第1話 ニューイヤー



「ちーがーうーっ! さっきも言っただろう! ボケがー! お前、耳ついてんのか?」


 桜に暴言を吐かれて、関口はむっとした顔をする。


「暴言反対」


「うるさいね。だったら一回でやれよ。——第一楽章はアダージョ、g mollゲーモール。四分の四拍子。いい? おわかり?」


「知ってますよ」


「じゃあ、第二楽章は?」


「アレグロ、g mollゲーモール、四分の四拍子」


「違うのはどこ?」


「アダージョとアレグロ」


 しれっと言い放つと、足蹴りされる。


「だから! 痛いって」


「わかってんだったらその通りに弾けよ! バカ。バーカ」


「ち」


「舌打ちすんな」


 正月明け。コンクールまで一週間に迫っていた。今年の正月は実家に帰る時間もなく、こうして休みなく桜の店に通っていた。あおは年末年始は休みだったが、いつもと同じスケジュールの関口とは時間が合うわけもなく。実家に帰ることもないまま自室にこもって本を読んでいるようだった。


 関口がコンクールに選んだ課題曲はJ.Sバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第一番 第一楽章アダージオと第二楽章のフーガだ。


 年を越えてから、桜は店が開く前の時間をこうしてレッスンに費やしてくれているわけだが……。なにせ口が悪い。最初に彼女の前で演奏をした時は、なにも言われずに最後まで弾かせてもらうことができたが、レッスンとなると全く話が違う。


 一小節弾かせてもらうことなど珍しい。最初の一音だけで「クズ」「やめ」とダメ出しの連続。なんの曲を弾いているのか錯誤するくらい細かい。


 第一楽章は二十二小節だけの短い曲であるが、速度の緩やかであることと、美しい対位法が豊かで重々しい印象を与える曲だ。


 それに引き換え、第二楽章は九十四小節にも渡る堂々たるフーガ(主題—主となる旋律—が他の声部にも模倣、反復されて現れるという技法のこと)。


 ゆったりとした第一楽章と、テンポのよい第二楽章との対比をどのようにつけていくのか?

 桜は関口の解釈をよしとしないのか、何度もそこを指摘する。


 ——テンポの違いは出しているだろう? なにが文句あるんだ。


「っていうかさ。本当、最初のデー(レ)の音三つだけで何時間かかんだよ。おい。いいか? お前の出したい音、ちゃんと決めてこい。弾くたびに違う演奏してんな」


「……すみません」


 ——心が惑っているからだ。僕の心か決まらないのだ。


「今日は終いだ。店を開ける時間だからね。今日は帰っていいよ」


「いいんですか」


「こんなクズな出来でコンクールなんて出せるわけないだろう? 家帰って練習してこいよ」


「——わかりましたよ」


 関口は大きくため息を吐いてから楽器をしまう。


「明日も同じ時間に来な。店にはもう出なくていいよ」


「桜さん……」


 彼女は眉間に皺を寄せていたが、ふと笑みを見せた。


「あんたにとって正念場なんだろう? しっかりしろよ」


「——はい!」


 ——あと一週間。なんとか形にしないと……。


 焦る気持ちを持て余しながら関口は帰途についた。



***



 星音堂せいおんどうの年末年始は役所のこよみ通り、十二月二十九日から一月三日までは休館だが、一月はクラシック界恒例のニューイヤーコンサートが目白押しだ。


 長期の休みも手伝って、それぞれの職員が業務に追われている中、事務所内には香ばしい匂いが漂っていた。


「どれ、今年の出来はいいようだねぇ」


 食いしん坊の尾形は待ちきれない様子で、声の主である水野谷を見つめる。彼は自分のそばにある灯油ストーブの上にアルミホイルをくしゃくしゃにして敷き、その上で餅を焼いていた。


 蒼は開いた口が塞がらないが、他の職員たちは一様に期待に胸を膨らませた視線でそれを見守っていた。


「毎年恒例だ。課長の餅を焼くこだわりはなかなだぞ。家で餅食えなくても、ここで食えるから安心しとけ」


 星野がそう説明した。


「どれ、できた。どうぞ、みなさん。お食べなさいよ」


 彼の声に尾形は待ちきれないとばかりに席を立って、彼のところから皿を持ってくる。

 皿の上には海苔で巻かれた醤油色の餅がのっていた。


「課長、今年も実家からもらったんですか」


 氏家の質問に、次の餅を焼きながら水野谷は笑う。


「そうなんですよね。いつも大量に来るんですけど。娘も年ごろでしょう? そう減らないんですよね。冷凍するって言っても限度があるしねえ。今年は豆餅もありますよ」


「餅は好きかい? ろん!」


 正月早々、氏家のくだらないギャグがさく裂して事務所内は和やかな雰囲気に包まれた。


「課長の磯辺餅は最高ですよね~」


 吉田は尾形からもらった餅を食べ始める。


「お醤油にね、砂糖でしょう、それから味の素を入れるとおいしいんですよ」


「味の素は入れたことないですよね」


「それがいいんです。——ほら、豆腐餅の豆腐も持ってきましたからね」


「もう、お昼、これでいいですね~」


「ほら。蒼も」


 一通り回った尾形は蒼の元にも餅を持ってきた。しかし、そういう気分ではない。


「あの、おれは……」


「蒼は餅嫌い?」


 彼は不思議そうな顔をした。すると、餅焼きを中断させた水野谷が蒼の肩を叩いた。


「は、はい?」


 蒼は驚いて視線を上げると、彼がすぐ後ろに立っていた。なにかヘマでもしたのだろうか。肩叩きをされるなんて……とドキドキとしていると、水野谷は眼鏡をずり上げて蒼の顔をまじまじと見つめた。


「蒼、お前。調子悪い?」



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