2. 冷蔵庫を開けさせなかった朝の、何日か後



     ♡



 期待、不安、高揚、狂乱……。そんな清濁入り混じった青春の坩堝である新入生歓迎期間、もといオリエンテーリング週間は右を見て左を向いた頃には過ぎ去っていた。


 ここでスタートダッシュを如何にキメるかで今後の大学生活の八割は方向づけられる。どこのジョン・ドゥが言い出したのかは知らないが、キャンパスライフを謳歌せんと目論むピッカピカの大学1年生であれば、程度の多寡こそあれ、必ずと言っていいほど耳にする文言だ。そして、俺はそんなスタートダッシュを、およそ考えられるであろう最上の形でクリアした。


「ねーねー、履修、もう決まったー?」


 遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。俺の隣におわしますは、とびっきりの美少女、桃原杏子であった。


 俺を介抱してくれた翌日、なんと桃原は体調を崩してしまった。


 朝方にはしんしんと冷え込むフローリングのオンボロ1Kマンションたる我が家は、手弱女たおやめの寝所とするには少々酷な環境であったあのだろう。そんな訳で、お礼もしたいし、学科も同じだからオリエンテーリングの資料とかも渡せるしー……とかなんとか、体の良い口実をずらりと並べ、俺は桃原が1人で住まうアパートに通って看病した。この機に乗じてお近付きになる気しかなかった。


 結局桃原は2日で回復したのだけれど、上述した通りスタートダッシュが肝要であるこの時期、丸2日寝込むのは結構痛い。その間にも、ぼっちにはなるまいと強迫観念に駆られた大学1年生たちは、着々とコミュニティを形成し、固定化していく。もうおわかりかとは思うが、つまるところ、現状で桃原のいちばんの男友達は俺になっていたのだった。繰り上げ優勝みたいなもんである。


 いやー。キャンパスライフ、チョロいわ。


「ねーってば。聞いてる?」


「え? あぁ……ごめんごめん、なんだっけ?」


 上の空で返事をしない俺に、桃原はもーもー唸りながら脇腹を小突いてきた。清楚系美少女から繰り出される、思いのほか幼い所作に、俺はえげつない笑顔(ニチャァ、ってな感じのやつ)が表出していないか気が気でなかった。


「履修のはなし!」


「ああ、履修ね! 俺はもうほとんど決まったかな。そういや、申請今週までだったっけ」


「そうなんだよねぇ……。シラバスとか読んでも中身よくわかんないし、なかなか決まんなくってさー」


 大学生になると好きな授業を好きなようにチョイスできる。高校生の頃はそんな風に考えていたのだけれど、実際は選択できる数に上限があったり、かと思えば必ずある時期までに取得しなきゃいけない科目があったり、何かと制限が多い。


 さらに言うと、講義内容が面白そうだからと安易に自分の関心や興味の向いた分野を軸に履修を選ぶのも吉とは言えないらしい。大学の授業はそのコマを担当する教授に掛かる裁量が大きくて、それは期末試験の内容にも及ぶ。いくら講義が面白かろうが、期末試験が難し過ぎて不合格者を続出させる地雷講義なんてのもザラにある。一方、講義なんて出なくても、教授が出版している本をお布施として買えば期末試験も難なく乗り切れる、所謂いわゆる楽単と呼ばれる講義も少なからず存在する。


 この地雷の見極めは、配布資料のシラバスだけだとまず不可能である。講義内容に関して、外部の目が真っ先に触れるのがシラバスであるから、大学側としても無難なことしか書きようがないのだ。


 では、我々学生はどうすればいいのか。


 もちろんそんなこと、とっくに把握済みである。春休みにビビりまくってネットで情報を漁りまくり、急遽SNSアカウントを作成、恥も外聞もなく♯を乱打し春から繋がりまくっていた俺に死角はない。


 取るべき方策は至って単純、諸先輩から情報を引き出すのだ。というわけで俺は、サークル勧誘期間は情報が集まるであろう大型サークルに潜り込み、同学科の先輩からオススメの履修サンプルを貰いに貰った。先輩の中には、楽単を選び抜いたうえでも結局単位を落としている輩もいたが、流石の俺もそこまでダメ人間にはならないだろう。


「受けたい授業あるんだけど、おんなじ時間に被ったりしててさ……。うーん……」


 勉学以前に大学生活をサバイブすることで頭がいっぱいだった俺とは対照的に、桃原は至って真面目だった。


 楽単の情報なんかは逐一伝えていたけれど、彼女の中では、関心のあることを学びたい、という想いが大きいらしい。


 上京したい一心で、身の丈相応テキトーなランクの大学を片っ端から受験して引っ掛かったとこにきただけの俺には到底思い及ばないような考え方である。


 しかし、いくらモチベーションに差があろうと、今この瞬間においては、既に履修を組んでいる俺のほうにイニシアチブはある。これを利用しない手はない。


「じゃあ、俺が組んだの見せよっか?」


「いいのっ!? おかねとかとらない!?」


 人のことをなんだと思っているのだろうか。あんまりな物言いに俺は少しショックを受けた。


 ……勿論ウソである。俺と桃原は、この程度の冗談を言い合えるくらいには打ち解けていた。桃原がよく喋る女の子で本当に良かった。


「べつに著作権とかないでしょ。それに……」


「?」


 仲良くなったとはいえ、『お誘い』には勇気がいる。できるかぎり平易な口調を心掛けつつ、俺は口を開いた。


「俺、上京したばっかで全然知り合いとかいなくてさ……。おんなじ授業とかあったら、一緒に受けたいなー、なんて」


「同志!」


 桃原は嬉しそうにぴょこぴょこと跳ねた。彼女もまた、俺と同様に地方出身者であった。肯定的な反応に思わず安堵する。


「私もそのこと話そうと思ってたの! ぜひぜひ!」


 中高6年間、教室の隅でシモかアニメの話に終始していたこの俺が、なんということでしょう。匠の技なんて目じゃない。『正直、彼女とかいらねーし。いやマジで』とか強がっていた過去の俺をはっ倒して正座させて言い聞かせてやりたい。美少女は、いいぞ。


「とりあえず、部室行こうぜ」


「あ! その前にコンビニで飲み物買お!」


 滾るリビドーを抑える為に辺りに気をそらす。……と、1人、真下にしかめっ面を向けて正門へ向かうイケテナイ男子とすれ違った。


 爽やかな春風に中庭の芝が吹かれて静かに波打っている。正門脇に造られた中庭はその風景だけで心地良いというのに、彼の醸し出す雰囲気たるや、飽和水蒸気量にトリプルスコアをつけられそうな湿り具合であった。めっちゃ歩くの早いし、まるで通り雨のようだ。


 一歩間違えれば俺もあんな風になっていたのかもしれない。いや、あの日あの時あのJOYで、俺が酒に任せた奇行に走らなければ、十中八九そうなっていただろう。なんなら今すれ違った彼とも仲良くなっていたかもしれないし、それはそれで楽しい灰色の青春を謳歌してそうな気もする。

 ……この傲慢こそが、勝者の余裕である。


 そんな勝手な優越感に浸りながら、桃原と一緒に入った『観光事業研究会』へ向かうのだった。

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