第11話 そして種明かし
「全く! お前たちは仕事をしろと言えば嫌な顔をするくせに……帰っていいぞというと戻ってくるんだから」
事務室で自分の席に座っていた
「本当に、すみませんでした……」
「課長……あれは一体……」
自分の席で椅子にもたれていた彼は口元を緩めて笑う。
「彼女は三年前まで
——だった?
「熱心な子でね。いつかは、ここで自分のリサイタルを開きたいと。元々ピアノを弾いていた子だ。それはそれはすごい腕前を持っていてね、当時の講師も音大に進んでプロになれる素質があると太鼓判を押していたんだけどね。……ある日。——死んだ」
「し、死んだ?」
「そうだ。星音堂の帰り道に車にはねられたそうだ。にわかに信じがたかった。僕はね。おじさんながら彼女のファンだったんだよね。真っ直ぐで、純粋で、素直で。彼女が二十歳の年。もし、僕がまだ星音堂にいたのなら、パイプオルガンでリサイタルをさせてあげようって約束をしていたんだ」
「課長……」
「全く馬鹿げている話だ。それなのに、彼女は約束を覚えていたということだ。お前たちが、幽霊がでると言っている話を聞いてピンときた。彼女が帰って来たのだと……」
「課長は知っていたんですね。それなのに、おれたちに遅番させて」
星野は面白くない顔をするが、水野谷は苦笑するばかりだ。
「だってお前たち、納得しないじゃない。一週間ばかりやらせれば納得するかと思ってね。案の定、全員で一週間も居残るっていうじゃない。呆れたよね。まあ、そのおかげで、今日は僕一人で、こうして時間が取れたんだよね」
「夕方にキャンセル入ったのって」
吉田の問いに水野谷は平然と答えた。
「悪いが、遠慮してもらったんだ。別日に振替。もっと広い部屋を用意することで納得してもらった。じゃないと、ゆっくり彼女の演奏が聞けないじゃない」
「課長〜……。課長って霊感ありなんですか?」
星野の問いに水野谷は苦笑した。
「奇異な目で見ないでよ。 別に霊媒師とか、超常現象のプロじゃないんだから。今回の件は、僕が一番驚いているんだからね。これ以上は何も言わないで」
結局は水野谷だけが知っていたお騒がせ騒動だったのか。幽霊騒動なんて、非現実的なこと。正直夢うつつだが。
蒼はなんだかちょっぴり心が切なくなった。消える前の彼女の笑顔は水野谷を見ていた。だけど、蒼のことも見てくれた?
彼女は最後になんと言っていただろうか。
『あ り が と う』って言っていた気がした。
もう彼女に会うことはできないのだろう。きっと。思い残すことがなくなったからだ。蒼は胸に手を当てる。この切ない気持ちはどうしてだろう。
——おれ、ちょっと好きだったのかな?
そう。きっとそう。蒼は彼女にちょぴり恋をしていたのだ。
『あなたにも、聴いてもらいたいです』
彼女の言葉が耳から離れなかった。
「ニヤニヤしちゃって」
ふと隣にいた関口がぼそっと呟いた。
「なんだよ」
「あー。好きだった訳?」
「す、好きじゃありません」
二人がコソコソと言い合いをしている間に星野は水野谷を見た。
「あ〜あ。課長のお騒がせ幽霊騒動はこれで一件落着ってことですね? もう」
「おいおい、星野。他の人には言うなよ」
「はいはい。じゃあなにかおごってくださいよね〜。口止め料ですからね」
「あ、おれも! そこの中華でいいですよ」
「はいはい。わかりましたよ。どれ。今日は早いが店じまいだ。せっかく帰ってきたんだから、閉めるの手伝って」
「人使い荒いですよー」
「帰れって言ったクセに戻ってくるからそういうことになるんですよ。関口も。手伝っていきなさいよ」
二人はレジを閉めたり、日誌を取り上げる。蒼はマスターキーを持った。
「おれ、戸締りして来ますね」
「よろしく」
蒼が廊下に出ると後ろから関口がくっついてきた。
「もう! 変なこと言わないでよ」
「なに? 本気だったの? あの幽霊女のこと好きとかないよな?」
「関口には関係ないじゃない」
蒼はプイッと視線を外す。またいつものからかいだろうと踏んだからだ。
しかし珍しく彼からの反論はない。
——なに?
驚いて彼を見返すと、珍しく真面目な瞳の色を浮かべていた。
「な、なに? なんな訳? 関口——」
彼女と邂逅したそのスペースで、二人はただ向かい合っていた。
「蒼」
「なに?」
「お前、好きな人いないの?」
「好きな人って? なに? いるわけないじゃない。こんなに一生懸命仕事してるんだから……」
「あっそ。——寂しい人生だな」
彼のコメントに、カチンときた蒼はむっとした。
「悪かったね。ヴァイオリン弾けてカッコイイ関口くんとは違いますよ!」
——どうせモテたことなんてないんだから。それに……別に彼女なんていらないし。
「そういう嫌味は受け付けない」
プイっと先に歩き出す関口の後ろ姿を見送ってから、ふと方向転換した時。彼女が座っていた席が目に入る。
——もう彼女はいない。どこを探しても。あんなに恐れていたのに。会えなくなると寂しいもんだね。
蒼は彼女が座っていたところに佇んで、彼女を思い浮かべた。
「名前……なんて言うのかな? おれの名前は知っていたのにね」
そんな独り言を呟いてから、視線を伏せると、床に光るものを見つけた。
そっと近づいて拾い上げる。
それは金色の黒いねこがついたブックマークだった。
「これは……」
黒いねこの裏には「Rina.H」と彫ってあった。
「りな……ちゃん。りなちゃん」
彼女の名を呼ぶと、ふと締め切っている室内に風が吹いた。
どこか彼女の存在を匂わせる空気に、蒼は微笑を浮かべた。
「どうもありがとうございます。おれ、音楽が好きになった。もっと好き。ここで頑張ります。本当にありがとう」
彼女の座っていた場所に向かって頭を下げてから、蒼は歩き出す。
「おーい。いつまでかかってんだよ? 早くしろ」
遠くから星野の声が響く。
「今、行きます!」
蒼は廊下を消灯し真っ直ぐに事務室に向かった。
— 第五曲 了 —
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