第6話 ドキドキお忍び蛍くん見守りツアー
土曜日。市民オーケストラのメンバーたちはお昼過ぎに集合をして最後のゲネプロ(通し稽古)を行っていた。
定時で終われるようにと、
夜間、大きなイベントが入っているときは、駐車場係の人をお願いする。職員だけでは賄えないからだ。主にお願いしているのはシルバー人材センターだ。毎度恒例の依頼であるため、派遣されてくる高齢者は馴染みの顔である。そのおかげで、もうすっかりお任せできるから助かるというものだった。
「今晩の駐車場係、何名?」
「五名来る予定ですね」
「お茶用意しておけよ」
「はい」
日勤は星野と蒼。遅番が尾形と吉田だ。氏家と高田と水野谷は休みだったが、三人とも市民オーケストラの演奏を聴きにくるという話しだった。
お昼に出勤してきた吉田は「おれも見たかったな~」と愚痴を言う。
「いいじゃねーか。こそっと聞きにくれば」
「それはそうですけど。メンコンでしょう? いい曲ですよね」
「メンコン?」
蒼がきょとんとして口を挟む。
「今日はメンコン」
「吉田~。蒼は鈍いからわからないよ」
星野は苦笑して口を挟んだ。
「メンデルスゾーンのコンチェルト、
「ああ。なるほど」
蒼は納得するが、星野は足を組んでだらんとした格好で笑う。
「そんな変な略し方するのは日本人だけだろう? 日本人てさ。頭悪いよな」
「星野さんだって日本人じゃないですか」
「そりゃそうだけどさ。チャイコフスキーの協奏曲は『チャイコン』。ベートーベンの交響曲七番は『ベトシチ』とかさ。ブラームスの交響曲一番は『ブライチ』。ブライチってよお、女性下着かよって。おかし~だろ」
星野はそう言って笑うが、蒼は苦笑いするしかない。
「でも、そういうのだって知っておいたほうが通ですよね」
「真面目かよ。ねえ。真面目なの? お前」
「あ、笑っておきましょうか?」
「もういいよ。本当に、いいですよ」
星野はいじけたように呟くが、蒼はそれどころではないのだ。もうすぐ始まるのだ。関口の演奏会。いや、正確に言えば市民オーケストラの演奏会なのだが……。
「やあ、星野くん、蒼。こんばんは!」
昨日同様、元気な関口圭一郎が姿を現した。昨日、相当の波紋を引き起こしたのに、我関せずとはこのことだ。能天気な声に蒼は内心ドキドキした。いつ、関口と鉢合わせになるかと思うとひやひやしたのだ。
昨日の彼の様子を見ると、圭一郎という存在は、本番前の彼には禁忌である。
「マエストロ」
「今日はマエストロが指揮されたらいいじゃないですか」
吉田のコメントに星野は「これ」とたしなめた。
「そうだよ。えっと……キミはなんだっけ?」
「吉田です」
「おお! そう。そうだ! 吉田くん。今日は柴田先生の舞台だ。私は一観客に過ぎない。本当に楽しみにしているのだよ。なあ、有田」
そこで事務所入り口にたたずんでいる有田の存在に気が付く。彼は顔色が悪かった。指揮者のマネージャーとはオフの日にまでこうしてつき従わなければならないのだろうかと疑問になった。
「本当に静かになさってください。いいですか? 客席に着いたら、一言も声を洩らさない。これが今回の『ドキドキお忍び
にこりともしない真面目な顔で「ドキドキお忍び 蛍くん見守りツアー」と言われてもピンとこない。蒼はぷっと吹き出した。
「蒼、昨日はどうもありがとう。大変有意義な時間を過ごした。日本に帰ってきた甲斐があるというものだ。今度はぜひ、かおりにも会ってやって欲しい」
——かおり?
蒼の疑問に答えたのは有田だ。
「蛍くんのお母さまです」
「あ、ああ。はい」
なぜか友人という括りなのに、関口の両親に挨拶をしなければならないのかわからないが、圭一郎の人と成りに気圧されていた。
「マエストロ用に第二練習室を押さえておきましたので、そこでお待ちください。開場いたしましたら母子室に入ってもらって……。演奏が始まったら会場に移動してもらいます。吉田、そういう手はずだ。いいな」
星野は圭一郎が関口と鉢合わせにならないように段取りをしていたらしい。その役は遅番である吉田が仰せつかったようだった。
「尾形じゃ、太ってて目立つからな」
「ひどいですよ~。星野さん」
尾形はおせんべいを頬張りながら抗議の声を上げるが説得力はない。
「お前は事務所留守番な」
「は~い」
素直に返答する尾形を眺めていると、星野に促された。
「蒼、上がろう。そろそろ時間になるぞ」
「わかりました」
——始まるのだ。
蒼は胸がどきどきしてきた。梅沢市民オーケストラの演奏会が始まる。
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