魔法
狛咲らき
ある大学生の冬
世界が変わってから3年が経った。
初めは外に出れば、マスクを着けなくてはならないという存在しないルールによって、不快感で反吐が出そうだった。しかし3年もすれば日常となってしまい、もはや何も感じなくなってしまった。
今となっては誰も彼もがすれ違う人々の異質さにも慣れ、マスクそのものがまるで人間の一部へと変わってしまったようだ。どうやら常識とは案外薄っぺらいものらしい。
「——ということになりますので、この公式を用いれば無事に解へと導く事が出来るのであります」
顔の半分を黒で覆う教授も、この世界の違和感にいつの間にか適応してしまったようで、無表情で講義を進めている。いや、もしかしたらその口は笑っているのかもしれない。誰も質問しないから「どうして手を挙げないんだ」と苛立っているのかもしれない。
少なくとも目元でしか表情を判断出来なくなってしまった以上、教授に興味を抱く者は誰ひとりとしていないから、そんな事を考える私自身が馬鹿らしく思える。
最初の年、日本が、世界の在り方が大きく変わることとなった。
誰も彼もが負感情に口を吐いて、くぐもった声にさらにストレスを募らせる。特に春から夏にかけては、その暑さも相まって地獄でしかなかった。たとえマスクをしていようが、一歩外に出れば当時高校生だった私に向かって警察になったつもりの一般人が、不要不急だと自らが信じる正義を武器に襲ってきたものだ。
ギスギスとした空気に誰かが腹を立て、その声にまた誰かが腹を立ててと負のスパイラル。きっとどこかのメーカーが家庭用パンチングマシンでも出していれば飛ぶように売れていたことだろう。
しかしそれはもう3年も前のこと。4年目を迎えた現在は、そんな地獄も随分と過ごし易くなった。
数年も怒り、嘆き、黒い炎を燃やせる人などほんの一握り。大抵の人は2年目辺りで疲れて飽きてしまったように思う。
だから再び元の世界を取り戻すべく戦うことはその一握りに任せて、今は渋々この状況を日常のひとつとして飲み込んでおこう。それが現代人の考えである。
だが飲み込んだ結果生じた問題は些細なものとして目の端に追いやってしまったものだから、我々の視界に映る世界は何とも物哀しい。
一握りの疲れ知らず達よ。なるべく早く色を添えてはくれまいか。
些か傲慢かもしれないが、昔の私はそう思わずにはいられなかった。
「——ここまでは良いですか」
黒マスクの教授の言葉に反応はない。
一方で私はというと、教授と目が合った気がして姿勢を正した。
しかしノートを見ると何も書かれていない、というより机にはノートすら置かれていない。
それもそのはず、私は講義が始まってから一度たりとも白板を見ていないのだ。
長々とした数字と記号の羅列の解読はとうにほっぽり出し、私はこの単位を捨てていた。
初めは真面目に受け、小さな脳味噌が熱を上げて焼き切れる程には理解しようと努めていたのだが、私の脳内コンピュータでは無理があったらしい。
ならばどうして今も講義を受けているのか。この時間中に何処かへと遊びに行けば良いではないか。
残念ながらそうはいかない。私はここから離れるわけにはいかないのだ。
私の席から遠く離れた前側中央の席。講義を受けるには持ってこいのその席に座るのは見目麗しき華の乙女。
彼女こそが、この社会の諸問題に代わって、ただ今書き加えられている最中の白板の難解な暗号に代わって、私の視界を独占する犯人である。
彼女は私の熱い視線に気付かず、真剣に講義を聴いている。そして時に疑問を浮かべるような表情をしたかと思えば、目を大きくしてゆっくりと頷いたりもする。表情豊かで見ているだけでも心の底が暖かくなるのを感じる。
名前はサトウマホ。私と同じ2年生らしい。
名前は直接聞いたわけではない。教授からの指名と、彼女の友達との会話を聞いて繋ぎ合わせただけだ。苗字は佐藤と思われるが、名前はどう書くのだろうか。
また彼女は容姿端麗なだけではなく、頭脳明晰でもあるようだった。講義中積極的に質問をする姿も頻繁に見かけ、教授達にも顔と名前を覚えられている。あるいはその美貌に教授達も鼻の下を伸ばしているのかもしれない。
ともあれ外見も能力も性格も優秀な彼女は、この半年の間、無意識にも私に魔法をかけていたのだった。
「ああ、なんて美しい横顔なんだ」
私は思わず独り言を呟いてしまった。
何かを考え、努力する姿は誰であろうと美しい。しかし彼女はその横顔でさえ、まるで富士山の山頂から拝む初日の出のような神聖さを感じさせられるほどに綺麗で、見るだけで心が浄化される。これほど素晴らしい横顔など、どこへ探してもきっと見つかりはしない。
だからこそ惜しいのだ。
3年前から続く負の遺産、顔の半分をも覆うマスクが、彼女の御尊顔を決して周知させぬと邪魔をする。遠い昔に失われたはずのその白い不織布に対する怒りは、最近になって再び私の心を黒く染め上げようとしていた。
目の端に追いやった諸問題はどれだけ追いやろうとも視界の隅でニタニタと私のことを嘲笑う。
彼女の顔は俺のものだ。見れるもんなら見てみろよ、と。
私は躍起なってその分厚く薄い壁を透視しようと彼女の口元を睨むが、白い布は私の視線を一身に受け止めるばかりで突き破ることは叶いそうにない。それどころかマスクに代わり教授に睨み返される始末である。
だがそんな簡単に諦められるものなら私はこの教室にいやしない。
一度で良い。横顔の全貌を一度で良いから見てみたい。
そうして私は講義が終わるまでの間、彼女の美貌に酔いしれ、白いマスクに嗤われ、教授の冷たい視線に気付かない振りをし続けたのだった。
「よろしくね」
桜が咲き乱れる春の大学、2年生になって初めて受ける講義が彼女との出会いだった。
「よ、よろしく」
まさか知り合いでもない人から声を掛けられるとは思ってもみず、欠伸をしながら教授を待っていたところに不意を突かれた。
彼女は私の左隣の席に座った。隣の席とはいっても、通路を挟んだ向こう側だから物理的距離としてはやや遠かった。
少ししてから彼女の隣に青年がやってきて、席を確認しながら座った。その青年にも彼女は笑って声を掛けた。去年の講義の初めもそうして近くの席の人に挨拶していたのだろうな、と私は思った。
マスク越しでも心を暖かくしてくれるその笑顔に、私はどんどん惹き込まれていった。
それは単純に彼女が美しかったからだけではない。白黒の寂しい景色に唐突に差し色を入れられたらどうなるか、誰だって想像がつくだろう。
その日から私の大学生活は少しずつ変わっていった。
彼女と同じ講義を受けていれば無意識に彼女の方に視線が行き、まともに教授の話が聴けず、彼女がいないと分かれば静かな教室の中で想いを馳せて、これまたまともに聴けず、無駄な時間を費やす日々が続いた。
その結果前期の成績が惨々たるものであったことは言うまでもない。
これまで私は恋愛にうつつを抜かすことなく、またそんな機会が訪れたこともなく、かといって何かに熱中していたわけでもなかった。
ただ漠然とした日々を送っていただけに、彼女の魔法は非常に良く効いた。
特に彼女と隣の席の講義はもう狂ってしまいそうだった。
半径3メートルにも満たない空間の中に彼女がいる。そう自覚するだけで心が燃えて、あらゆる幸福が私の下に流れ込んでくるようだった。
真面目に講義を受けている彼女を他所に、その横顔に見惚れて目が離せず、書かれたノートを見返せば話半分で聞いた解読不能のメモが数行のみだった、ということは一度だけではない。
わざわざ学ぶために大学に来たのだ、せめて板書くらいはすべきだろう。そう思って何度かすぐ近くの魅惑的な横顔から離れる努力をしたものの、ずっと前に学生の本分を何処かにポイと捨ててしまったらしい。我慢の我の字を書くより早く努力の2文字を消しゴムで跡形もなく消していた。
そういうわけで、私の大学生活はある意味最高、ある意味最低な状態となっていた。
このままでは不味い。返ってきた成績表の現実に流石の私も危機感を抱いた。だから夏休みが明け、心機一転と後期に臨んだものの、結局冬が始まろうとする今でも彼女の魔法にかけられたままでどうすることも出来ないでいる。
幸か不幸か、今期は彼女と隣同士になることはなかったけれども、根本的な解決がなされていない以上、危うい状況は続いたままだ。
そしてこの成績の悪さもさることながら、私が最も自己嫌悪しているところが、この半年もの間、最初に交わした挨拶以外一度として彼女と会話を交わせていない、ということであった。
「はい、カレーセット大ね」
トレーに乗せられた大盛りのカレーとサラダを運び、適当な席へと座る。
「いただきます」
そう言って私はマスクを外した。
それにしても、どうして私はこんなにも臆病なのだろう。前期は隣同士であったのに、心の距離は遠いままに終わった。そして今も気持ちの悪いくらい彼女のことを考えるだけに留まってしまっている。我ながら情けない。
もしも今頃仲の良い間柄となっていたら。もしも恋仲の関係となっていたら。
幸せな妄想は妄想のままで、いつまでも現実に顔を見せやしない。
だから私の頭の中の、何もつけていないありのままの彼女の顔もまた、口元が靄がかってしまっている。
おいおい、その調子じゃあ彼女はずっと俺のものだぜ。
ニタニタと白い不織布に嗤われているような気がしてどんよりとしてしまう。
ただ隣の席だけでなく、もっと良い機会があればきっと。
……などと好機を待つばかりの私に果たしてその時が来るのか、非常に怪しいものなのだが。
そうして沈んだ気持ちでしばらく独り無言で食べていると、私を呼ぶ声が聞こえた。
「1週間ぶりかな。今独りかい?」
「ああ」
言葉少なめに応じると、彼は私の真向かいに座った。
テーブルに持ってきたカツ丼を置いて「いただきます」と箸を進める。
「外はかなり寒くなってきたねぇ。どうだい、調子は?」
「まあまずまずだよ。健康そのもの」
「勉強は?」
「……それは聞かないでくれ」
私がそういうと、彼は笑った。
「いやぁ、まさかお前が色恋に勤しむとはなぁ」
彼とは高校以来の友人である。
他にも何人か知り合いがいて毎日のように遊んでいたけれども、大学に進学するにあたり同じ大学の彼以外とは疎遠となってしまった。
高校時代の私は、今の私と違って恋愛などとことんまで興味がなかった。それは単純に当時数人の友人達と朝までゲームをしたり、下らない話で盛り上がるのが好きだったから、という理由もある。しかしそれよりも私自身の外見や性格が、あまり女子受けしないものであったことが大きかったからかもしれない。
届かない願望なら届かせる努力をしても無駄だろう。
端からそう諦めて、半ば現実逃避する様に遊び呆けていれば、見つけられるものも見つけられなくなるのは当然といえる。
「だから大学に入った今は見つけられたと?」
「どうなんだろう。でもそれは少し違う気がするな」
「というと?」
ぐいぐいと私の恋愛事情を聞かれて少々照れくさい。
私はコップの水を一口飲んで答えた。
「彼女は魔女なんだよ」
「魔女、ねぇ」
「馬鹿にしてるな。口がニヤついてるぞ」
カツ丼を頬張る彼は、まるでマスクを外しているのを忘れているかのように口元の笑みを隠さない。もっとも、マスクをしていてもその目を見れば分かるのだが。
私は続けた。
「彼女はきっと、出会う男共に片っ端から魔法をかけてきたんだ。そしてかけられた奴を横目で楽しんでるのさ」
「なるほど。つまりお前のことか」
「そういうこと。悪い魔女だよ、彼女は」
冗談半分にそう言ったものの、もぐもぐとカレーを口に運んでいく内に、実際その通りのような気がしてきた。
もちろん魔女とか魔法とかは単なる比喩である。でも彼女にはそう思わせる一種の才能があるのは確かだ。
忌まわしいマスクによって顔を半分以上も隠されてしまっているのにも関わらず、恋愛についてはどうでも良かった私をこんなにも狂わせている。魔法と言っても何ら差し支えない。
ではマスクを外した、ありのままの彼女の素顔はどれほどの力があるのか。
「でも良いよな、俺だって一目見てみたいってのに、お前は毎日のように見てるんだから」
「やっぱり学科が違うと偶然すれ違わない限り難しいのかもな。でも止めておけよ。見たら多分、お前も留年に近づくぞ」
「いや、流石にお前みたくずっと見たり考えたりしねーよ」
「どうだかな」
まったく、こいつは魔法にかかっていないから分からないのだ。
あの髪、あの瞳、あの姿。一目見ただけで全身が燃え上がり、愛らしい声に心洗われる。
とてもじゃないが、勉学に熱が入らない。春に彼女の隣にいた青年も、今頃私のように彼女の姿を想起しているに違いない。
「——もう、そんな先生なんているわけないでしょう」
その時、聞き覚えのある声がした。
はっとそちらを向くと、私の方へと足を進める女性がふたり。
そのひとりはそう、例の彼女である。
彼女は友人らしき人と仲良く話し、お盆に定食セットを乗せている。
そして彼女達は私達の隣のテーブルに座ると、いただきます、と箸を割った。
ドクン、ドクンと自分の心臓の音が聞こえる。
それと同時にやってきたいつものような多大な幸福に脳を打たれる感覚がした。
しかし今回ばかりはそんな多幸感よりも緊張が勝る。何故ならこの時間、この場所、この状況が一体何を意味するのかを私は一瞬で悟ってしまったからだ。
私に気付かず、筋向かいに座る彼女はまず右耳に指をかけた。
私の鼓動がますます速まり、思わずごくりと唾を飲んだ。
それから彼女は左耳に指をかけて——純白に隠されたものが露わになった。
それは美しい口であった。
ピンクの薄い唇に、口元にぽつりとある艶やかなほくろ。開いた口から僅かに見える歯は、白く綺麗に揃っている。
まるで欠けていたパーツが完璧に揃ったかのように、美しい彼女に相応しい美しい口である。社会が以前のままであれば、きっとすれ違う人全員が振り返り、街中を歩けばスカウトマンがぞろぞろと名刺を渡しに来ていたことだろう。
ご飯を食べながら友達と話す彼女は楽しそうで、ニコニコとしている。
「もしかしてあの子が例の?」
私の様子に彼もちらりと彼女の方を見やる。
「確かにめちゃくちゃ可愛いな。で、どうすんのさ」
「どうするって?」
「話しかけないのかよ。向こうも多分お前のこと覚えてるだろ。こんなチャンス滅多に来ないんじゃないか?」
「それは……止めておくよ」
「は? 怖気付くなよ。このまま悪い魔女様を野放しにしても良いってのか?」
冗談めかしつつ彼は言った。
私とそれなりに付き合いがある彼だ。小心者の私が、今まで彼女のことを高嶺の花として眺めていただけのことは分かっているらしい。
つまり、分かってくれているのはそれだけということだ。
私は残りのカレーをスプーンで掻き集め、最後の一口を口に入れた。
ふと、提出しなければならないレポートの期日が迫っていることを思い出した。
「ごちそうさま。今日はちょっと用事があるから。じゃあな」
「え、おい、ちょっと待てよ。どうしたんだよ」
呼び止める彼を置いて私は食堂を後にした。
週一で食べに来るカレーは最後だけ味が変わっていて、目に映る景色は幾分か色落ちていた。
外に出ると空は青く澄んでいて、寒い空気を少しでも暖めようと太陽が優しく地面を照らしていた。
私は建物の影を歩いて、図書館へと向かった。
それからというもの、私のノートにはびっしりと講義の内容が書かれるようになっていた。
成績も各段に良くなり、前期の悲惨な点数が嘘のようであった。
……私に魔法をかけた相手が彼女ではなかったと気付いたのは、それからしばらくしてのことだった。
魔法 狛咲らき @Komasaki_Laki
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