第10話 マシュマロ女のリサイタル



 足音を忍ばせながら、そっとホールを覗き込む。そして四人は息を呑んだ。


 本番さながら。煌々こうこうと照明が灯され、パイプオルガンのところに女性が一人座っていた。彼女は自由自在に音を変え、壮大な音色を奏でる。


 あおは開いた口が塞がらなかった。あんな小さな彼女が一人で演奏しているとは到底思えない。幾重にも重なった重厚な響き。両手両足を駆使し、精密に音を変えるボタンを入れ替えて音色を変える。オーケストラも顔負けのそのダイナミックな響きを、たった一人の女性が奏でるだなんて……。


 パイプオルガンとは一種の笛であるオルガン管に空気を送り込んで発音させる鍵盤楽器である。星音堂せいおんどうのパイプオルガンには鍵盤が三段と足鍵盤を備えた大掛かりなものだ。


 パイプの数は三千百十本以上あり、ストップ(鍵盤の隣にあるボタン)の組み合わせにより音量を変え、更に鍵盤との組み合わせで音色を変えることができると星野から聞いていた。


 実際にその音を聞く機会は少ないものの、初めて耳にした時の衝撃は物凄いものだった。

 人間一人が受け止め切れるような音量ではない。体の奥底に響くというよりは、留まる——いや、突き抜けてどこかに流れていくような……。しかし響きは体にいつまでもまとわりつくのだ。

 心の奥がジンジンといつまでも震えている気がするのだった。


「ウジェーヌ・ジグーのトッカータじゃねーか」


 蒼の頭上から覗き見ていた星野が呟く。

 正直、蒼にはさっぱりその曲がなんなのかわからない。


 遥か遠くから小さくさざ波のように響いてきたオルガンの音は、うねりとともに少しずつ近づいてくる。緊張感のあるそれは、不安定で心の不安を煽る。

 しかし、あっという間に目の前にやってきたそれは、明るい和音を奏で終結を迎えた。

 星野はそっと蒼と吉田に説明を加えた。


「フランスの作曲家だ。自身がオルガニストで、即興演奏が得意でよう。フォーレ先生の師匠だ。六十年近く教会のオルガニストやっていた筋金いりのオルガンバカの曲だ」


 作曲家のことを『オルガンバカ』と言い切る星野は凄い。蒼は笑いそうになって口元を押さえた。そして素晴らしい演奏に吉田は感嘆の声を上げそうになる。星野は慌ててその口を塞いだ。彼女が続けてもう一曲弾き始めたからだ。


 明るい和音から入る荘厳な響きに胸が高鳴る。


「ボエルマンのゴシック風組曲1番だ。ボエルマンはジグーの生徒だが、若くして亡くなったんだ」


 蒼はなんだ不安になって彼女から視線を外した。すると、客席の中段の真ん中に人影を認めた。


 パイプオルガンの演奏会の場合、一番良い席は客席前方がいいと星野の話を思い出す。頭上からの響きのほうが美しく聞こえるというのだが……。奏者の姿をしっかりと鑑賞するためには、中段がベストだろう。目線が一緒になるからだ。

 

 ——あれは……課長?


「今度は4番のトッカータだ」


 不安を煽るような澱んだ響きから、だんだんと盛り上がりを持ち、そして最後は心が解放されたかのような明るい響きを残して演奏が終わる。


 残響時間が長いホールには、その響きが充満し、そこにいる誰もが圧倒的なその音に包まれていた。


 さすがの星野もポカンとして放心状態だった。しかし、ふとパチパチと小さい、それでいて力強い拍手が一つ響いた。


「へ?」


 拍手の主に視線をやると水野谷が一人客席から立ち上がって拍手を送っていた。やはりそこにいたのは水野谷だったのだ——。


 パイプオルガンから立ち上がった女性は、ふわっとした白いシフォンのスカートを揺らして振り返る。


「ああ、彼女だ……」


「マシュマロ女……っ!?」


 蒼の言葉に、星野と吉田が彼女をよく見ようと蒼を押す。二人を支えるのは困難だ。


「星野さん——!」


 関口の制止もきかずに結局は、倒れてホールになだれ込んだ。


「お前たち……っ!」


 水野谷は呆れた顔をして三人と一人を眺めていた。そしてステージ上のパイプオルガンのところにいた女性は、手すりに右手を添えてから、ニコッと笑みを浮かべて姿——。




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