第7話 開幕
「関口、大丈夫か?」
ソリストとして小さい控室を与えられた関口は、一人で鏡の前に座っていた。そこに顔を出したのは自分の恩師でもある柴田だ。
彼は昨年、高校教師を退職したばかり。白髪交じりの短髪。きりりと決めた燕尾服は彼を上質な紳士に見せていた。
「先生」
「緊張しているかと思ってさ」
彼は恰幅のよいお腹をさすりながら、いつもの人の良さそうな笑みを見せる。それを見ながら、関口は表情を硬くしたまま答えた。
「どんなステージでも緊張はしますよ」
ソファに座った柴田は笑った。
「お前は、子供の頃から誰よりもステージに立つ機会が半端なく多いのにな。やはり緊張するんだな」
「当たり前です。ステージには魔物が棲んでいますからね」
楕円形の眼鏡をずり上げて、関口は大きく息を吐いた。
——そうだ。ステージでは、なにが起こるかわからないんだ。
何百回とステージに上がったが、同じステージは皆無だ。同じ音楽ホールで同じ曲を演奏したとしてもだ。
「お前のその慎重さは、やはり父上譲りだね」
「あの人の話は無しにしてください」
「今日来ていると聞いたけど?」
「出禁にしてもらっていますから大丈夫です」
しらっとそう答えると、柴田は「あはは」と大きく笑った。
「先生」
「いやいや。もう子供の駄々っ子だな。——まあいい。今日はできることをやろうじゃないか。コンクール出るんだろう?」
こっそりとエントリーしたのに、どういう経緯でその話が彼の耳に入るのだろうか。事務局で洩らすはずはないだろうし。
しかし、犯人捜しをしても仕方がない。どうせいずれは明るみになることだからだ。
「ええ。申し訳ありません。先生にご相談いたしませんでした」
「いいよ。いいよ。しばらくは市民オケも休みにして専念しないと」
「ありがとうございます」
柴田は少し灰色かかった瞳を細めて関口をじっと見据えていた。
「今まで教えられることは教えてきたつもりだ。だけどね。関口が本気で一歩を踏み出そうとするんだったら、おれでは力不足だと思うんだよ」
「いいえ。今までも色々とお世話になってきました。ですから僕は、今回も先生にお願いをしようかと——」
「今回、おれはできない」
「先生……」
それは、冷たい突き放すような言い方ではない。優しい、そして関口の背中を押してくれるような柔らかい口調だった。
「大丈夫。ちゃんといい先生紹介するから」
「新しい先生ですか?」
「そうだ。とびきりのね。だから今日は恩師としてキミに教えられる最後のレッスンだ。いいか、心してかかれ。関口
腹の底から響いてくるようなしっかりとした声色。関口は姿勢を正してから柴田に頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「よっし! 頑張ろうね」
彼はにこっと笑みを浮かべてから立ち上がった。
***
クラシック音楽の演奏会に来るのは初めてに近い。星野からルールを教わった。
「感動しても、演奏が終わるまでは拍手をしちゃダメですね?」
「そういうこと」
先ほど鳴った予鈴のおかげで、あらかたの観客が着座する中、ホールの客席側の照明が落とされた。それを合図に、吉田が圭一郎と有田を連れて姿を現す。二人は星野と
「いいですね? 声は出さない」
何度も言いくるめられているのだろうか。有田の小さい、嗜めるような声に圭一郎は「うんうん」と頷いてから、蒼を見てにこっと笑った。
その瞬間、オーケストラの面々がまばらにステージ上に姿を現す。
——関口は?
蒼はドキドキする胸を押さえながら明るくなったステージを見守る。
——いた!
蒼に絡まってくる
蒼は目を瞬かせてステージ上の関口を見守った。
オーボエの鳴らす
他の団員たちとはまた違う関口の仕草は、より一際、目を引いた。
「か、かっこいいんですね。コンマスって」
蒼のつぶやきに星野は笑った。
「お前のお友達は、凛々しくていい男じゃねーか」
「そ、それは。そうですけど……」
ニヤニヤとしている星野は唇を突き出してから椅子に体を沈めた。チューニングが終わったのか、関口が腰を下ろすと、一瞬の静寂の後、指揮者である柴田が颯爽とステージ上に姿を現した。観客からは拍手が巻き起こる。これから始まるのだ。
第一部はジャン・シベリウスの交響曲第2番
第三楽章と第四楽章は繋がっていると説明を受けたが、どちらにせよ蒼にとったら初めての曲なので、なにがなんだかわからないことには違いない。みんなが拍手をする場面ですればいいか、くらいの安直な考えでいるだけだった。
柴田はにこやかに笑顔を見せ、会場を見渡してから軽く頭を下げた後、指揮台に上り、そして関口を見た。それを受けて関口は軽くうなずいた。
——そうか。コンサートマスターと指揮者は信頼関係で結ばれているんだ。
両手を上げて構えた柴田に合わせてステージ上の演奏者たちも楽器を構えた。 会場全体が緊張するのがわかる。
演奏会の始まりだ。
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