絵の町

紫鳥コウ

絵の町

 改札に切符を入れると、もう出てこなかった。

 ここが彼女の心に決めた目的地である。


 駅を出ると、白雲さえない蒼い空が陽光にひかり輝いていた。

 彼女は汗をかいていなかった。むしろ、車内の冷房にやられて、肌はつめたくなっていた。この夏の強い日差しでさえ、心地いいものに思えていた。


 今日泊まるホテルは商店街の中途に見えてきた。


 その商店街に並ぶ店のほとんどは、シャッターを下ろしていた。

 が、いくつかの料理店だけは、外にメニュー票を出していた。しかしながら、その店々から箸を動かす音は全く想像されなかった。


 車はときおり彼女の横を通り過ぎた。静かな排気音を出しながら。


 予約したホテルの部屋に荷物を置いて身軽になると、彼女は町を散策しはじめた。

 どこまでも平べったい町である。一、二階だての建物ばかりが続いている。が、それらは密集しあうことで、なにか賑やかな雰囲気を装っていた。


 彼女は思いきって、裏道に入ってみることにした。

 金曜日の真っ昼間の裏道は、彼女の顔を陰らしたり光らせたりした。


 猫一匹の姿も見えない。ただ家々の玄関に、乱雑に巻かれた緑色のホースだの、信楽焼の狸だの、くたびれた紫陽花だのが目に映るばかりである。


 狭い道をまっすぐ歩いていく。


 だんだん彼女の額に汗が見えはじめていた。リュックから取り出したペットボトルの緑茶を一口飲んだ。少しぬるくなっていた。


 そんな裏道を歩いていると、水色の外壁の、小さな店らしき建物が見えてきた。


 が、近寄ってみると、そこは画廊のようだった。


 道路側の面がぱっくりと硝子ばりになったその画廊には、大小さまざまな額縁が数個引っかかっていた。

 奥行きが感じられない。おそらく数個しか展示されていないのだろう。


 どれも抽象画のようである。何を描きたいのかがはっきりと理解ができない。

 ただ、明るく温かい色が使われていることだけは、彼女の心を気持ちよくさせた。


 彼女は手前にある額縁のなかの絵を硝子ごしに見やった。


 それは、湖が遠くに見える町らしきところに、たくさんの向日葵が咲いている絵であった。

 家の窓硝子を貫通していたり、標識にからみついていたり、風に吹かれて舞っていたりしていた。


 額縁の下には「ひとがいない町」と書かれていた。


 彼女は不愉快になった。


 どうしても都会的な想像力が働いてしまうのである。


 彼女はその画廊の中に入らなかった。

 光をうけた影を落としながら、元きた道を引き返していった。


 この町はなんとなく味気がない。


 今度は違う町に行ってみたくなったのだ。

 彼女は駅の方へと戻っていった。


 ようやく、かすかに蝉の音が聞こえてきた。


 一本の電車を待っているあいだに、時間はどんどん過ぎていった。

 そして、五つ先の駅に降り立ったころには、もう夕方になっていた。


 夕方になろうとも、雲はひとつもない。

 蒼色が、すっかり橙色に染め上げられていた。


 山が近くにあるからか、蝉の音色がはっきりと耳に飛び込んできた。


 駅員は切符を受け取ると、また奥の方へと引っ込んでいった。

 一時間後にこの物腰のやわらかな男性に切符を渡すひとは、どれくらいいるのだろうか。


 駅舎を出ると、なだらかな斜面の向こうに、橙色を照り返してきらめく湖が見えた。


 それは彼女の持つすべての感覚が息をのむほどの光景だった。


 山間を縫うように静かに水面をめぐらせている湖のほとりには、漁船が五つ停泊していた。


 この斜面に散在する家々で暮らすひとびとは、いつもこの風景を見ているのだろうか。


 終の住処はここにしたい。


 たとえ一瞬でも、彼女にそう思わせるに足りる光景だった。


 その時、駅舎からちょうどひとつ向こうの道で、笑い声が上がった。

 学校帰りの黄色い帽子をかぶった小学生たちが、むじゃきに列を乱しながら下校しているところだった。


 緩やかな斜面をゆっくりとくだっていく。


 すると、優しそうなお婆さんたちが、畑仕事をやめて寄り集まって、にぎやかに身辺の話をしているところにであった。

 三人とも、タオルを頭にまいていた。


 もう少しおりていくと、小さな八百屋を見つけた。

 そこではこの町の女性たちが、買い物というより世間話をしに集まっていた。


 公園では、熱い砂の上で、子供たちが大声を上げながら野球をしていた。

 自転車に乗りながら恋話をする女子高生がふたり、彼女の前を横切った。

 大工たちが演歌を唱和しながら小屋を建てていた。


 都会と比べて、決して多くのひとに会ったわけではない。

 が、この町に住むひとりひとりが、お互いを信じあいながら生きている様子は、都会にはまるっきりない、新鮮な光景だった。


 その時、彼女はあの画廊の絵を思い出した。


 この町のひとびとは、ひとりひとりが向日葵だった。


 彼女のようにくたびれていく「ひと」というより、それは一年中あたたかく日に向かって咲く向日葵だった。


 彼女は、かつては自分も、一輪の向日葵だった時があったのではないかと思った。


 ずいぶん記憶を遡らなくてはならなかった。

 少なくとも都会での喧噪の日々には見いだせないものだった。


「おかえり」


 そう、誰かが彼女に声をかけてくれたような気がした。


 久しく帰らない、自らの郷里にいる、母の声のようにも聞こえた。

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絵の町 紫鳥コウ @Smilitary

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