11. まるで白魚のような



      ♡



 結局、椅子に敷くタイプのクッションと、今使ってるオンボロのモノの代わりとなるアルミラックを購入して、つつがなく買い出しは終了した。


 駅からキャンパスまでの15分ほどの道のりを、重荷を持ってえっちらおっちら、部室へ到着してからは早速ラックを組み立てて中身を入れ替えよう、ついでに掃除もしちゃうか……と、気がついたら日が沈みかけているくらいの時間になっていた。


「はい。無糖と微糖、どっちがいい?」


「あ、ありがとうございます! …………んー、じゃあ、微糖で」


「甘党なの?」


「ええ……まぁ、結構甘いの好きっすね」


「そうなんだ。じゃ、ちょうどよかった。私は、ブラック好きだから」


 ひと仕事終わり、ところ変わっていつもの喫煙所。先輩がタバコに火を点けるのを見ながら、俺も缶コーヒーに口をつける。微糖どころじゃねぇだろ、という甘ったるさが骨身に染みる。


「今日はありがとね。助かった」


 煙を一息放って、先輩はそう言った。


「先輩のためならお安い御用ですよ」


「手、挙げてくれなかったクセに……」


「それは……すんません……」


「冗談」


 痛いところを突かれ答えに窮する俺を見て、先輩は「君を見てると、ついね」と愉快そうに呟く。


「いや、どういう意味ですかそれ」


「そのまんまだよ。反応、面白いから」


「なんかナメられてるような……」


「ほめてるほめてる」


 先輩の口から漏れ出た煙がひとしきり宙を踊った頃合い、彼女の顔はややかげりを見せていた。


「自業自得だけど、人望なさすぎだよね……」


 無論、その主語は先輩自身を指すものであろう。そうかこの人、自ら進んで独りになっているという訳でもないのか。


「いやっ…………あー……」


「そこで納得しないでよ……」


「うーん……あっ、でも! ほら、一人からは熱烈な支持受けてるじゃないですか。三年っすけど」


「……きみは、冗談が下手だね」


 俺の軽口に、先輩は明らかにムッとしていた。せっかく忘れてたのに、と恨み言をこぼすと、諦めたように肩を落とす。


「まったく、こんな無愛想ブアイソな女のどこがいいんだか……」


 ここで、綺麗で巨乳なとこ、なんて言っても冗談には成り得ないということは流石の俺も理解しているので、若干話題を逸らすことにする。


「あの人はノーチャンスなんですね」


「ああいううるさいだけの、嫌いだから」


 嫌い、ときたものである。どんまい、チャラ夫……。


「あ〜、やっぱり! 静香じゃん!」


 俺が心でその名を唱えてしまったのがいけなかったのか(いや名前覚えてないけど)、二人きりの平穏だった空間に、あの変に高い声が響いた。そういや、今日ゼミだとか言ってたっけ……。俺も先輩も迂闊が過ぎる。


「何しに来たの?」


「なんとなく通りかかっただけ。ホラ、心が通じ合ってる的な?」


「……」


 先輩のテンションは目尻を見れば一目瞭然……というのをいましがた知った。警戒態勢になると、少しだけ目尻が上がって表情がキツくなるようだ。


 いつしかチャラ夫が先輩のことを「キリッとした猫目が超タイプ」と語っていたが……とことん噛み合わないな、コイツも……。


「そうだ、これからゼミの奴らと飲みに行くんだけど、一緒に行かね?」


「行かない」


「グハッ! 即答かよ! いやいや、静香も友達増やそうぜ?」


「下の名前で呼ばないで……。それに、友達とかもそんなにいらないし」


 チャラ夫は俺のことなど、路傍の石程度にしか思っていないらしく、毎度の如く、先輩だけをしつこく誘い始めた。示し合わせもせずお互いがお互いをシカトしている今、この空間で俺とチャラ夫がいちばん心通じ合っているのかもしれない。


「えー……この前、次は行くって言ってたっしょー?」


「……」


 チャラ夫の突撃をノータイムでバッサバッサと斬り伏せていた先輩の勢いがひと呼吸で止まった。

 ……どうやら本当にそんなことを言っていたらしい。かわし方ヘタクソかよ……。


「き、今日は……無理」


「予定あんの?」


「まぁ、そんなとこ……」


「なになに? 何処行くの?」


 どうやらチャラ夫は形勢が自分に傾いたことを察知したらしい。ニタニタと気持ち悪い笑顔で先輩に食らいついていく。


 いやはやどうしたものか……。チャラ夫に変に目をつけられるのは避けたいところだけど、こうまでしつこい、十人中十人がダル絡みと断定しそうなものを黙って見ているのも、それはそれで漢として如何なものか……。


 そういえばこの場に桃原はいないし、誰かに遠慮する必要もないのだ。いい加減割って入るべきだろうと決意を固めたところで、事態は意外な展開を迎える。


「飲みに行くの」


「は?」


 突然、島林先輩が俺の二の腕にそっと触れながら言った。不意打ち過ぎて、チャラ夫と俺の声がハモりそうになったが、先輩の意図を汲んで喉元まで出かかった声を飲み込む。


 ていうか、うわ、ちょっと待って。先輩の手、めっちゃスベスベしてた……! 今日半袖着てて良かった……。


「お、俺も行くよ!」


「稲田君はゼミで飲むんでしょ?」


「別に、俺は静香と飲む方が良いし」


「悪いけど、…………デート! だから。邪魔しないで……」


 なおも食い下がるチャラ夫に、ガラにもなく大きな声でとんでもないことを言い放つ先輩。そして、俺に触れていた手を放して……今度はぐわしぃ、と抱きついてきた。……抱きついてきただと!?


「はぁ!?」


 チャラ夫が素っ頓狂な声をあげる。ともすれば、俺も叫んでいたのかも知れない。わからない。先輩がやろうとしていることの意味は察することができたけど、事態は俺が望むものの遥か斜め上に、あれよあれよと突き抜けていっている。


 それに、意識が二の腕に当たる先輩のやわらかいなにかに集約していって、脳味噌がまるで動いてくれなかった。到底童貞が耐えられる刺激じゃない。これが……ブラの感触……!? わけのわからない量の電気信号が脳内を駆け巡る。


 混乱の只中にあって、これだけは確実にわかった。どうやら俺は、ひどく動揺している。


「え? 二人、付き合ってんの?」


「別に、稲田君に言う必要ないでしょ」


「いや、えー……でもなんでよりによって……」


「そう言うことなんで! 先輩、お疲れ様です!」


 色々と限界だった。このまま先輩に抱きつかれたままじゃ、鼻血が全身の毛穴から吹き出してぶっ倒れてしまいそうだった。


 逃げたい。なにから、とか、どこへ、とかも定かじゃないまま、その一心で走って、正門の辺りで息が切れた。


 その頃には、じんじんと刺すように痛む脇腹が冷静さを取り戻させてくれて……今までずっと島林先輩の手を握っていたことに気が付いた。


「うわっ、ごめんなさい!」


「全、然……。こっち、こそ……ゴメン……」


 慌てて手を離した俺に、なんでもないことのように答えた先輩はしかし尋常じゃなく息があがっていた。喫煙者の彼女も今のスプリントで呼吸器官がやられたようで、二人してぜーはー、息を整える時間がしばらく続いた。


「何とかして諦めてもらおうとしてたら、つい……」


「いや、俺の方は全然! 正直、今もビックリしてますけど」


「でも、君にはモモちゃんもいるのに……」


「え? 桃原、は……その、特に付き合ってるとかそういうのでは……」


「そう……なの……?」


「だから……えーっと……」


 だから、なんだ?


 どうしたらいい? 先輩が打った一手は、嫌いな相手に諦めてもらうため、俺と嘘の交際関係を……的な。さんざっぱら何処かで見たことあるあれだ。……あれだよな?


 先輩はこういうのを避けるのがド下手みたいだし、その場の弾みで言ったことに違いはないだろうけど……この後どうするんだ?


 やはり、この場限りの方便とみるのが自然なんだろうか。 でも、もし、万が一、先輩がこの演技を続ける気だったら? こんな美人な先輩とそんなラブコメみたいなことができるとして、断る理由がどこにある? いや、でも、そんなことしたら桃原のことはどうする?


「……」


「…………」


「……………………」


「なんか、今日は疲れたし……解散にしよっか」


 ……先に沈黙を破ったのは先輩の方だった。見れば、いつになく頬を紅潮させていて、たぶん俺と視線がかちあわないように、遠くを見据えている。


「いったん落ち着こう? ていうか、落ち着きたい……」


「そう……ですね……」


 正直、先輩がそう言ってくれるのを待っていたわけじゃないけど。それでも、ほっと肩の荷が降りたような気になったのは確かだった。


 この機に乗じて二人でディナー、とかも選択肢にあったのかもしれない。しかし、俺にそんなに器量と度胸があるとするなら、そもそもこんな事態になっちゃいないだろう。


 いや、そう考えると今日は頑張ったよ。俺は、最善を尽くせたと思う。女子に抱きつかれて「どっひゃあ!」とか言わなかっただけ成長じゃないか。いや、言ったことないけど。そもそも抱きつかれたことないけど。


 今は、脳も身体も、休息と冷静さを求めていた……。



     ♡



 そして、冷静になるためには、もう、やることは一つだった。

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