜めて時を刻む音を除けば、俺の耳に入る情報はそれだけ、というのは幾らか誇張が過ぎるか。自らの心音が、呼吸が、血の巡りが…………いやに、耳に障る。
先に断っておくが、隣のお姉さんのシャワータイムに聞き耳をたてている訳ではない。というか、隣に住んでいるのは気難しそうなおっさんだ。越してきた折に、母から渡された蕎麦を持って挨拶にいって以来、ろくに言葉も交わしていない。『あ……はぁ……。今時こういうの、珍しいですね』と困惑されたのをよく覚えている。表立って拒絶の言葉はなかったが、何か大きな壁のようなものを感じた。これが都会か、と上京して最初に思い知ったのはそんな一幕であった。
……いや、そんなことはどうだっていい。手に余る現実を前にすると、どうでもいいことに思考を飛ばしがちになるのは俺の悪い癖である。
本題に立ち返ろう。俺は、我が家の居間で、桃原がシャワーを浴びるのを待っていた。
もう一度言おう。桃原が、シャワーを、浴びるのを、待っている。
もう一つ、これも言っておいた方がいいだろうか。彼女は、ウチの狭っ苦しいシャワールームへと消える直前にこう言い残した。
『汗かいたままじゃ、恥ずかしいから』…………!!!!
もう充分に察せられるとは思うが、つまり、そういうことになっていた。
ちなみに、バイト先に桃原が来たのと同日の話である。
どうしてこうなった、と問われても、俺だって未だにわからないのだ。まさしく『なんとなく……雰囲気で……』としか言いようがない。ラジオでそういう投稿を耳にする度に、はいはい嘘松嘘松、と聞き流していた頃の自分に今の状況を見せたら、どんな顔をするだろうか。
これこのこと自体は非常に喜ばしいことだ。俺は勝利した。何を負かしたわけでもないが、その事実はシャワー音となって燦然とこの身に降り注いでいる。いや、しかし……そんな、恋人になった瞬間、即にゃーんって……もっと順序とか、そういうのがあって然るべきなんじゃないのか?
そもそも、多少とはいえアルコールが入った状態で、勢い任せに恋仲になっていいのか? というより、ホントに、なんで付き合うとかの流れになったんだっけ……。
恋愛というこの上なく情緒的な繋がりにさえ、整合性を求めてしまう。そんな、出来のいい創作物に囲まれて育ってきたオタクの悲しきサガがそうさせるのか、単に過度の緊張からのものなのか。俺の剣は、初陣を目前に、しおしおと萎びていた。
このままではいけない。不戦敗なんてしてみろ、しばらく俺は立ち直れない自信がある。最悪田舎に引っ込むことになるかもしれない。
ともかく、どうにかして一旦心身を落ち着かせる必要がある。
そう思い立った時には既に、俺はおのずとスマホに手を伸ばし、ブラウザの『お気に入り』に指をかけていた。
……いやいや、これじゃ本末転倒にもほどがある。もっとなにか、こう、状況を整理するためには…………そう。そうだ。こんな時こそ、回想すべきなのだ。
というわけでここは一つ、バイトが終わってから今に至るまでを、きっちりかっちり振り返ってみようと思う。
そうすれば、俺の中で腑に落ちるものがあるかもしれないし、諸君の共感を得られるかもわからない。
──ことの起こりを説明するには、今から4時間ほど遡る必要がある。
♡
まず最初に、バイトが終わるまで静かに待っていた桃原と合流した。したのは良いが、で、これからどうするのか、という話である。
大宮とテキトーに駄弁りながら一日を終えようとしていた俺にとっては急な来訪で、当然前準備もない。加えて、俺がこういう咄嗟のイベントにアドリブが効くような人間ではないのは説明するまでもないだろう。
いっそド直球に「急にどうしたの?」と桃原に聞いても「んー……なんとなく」と歯切れの悪い言葉を返すのみであった。
結果として二時間近くも待たせていたのだし、このまま解散、というのも余りに忍びない。どこかでディナーと洒落こむにも、大学最寄りの駅前と違って──1駅しか離れていないのに──此方にあるのは、営業中かどうかも怪しい定食屋や、何故かメニューにオムライスがある老舗のラーメン屋等々、二人で、というか一人でも入るには
そりゃ、桃原なら嫌な顔一つせず着いてきてくれそう、とは思ったが、そんなことで彼女に気を遣わせたくはなかった。
「なんか、あんまりお店とかもないんだね」
桃原も俺と同様、とりあえず飯、ということを考えていたようで、周囲を見回しながらそう漏らした。
「マジでそうなんだよ。サラリーマンが帰ってきて寝るだけ、て感じ。おかげでバイト先は暇で助かるんだけどさ」
二人してどうしたものか、と思案しながらも、自然と足は駅の方へと向かう。
「……そ、それじゃさ! その……お家、お邪魔しても、いい?」
シャッターが降りて暗くなった商店街の終端にも差し掛かろうというところ。ちょうど、ちんまい駅舎が見えてきたあたりで、桃原は、意を決して、というような面持ちで切り出した。
「えっ、それって……俺んちってこと?」
こくり、と桃原が頷く。
こう言われるまで考えもしなかったが、ここで取れる選択肢でいちばんマトモそうなのが、"宅飲み"であることは確かだ。妥当と言えば妥当……なんだろうか。
「…………だめ、かな……?」
「いやっ、俺は全然いいんだけど……その、マジで汚いぞ?」
「それは大丈夫。もう知ってるし」
「……あっ、…………その節は……」
いきなり家に来たいと言われて、胃のあたりがヒュッとなったけれど、桃原に指摘されて思い出した。『JOY』の新歓飲みの日、桃原は俺の家で一夜を過ごしている。そもそも桃原と俺がマトモに言葉を交わしたのは、俺の部屋が最初だ。
しかし、アレと今とでは事情が違う。そこそこの仲(と信じたい)の男女が、一つ屋根の下で二人きりの夜を過ごすなんて、ある種ひとつのゴールと言って相違ないではないか。
今の俺にはこの状況が、ぶっ飛んだショートカットをしているようにしか思えなかった。だが、しかし、あるいは。
結局のところ、桃原は見ず知らずの男を部屋に送り届けて、しかも飯まで作ってくれるほどの
だから、恐らく……今日はそういうのではない。間違っても早まってはいけない……。そう童貞の勘が訴えていた。日和っていると読みかえてもなんら差し支えない。
ともかく、美少女が家に遊びに来るのを拒む理由もない。そういうわけで、桃原の提案に乗っかることにした。
♡
一駅だけ電車に乗り、駅前のスーパーでしこたま酒とツマミの類を買い込む。
桃原と晩酌をしながら、配信チャンネルで映画を流し見したり、桃原のお気に入りだという深夜番組を見たり。いつも通り、適当に軽口を交わすだけの、サクッと楽しい空気感。なんというか、本当になんてことなかった。
流れが
「今日はー……きみにぃ、言い
酔っぱらいに脈絡を期待するのもおかしな話だが、全然流れもへったくれもなく、彼女はへにゃへにゃと手を挙げて宣言した。
これまで、桃原と飲んだことは何回かあったが、ぶっちゃけ彼女は酒に強かった。少なくとも、とろ目で呂律が少し怪しくなっている彼女を見るのは初めてだった。
「えっと……一体なんでしょうか」
正確には思い出せないが、俺はたぶんそんなようなことを言った。バイト終わりで疲れていたせいか、安酒が頭にガンガンと響き、おまけに眠かった。それでも、『この子をどうやって家まで送ろう』と考えを巡らせていた俺の理性は賞賛に値するであろう。答えがでていたかどうかはともかく。
「きみの周り、かわいいコ多過ぎ問題!!」
「鏡見ろ鏡」
売り言葉に買い言葉、普段は口に出せないようなことを言う俺も俺でまあまあ酔っていた。
そしてこれを受け、桃原はいつものパターン通り真っ赤に……いやもとから真っ赤だった。今日の桃原は強い。
「そしてぇ……すーぐなかよくなる! よくない! よくなくないよー!」
「いやどっちよ」
「お、だ、ま、り! 今日もバイト先でかわいこちゃんとイチャコラしてたクセに!」
「あれは、向こうが絡んでくるから……」
「島林先輩にも鼻の下伸ばしてるじゃん!」
「え、あれは……フリじゃん。演技だって、桃原も知ってるだろ」
「はいダウト! 隠しきれてないから!! いっつもやらしい目で!! 見てるもんね!!!」
「えぇ……」
記憶の限りでは、こんな感じの、キャッチボールにもならない言葉の投げ込み(主に桃原から俺への)が続いていたさなか。
わざとっぽくブスくれてみせた桃原が、まだ半分はあるであろうハイボール缶を一気に仰った。
「あー、桃原さん。ちょっと、飲み過ぎなんじゃあ……」
いつになく乱暴な飲みっぷりに少し心配になって、彼女の顔色を窺おうとした時である。
「っ!?」
桃原が俺の胸目掛けて飛び込んで来た。ふわっと花束を1振りしたような匂いが俺の鼻に強烈なアッパーカットを決め、睡魔が一撃で霧散していく。
「……大丈夫? 気分悪い?」
ドギマギしながら、しかし単に気持ち悪くなってただけでこのまま粗相……なんて、
俺は、そうか桃原のつむじは右巻きなんだなぁ、と場違いにのんきな感想を抱いた。
「恥ずかしくてお酒の力を借りようと思ってたんだけど、それでも恥ずかしいから……このまま言うね……」
俺のみぞおちあたりで発せられた桃原の小さな声が、肋骨を伝って全身に響く。
「なんかね……。私、先輩とか他のコと、きみが楽しそうにしてるの見ると……なんか、…………すっごい、もやもやしちゃって」
さっきまでの酔いに任せた掛け合いから一転、身体に篭もる熱は既に別の意味を帯びていた。
「自分でも子供っぽいなって思うんだけど……。たぶん、嫉妬してるんだと思う」
「桃原……」
ここまで来て、俺もようやく気付いた。桃原は、別に酔ってあんなに紅潮していた訳でも、何となくで俺にあんな話題を振った訳でもなかったということに……。
♡
それで……まぁ、この後、俺は桃原に告白されたのだった。
……。
思い起こしてみれば、なんて事はなかった。
桃原はずっと考えていたことを実行したに過ぎない。島林先輩や大宮に俺がとられる前に、計画的に俺の家に転がり込み、機を窺って告白してきた。それだけの話……。いや、美少女から直々に告白されるなんて、世の男性にとっては大事なのだけれど……。単純明快、的な意味合いである。
女子から告白をされることになって、何とも情けない話であるけれど。率直な感想としては、嬉しくないわけがなかった。
桃原に告白された瞬間、ちょっと前に桃原に好意を寄せていたオタク君に『まぁ、応援してるよ』と心にも無いことを言ったこととか、最近だいぶ距離が縮まってきている島林先輩のこととか……色々なことを思い出しちゃったのは確かだ。
しかし、こうやって心の内を真っ直ぐにぶつけてきてくれた桃原に、そんな言い訳めいた回想で後ろめたさを覚えるのも、なんか違うんじゃないか。
ここに至っての問題はただのひとつだ。
俺は桃原が好きか?
肯定と否定しか択のない、明快なクエスチョン。
当然、否定などできようもなかった。
新歓で酔いつぶれて介抱してくれたあの日から、可憐で、真面目で、だけどどこか少し抜けている彼女に魅了されて、バカなりに打算を働かせて、エロい期待に胸をときめかせて、なんとかお近づきになろうとしたのは、他でもない俺自身だ。
「お、おまたせー」
いよいよ覚悟が完了した頃合いを見計らったかのように、彼女がシャワーを終えて戻ってくる。急で何も準備がなかったものだからと、俺のTシャツとジャージに身を包んだ桃原は、ブカブカに余ったシャツの裾を爪先で持って、はにかんだように手を振っていた。
「そ……そんな見られると恥ずいんだけど……」
「あ! いや、ゴメン! その……風呂上り、エロいなぁ……て思って……」
「────っっ!!」
ついぞ口走ってしまった変態台詞に、桃原は耳まで真っ赤にして、『いきなり正直になりすぎ!!』なんて言いながらぽこすか俺を叩く。
ひたひたと光沢を艶めかせる髪と上気した肌の急接近により、緊張とアルコールで萎えきっていた俺の息子にも火が灯る。心底、自分が単純な生き物で良かったと思えた瞬間であった。
そういう訳で、これからくんずほぐれつの大乱闘になるのだけれど、ちょっと俺の語彙じゃ表現できようも無さそうなので、泣く泣くカットさせて頂く。
あえて俺から言えるのは、超きもちい! という時代錯誤な流行語くらいのものだ。
「それじゃあ……いくよ」
「うん……」
俺のベッドに横たわった彼女は静かに頷いた。
部屋を暗くしても尚、桃原の綺麗な白い肌は、僅かな光にちらちらと瞬きを返していた。
そんな彼女の手が、そっと俺の胸に触れる。
「緊張してる?」
「そりゃ……初めてだし……」
「私も、心臓爆発しちゃいそう」
そう言って桃原は微笑む。こんな時にも彼女に勇気づけられてしまう自分の情けなさは、こんなときくらいは棚に上げてしまおう。今は彼女の優しさに甘えながらでも、今日から俺は、また一つ先へと、生まれ変わるのだ。
いよいよ、"俺"は、あるべき場所へと帰還する。
──その瞬間。そのはずだった。
「……
"俺"は氷点下の刺激に貫かれていた。
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