第5話 父親
「いつも世界中を飛び回っていて、頭の中は音楽のことでいっぱい。子供である僕や妹のことなどちっとも考えていないんだ。ただ、こうして思い出したかのように、たまにやってきては僕たちがなんとかやっている日常を壊して去っていく——本当に迷惑な男なんだ」
——そう。迷惑なだけの男だ。
「一応、この家の維持費などはあの人が肩代わりしてくれているので無碍にはしないけど。正直、僕は父親として認めてはいない」
「嫌いじゃないんでしょう?」
「嫌いだよ。あんな奴。大嫌い」
「関口」
「——ごめん。蒼に言う話じゃない。だけど、きっと迷惑かかったでしょう? 代わりに謝罪します」
そう言ってから頭を下げる。蒼はじっとそのまま動かなかった。
「ねえ、関口。あの——お父さんは……」
「それ以上言わなくていい。なにか言われたんでしょう? もっと仲良くしたいとか、蒼から口添えして欲しいとか」
図星のようだ。蒼の視線が泳ぐのを見て、関口は「やっぱり」と思った。
「あんな奴の言う事なんて無視していいからね。悪いね。巻き込んで。ごめん」
「だから。それはいいって。——あのね。関口」
蒼は真面目な顔をして関口を見ていた。
「関口はおれの時も背中押してくれたでしょう。おれ、なにか力になりたいって思っているんだよ。ね? だから……」
「だったら、放っておいてくれればいい。僕はあの人と仲良くしたいなんて一つも思っていないから」
「——ごめん」
——そうだ。親子だからってみんなが仲良くする必要はない。蒼はお母さんと再会していい方に向かったかも知れないけど。僕は僕だ。
これ以上は話したくないという気持ちで蒼を見返すと、関口の心の内を察してくれたのか、彼は黙り込んだ。それから、仕事で持ち歩いているリュックを開いて、なにやら取り出した。
「これ」
「なに?」
目の前に差し出されたのは、明日の市民オーケストラのチケットだ。
「明日。観に行く」
「え? いいよ。別に」
「ううん。絶対に行く」
少しいい加減な気持ちで笑みを浮かべて蒼を見ると、彼は笑っていなかった。真剣な瞳の色で自分を見据えているのだ。
「蒼——」
「あのね。関口の演奏は、この前初めて聴かせてもらった。すごくよかった。だから、今回はステージに立っている関口を見てみたい。明日は遅番じゃないから。絶対に観に行くね」
蒼という男は真面目だ。黒目がちの瞳は必死に自分を見据えている。なんだか自分のほうがいい加減で恥ずかしい気持ちになった。
——本当にこの男には救われる。
「わかったよ。来るなら言えばいいのに。チケット余ってるし」
「ううん。自分で買いたかった。ちゃんと観に行きたい」
「蒼って頑固だよね」
「仕方ないじゃない。そういう性格なんだから」
「確かに! 頑固だ」
あははと笑い声をあげると、彼は不本意そうな顔をしていたが、すぐに笑みを浮かべた。
「関口ほどじゃないし」
「僕は頑固ではないよ」
「嘘。お父さんと喧嘩ばっかり」
「喧嘩じゃないし。それは言葉の使い方が間違っているね」
「え~。悪いけどね。おれからみたら子供の喧嘩です」
自分たちの長年の確執を「喧嘩」と一蹴する蒼の感覚には脱帽だ。関口は苦笑してから、麻婆豆腐をごはんの上にのせた。
「あ~。蒼とくだらない話をしたらお腹空いちゃった」
「なにそれ! おれだってそうだよ。もう。明日は日勤で早いんだからね。勘弁してよ」
お互いに悪態を吐くクセに、悪い気持ちにならないのはどういうことだろうか。関口は思う。やはりこの男がいてくれるということは自分にとってはかけがえのないことなのだということ。
明日は市民オーケストラの定期演奏会。久しぶりのステージにどこか緊張している自分がいた。
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