第2話 マトリョーシカ



「え? えっと……いや。どうなんでしょうか」


「いやいや。どうなんでしょうかってさあ。僕が聞いているんですよ」


「あ、そうですよね。すみません」


 あおは喉元に手を当てて呼吸に意識を向けた。正直、調子が悪い。

 雪が多いこの時期。喘息が悪さをするのだ。関口と住んでから——いや、台風に打たれて風邪気味になってからぶり返した喘息が、寒くなって更に悪さをしている。

 吸入薬の減りも早い。その割に朝方の発作も多かった。


「早退しなさいよ」


「で、でも」


 二人の押し問答を見ていた隣の席の星野も割って入る。


「そうだぞ。お前。朝からヒューヒュー言ってるじゃねえか。自分で気が付かねえの?」


「——すみません」


「遅番はおれやっておくよ」


 吉田も心配そうに蒼を見ている。なんだかみんなに心配されるのはくすぐったくて、居心地が悪い。


「あの、大丈夫——っ」


 大きな声を上げようとすると、喉になにかが突っかかったみたいになって咳が出た。


「ほらみろ。言わんこっちゃない」


 星野は呆れた顔をしてから、蒼の作成中の書類を保存した。


「ほれ。こういう時は人の好意に甘えるもんだ。そうですよね。課長」


「そうそう。むしろ、ちゃんと病院行ってこい。なにもなければそれでいいんだから」


「社会人としての責任だよ」


 最後に言われた尾形の言葉は心に染みる。蒼は「わかりました」と言ってから、荷物をまとめてみんなに頭を下げた。


「すみません。じゃあ、早退させてください」


「一人で帰れるか?」


「大丈夫です」


 心配してくれる星野に答えてから、蒼は荷物を抱えながら星音堂せいおんどうを後にした。


 外に出ると、昨日降った雪が解けて、黒いアスファルトが見えていたが、歩道はぐちゃぐちゃだった。到底、自転車で歩けるような状態ではない。

 コートを羽織ってから、リュックを背負う。暖かい屋内から屋外へと出ると、その気温の差で喉が痛んだ。


 ——もう少しでコンクールだ。それまでにもう少しマシにしておかないと……。


 そんなことを考えて歩き出す。目的地は熊谷くまがい医院だった。



***



 熊谷医院は市役所本庁舎の近くにあった。昔ながらの木造の建物は昭和レトロを彷彿とさせられる面持ちだ。

 少し剥がれ落ちた白い壁面と、くすんだ茜色あかねいろの屋根は、背の高いビルの合間にぽつんとあった。まるでそこだけ時間が置いて行かれたみたいな……。

 曇りガラスがはめられている木製の扉を開くと、受付から中年の女性が顔を出した。


「あら、蒼くん」


「こんにちは」


「やだやだ。ちょっと——ひどいんじゃない? 早くどうぞ」


 彼女は蒼が小さい頃から受付業務を担ってくれている梅宮という女性だ。小柄の割に蒼よりも厚みのあるマトリョーシカみたいな女性だった。


 午後の診察は三時から。その前に到着したのが幸いした。待合室にはまだ誰もいない。梅宮は「先生~」と奥に入っていく。今日の診察は栄一郎だろうか。そう思ていると、診察室から白衣を着た長身の男が顔を出した。


「蒼!」


 長めの髪を後ろに流し、奥二重のきりりとした顔つきの男は、慌てて蒼の元に走ってきた。


「なんだよ。その顔。いつから?」


「えっと……。父さんから薬もらっていたんだけど、どうもこの寒さで調子が悪くて……。ごめん。休憩時間でしょう? 陽介ようすけ


 男は栄一郎の連れ子である陽介だ。蒼にとったら義理の兄に当たる。彼は順調に医師免許を取得し、現在は梅沢県立医科大学附属病院に勤務医として勤務している。

 しかし時たま、オフの日はこうして外来を担当しているのだった。


「そんなものはどうでもいい。梅さん、悪いけどレントゲン。後、藤田さんを呼んできてくれる?」


「はいはい」


 コロンコロンとした梅宮は受け付けの奥に消える。それを見送っていると、陽介に腕を引っ張られた。


「バイタル測るから」


「ああ、うん——」


 ——なんだか大事おおごとで……どうしよう……。


 診察ベッドに腰を下ろし、血圧を測ってもらっている間、なんとなく居心地が悪い。


「蒼——」


「なに?」


「母さんが帰ってきているのに、どうして帰ってこない?」


 ——やはり言われると思った。


 上から降りてくる陽介の視線に答えられない自分は俯くばかりだ。答えに窮し黙り込んでいると、ふと大きな声が聞こえた。


「蒼くん! どういうことなの!!」


 先ほどのマトリョーシカ梅宮より一回り大きい白衣の天使、藤田が姿を現したのだ。多分、梅宮のマトリョーシカが収まる大型マトリョーシカがこの藤田だ。

 くるくるのショートパーマに赤縁の眼鏡。梅宮と同世代の彼女はドスドスと地面を揺らしながら診察室に入ってきた。


「藤田さん。すみません」


「まま!」


 彼女はいきなり、蒼の後ろの首を捕まえると、それからワイシャツの襟ぐりから背中に沿って右手を突っ込んできた。


「ひい」


「藤田さん」


 陽介も声を上げるが、彼女はお構いなしだ。蒼の襟ぐりから手を引っこ抜くと、あきれた顔をした。


「熱! 熱ありますよ」


「まだ計ってませんよ」


「先生、まず熱でしょう?」


 彼女は傍にある体温計を消毒綿で拭くと蒼に差し出した。血圧測定を終えてマンシェットが外れたところで、蒼は体温計を脇の下に挟み込む。


「熱なんてあるかな~」


「ありますよ。私の手体温計は間違いありませんからね!」


「藤田さん……」


 ピピピと鳴った電子体温計を見ようとすると、それよりも先に藤田にそれを取り上げられた。


「ほら! みなさい!」


 彼女は誇らしげに体温計を蒼と陽介に差し出した。見ると——。


「八度五分じゃない。蒼、それで感じないわけ?」


「ち、違うよ。体温計が壊れているんだ……」


「ともかく! レントゲン行きますよ」


 藤田に腕を掴まれて、蒼は廊下に連れ出された。



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