カフェでひととき
夏休み一週目の水曜日。その日は妹が友達と学校のプールに遊びに行く日だった。
わたしは朝からお弁当を用意して、洗濯、掃除を済ませるだけだ。妹が出かけている日はわたしも出かけやすい。
ラジオ体操から帰ってきて一息つくと、ビニールバッグに水着やゴーグルなんかを詰め込んで、元気よく出ていく。その背中を見送って、出かける準備をする。
ベージュのTシャツワンピースを着て、髪を後ろでゆるく結ぶ。
初めて顔を合わせるのだから少しきちんとし方が良いかもしれないと思いもしたけれど、なんせ今日は晴天で暑い。薄くメイクをして誤魔化すことにする。
小さくロゴの入った黒いキャップを被って、準備は万端だ。
小さめのリュックの中には財布、ハンカチ、ポケットティッシュ、絆創膏や常備薬が入ったポーチと、念のための小さなソーイングセット。忘れ物はない。
「お姉ちゃん、もう起きた方がいいんじゃない? わたし出かけるからね」
昼から出勤予定の姉に声をかける。寝ていた姉は長い髪をワシワシと邪魔そうにかき上げながら、「なに、デート?」と寝ぼけた声を出す。
「デートじゃない! 女の子相手!」
「なんだ……化粧してるからデートかと思った。ちょっと待って、これ貸したげる」
「ベルト?」
「腰に巻いたら可愛いから」
「え、ありがとう」
「じゃ、気をつけていってらっしゃい」
二度寝しそうな空気の姉を心配しつつ、見送られて家を出る。
わたしはこれから、さきに会う。
待ち合わせ場所は、五つ先の駅の改札前。十三時集合。
電車の中で自分の背格好を伝えるメッセージを送ったけれど、まださきからの既読マークはつかない。
余裕を持って行動しすぎたせいで、わたしは三十分前には駅についていた。
今日会うのに選んだ花咲通りという駅は、ショッピングができる施設がいくつもある、端的に言えば都会だ。電車の乗り降り一つにしても、とにかく人が多い。何をするにも困らない場所だった。
ピッとカードをかざして改札を出る。広告が流れる柱の前で、行きかう人を見ていた。
駅構内は陽が当たっていなくても蒸し暑く、汗がダラダラと流れてくる。それをハンカチで抑えながら、何度も電車から溢れるように出てくる人の流れを見送った。
集合十分前、わたしは『着いたよ』とメッセージを送った。
少しして、既読マークがつく。そして、すぐにメッセージが送られてきて、一つ、吹き出しが増えた。
『もう少ししたら着く。服装は、黒い半そでのシャツと、水色のジーパン』
それを見て顔を上げる。
電車がホームに着いて、人がまた流れてくる。
(黒いブラウス……と、スカート。黒だけどTシャツ……)
わたしも人のことは言えないけれど、なかなかありふれた服装を選んでくれたな……と思いながら、間違い探しのように人の群れをじっと見つめていた。
ブブッと通知を告げる振動がして、スマホを見た。画面には『着いた』と短いメッセージ。
ホームを見ると、電車が到着するところだった。
あの電車に、さきが乗っている。
先ほどから感じているのよりも、ひときわ大きな心臓の音。
ついに、と目を凝らして、続々と降りてくる人をジッと見つめ、視線で人込みをかき分ける。
(黒いシャツ……と、水色のスキニー……!)
それらしい服装を見つけ、伺うように視線を向ける。彼女は耳からイヤホンを外し、ケースに収めながら歩いている。
艶やかな黒い髪は、肩を超える長さ。暑苦しくなく、片方に流している。まだ顔は見えないけれど、その人も少し、こちらを伺うように視線がかち合った。
彼女がスマホを確認する。おそらく、メッセージを確認して、もう一度こちらを見た。
改札を通って、わたしの方へ歩いてくる。
足が長い、髪が綺麗、黒いシャツは今風に鎖骨が見えていて、なんてことないのにオシャレに見える――けれど、けれど、それよりも。
「こんにちは。あき……であってる?」
「さき……って……」
呆然と、目の前に立つ彼女を見る。
「
彼女はわたしを凝視して、パチクリと目を瞬かせた。またもスマホの画面を見て、情報と比べているけれど、きっとこの相手で間違いない。
だってお互いに、名前で呼び合ってしまったところだ。
「
「わ、わたしの事知ってるの……?」
「あなた、有名人だもの」
それはあんたの事だよ……! と思わず声に出そうになったのをグッと押し込む。
彼女は学校の学年主席だ。進学校ではないから廊下に名前が張り出されることはないけれど、入学席の時に新入生代表挨拶をしていた。
それに、二年目にもなると皆もうわかっている。また紫苑が一位だったらしい、と噂が流れてくる。学校とはそういうものだ。
わたしは別に賢いわけではないし、運動が何か一番というわけでもない。知られていないならそれで、逃げようがあったのだけれど……
「どうする?」
「え?」
紫苑さんは、わたしの目をじっと見る。この人はこうやって、目を合わせて話す人なのかと、少々の居心地の悪さを感じつつも、聞き返す。
「嫌でなければ、私はこのまま出かけたいと思って」
「じゃ、じゃあ……出かけよっか……?」
学校で一度も話したことのない、ちぐはぐな相手と出かける違和感に、わたしは苦笑いで答えるしかなかった。
*
春には桃色で埋め尽くされる花咲通りも、夏は街路樹の緑が鮮やかだった。
アスファルトからの熱と、容赦なく照りつける太陽。都会でもセミは鳴くんだな、とどうでもいい感想を抱きながら、わたしと紫苑の間には会話が弾まない。
「でさ、クラスの子から海に行ってナンパされたってメッセージが来て……」
わたしの話すどうでもいい話を、紫苑は一応聞いていて、相槌を打っては沈黙が降る。
(帰っとけばよかったかも……)
その間の持たなさと言ったら、やっぱりわたしと彼女とじゃタイプが違ったのだ、と思うには十分なものだった。
紫苑は行ってみたかったカフェがあるとかで、スマホと睨めっこしながら時々「あっち」とか「こっち」とか「右」とか「左」とか素っ気ない案内をする。わたしはただ、それに着いて行くだけだ。
「あ、ここ」
紫苑がわずかに明るい声を出して立ち止まった。
見ると、ややレトロな雰囲気のある、オシャレなカフェだった。ちょっと大人っぽくて、きっとわたし一人では入れない。
カランコロン。紫苑が扉を開くと、優しい音とともに冷たい空気が流れてくる。
「どうぞ」
紫苑に促され、そろりと店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃい。あら、学生さん?」
「えっと」
「高校生です」
「あらそう。あんまり煙くない方がいいね」
カウンターの中の女性に話しかけられ言い澱んだわたしを横目に、紫苑がスマートにやりとりをする。店員さんは「一番入り口に近い席どうぞ」と入ってすぐの席を指さした。
テーブルの濃く深い茶色の色は、きちんと磨かれてツヤツヤとしている。丸い背もたれの椅子を引いて、帽子を外して腰掛けた。
すぐに持ってきてくれたお冷やとお手拭きで、喉を潤し手を拭く。
「メニューこれね。あと、あっちのおじさんタバコ吸ってるから煙かったらそこの窓開けていいよ」
「ありがとうございます」
「決まったら呼んでね」
店員さんがカウンターに戻ると、〝あっちのおじさん〟と笑いながら何か話している。どうやら常連さんらしかった。
「見て、サンドイッチ美味しそうよ」
ファイルに入れられたメニューを見て、紫苑が嬉しそうに言う。小さめに切り分けられたシンプルなサンドイッチが写っていた。確かに、美味しそうだ。
「お昼は食べた?」
「食べてない。……一緒に食べると思ってたから」
そういうと、紫苑はやや表情を緩めて「じゃあ、サンドイッチも食べましょう」とメニューをドリンクのページにして、わたしに見せてくれた。
「……ブレンドと、タマゴサンドにしようかな」
「いいわね。私は……せっかくだからハムサンドにしようかしら。一つ交換しない?」
「うん、そうしよう」
何か話題があると少し会話が進む。
紫苑とは話したことはないけれど、学校ではもう少し、人を寄せ付けない雰囲気だった。
話すごとに、メッセージの印象と目の前の彼女が繋がる。落ち着いていて、穏やかに見える。
先ほどの店員さんを呼んで注文を済ませると、紫苑はこちらを真っ直ぐに見た。
「あき、と呼んでいてもいい?」
「あ、うん。わたしもさきって呼んだ方がいい?」
「そうね。……ねえ、あき」
「なに?」
「私の前で、無理に話さなくていいわ。メッセージと同じで大丈夫」
ポカン、とした顔をしたと思う。わたしはしばらく言葉を発せずにいた。頭は冷静なようで冷静ではなく、焦りのような、恥じらいのような、心臓がざわざわとする感覚がする。
ああ、彼女が居心地悪くしていたのではない。わたしが。わたしが、悪くしていたのだ。
「……ごめん、そうだよね」
「大丈夫よ。学校スイッチみたいなのが入ったのよね、多分」
「そんな感じです……」
恥ずかしくて赤くなる顔を覆った。何やら、わたしが気付くよりも先に察してくれていたらしい。
熱くなったままの顔を手でパタパタと仰いでいると、店員さんが注文を運んできてくれた。コーヒーとパンの香ばしい香りに包まれる。
柔らかな湯気が立ち上るコーヒー。カップは真っ白で美しい。六等分に切られたサンドイッチは、表面がカリッと色づいていてとても美味しそうだ。
「これで全部ね。ランチはコーヒーおかわりできるから、必要だったら言ってね」
「ありがとうございます」
紫苑――さきはお手拭きで手を拭いて、口元を和らげていた。
「いただきます」
どちらともなく、目を合わせて言う。タマゴサンドを一口噛むと、サクッとトーストの心地いい音が鳴った。真っ先に来るのは、マヨネーズで味付けられた卵のシンプルな味。その後から、ほのかにケチャップの酸味がする。
「美味しい……」
向かいでさきの唇から、小さく声が漏れる。ふとそちらを見ると、彼女は目を細め、幸せそうにサンドイッチを食べている。
「……さきって、美味しそうに食べるね」
「そう? 初めて言われたわ」
気にした様子もなく、さきは一つ目のサンドイッチをぱくりと平らげていた。
「あき、一つ交換しましょ。ハムサンド美味しいわよ」
「あ、うん。タマゴサンドも凄く美味しいよ」
さきはどこか上品なたたずまいで食べ進めていた。コーヒーカップを持つ指先、味を楽しむ桃色の唇。引き立てるような白い肌と、シャツの間から除く鎖骨。長いまつ毛に縁どられた、大きくも理知的な瞳。
(……やっぱり、美人)
こっそりと、彼女の様子をうかがう。
学校で、さきは基本的に一人で居る。目立つ有名人なのだけれど、気安い雰囲気ではないからか、名前でも、苗字でも、呼び捨てられることはまずないし、話しかけられているのもあまり見ない。
けれどいつも、なんとなく、人の視界に入る人だった。
シャンと伸びた背筋と、移動教室で教科書を抱えて歩いている姿をよく見た。
メッセージのやり取りのような、なんてことない穏やかな会話を楽しむタイプには見えなかったし、サンドイッチとコーヒーに顔をこんなに幸せそうに緩める人だとは思わなかった。
(食べて幸せそうでも美人……)
「どうしたの?」
まじまじと見過ぎていたらしい。さきの声に誤魔化すように笑う。
「さきって、なんか動作がきれいだなーと思って」
「動作……? 食べ方とかってこと?」
「そうそう、それも」
うーん、と顎に手を当てて考えている、その様子も、まるで雑誌の中の人を見ているようだ。
「祖母が厳しかったからかしら」
「おばあさん?」
「小さい頃は、祖母に預けられていたのよ」
「そうなんだ」と返事をするわたしに、さきは視線をコーヒーに向けたまま話した。
「両親が働き人で、流石に保育園児じゃ家に一人はちょっと、って。小学校に上がって、三年生からは鍵っ子だったわ」
「なるほど……一人っ子だったよね」
「そうよ。あきのおうちは賑やかそうよね」
「女ばっかり四人だからねーみんな結構歳離れてるし、喧嘩はないけどなんかしら喋ってるよね」
メッセージでのやり取りを確認するように、でもその時よりも少し踏み込んで。わたしとさきは、コーヒーが香る中とりとめもなく話をした。
入り込みすぎない家族の話。出てこない学校の話。晴れてよかったと天気の話。
美味しい食事と、素敵なお店。天気の良い外が見える窓際の席で、いつもと違う、非日常を味わっている。ほんのりとする煙草の臭いも、それを際立てている。
お店にはちらほらと、常連らしきお客が入る。店員さんは、時々こちらの様子を見て、手が空いているときにコーヒーのおかわりをくれた。
「若いお客さんは珍しいからね」
そう言って、迷い猫のように優しくされるのが、なんだか少しおかしかった。
最初の緊張が嘘のように、わたしは無理せず話せていた。
目の前にいる彼女は紫苑真咲その人であって、けれどどこか、学校で見る彼女とは離れている。
わたしもきっと、
彼女は、メッセージの中の彼女そのままで、目の前にいる。
天気の話や、道で見たものや、中身のない話をする。普通に焦らず生きていれば感じられるような、自然な話をする。
同意や、同じだけの知識や、同じだけの感情を求められたりはしないのだ。
「さきはなんか、自然だね」
「そう?」
「もっとこう、賢くて、大人じゃないと話が合わない人なのかと思ってた」
「なあに、それ。……まあ、テレビの話をされてもわからないけど」
「あはは、わたしも」
きっとこの人は、学校だからといってわたしのように、何か切り替えて人と接しているわけではないのだろう。いつもきっと、こうなのだと思う。
自然体で、肩を張らない人。
見た目じゃわからない素朴さを感じながら、わたしはさきと接していた。
ランチタイム終了の十五時までしっかりと話し込んで、私達は店を出た。帰りに飴玉と、「また来てね」という店員さんの優しい笑顔に見送られ、真夏の晴天の下。
「どこか行きたい所ある?」
「うーん……久しぶりにここまで来たから、服とか雑貨とか見たいかも」
「じゃあ、駅前まで戻りましょうか」
「さきは、いい?」
「私も服見たいわ。あと、最後に少し本屋を見てもいい?」
「もちろん」と返事をしながら二人歩く。
行きに感じていた息苦しさはもうすっかりなくなって、足取りは軽く、太陽の暑さすら爽やかな気がする。
無理に会話をしようとしなくたってするりと言葉が出てくるし、時々訪れる沈黙も、不思議と心地よく穏やかだ。
私はメッセージ以上の彼女のことは知らない。ほとんど何も知らないけれど、それでもいいと思った。少しずつ、これから知っていけたらいい。
(さきは、どう思ってるんだろう)
理想を体現したような横顔は、変わらずクールな印象を受ける。あんなに幸せそうにサンドイッチを食べる人だけど、考えていることはあまり顔に出ないようだ。
「そういえば、さっきのカフェ、夜はバーなんだって」
「えー、すごい。大人な感じ」
「お酒が飲める歳にならないとね」
「あと三、四年ね」と彼女が言う。一緒に、行くことができるだろうか。それはもう彼女次第のような気がした。
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