第1話 恋と友達
ガサガサと音を立てる袋を抱えてバスから降りる。ここに来るのも慣れてきたものだと思った。
月曜日の昼下がり。平日のおかげでバスには高齢者ばかり乗っていた。指定された料金を料金箱に入れ込み、
バス停から病院までは歩いて数分だ。少し山間に入る細い道を上っていくと、銀鼠色の建物が見えた。
関口に背中を押されて、母親と面会してからそう時間はたっていないが、蒼は休みの度にここに足を運んでいた。
彼女はいつも同じ場所で読書をしている。案の定、今日もまた同じ場所に座っていた。
「蒼」
蒼と似た
「母さん」
「お休み? また会いに来てくれるなんて嬉しいわ」
彼女は読みかけの本に銀色のブックマーカーを差し込んだ。
「この前、読みたい本があるって言っていたから——持ってきた」
「嬉しい」
ガサガサとした桃色の袋から文庫本を二冊差し出す。表紙を確認することもなく蒼の母親である
「座って」
促されるように隣に腰を下ろす。
この光景も何度目だろうか。相変わらず運動をして怒られている女性。ひたすら絵をかく女性——。
初めてきた日と全く同じような光景に、一瞬、時間の感覚が狂うような錯覚に陥った。
「ねえ、家に帰る?」
蒼は母親の横顔を見る。
「そうね。栄一郎さんから強くそう言われているしね。でも一番、帰ろうって思ったのは、あなたが会いに来てくれたからよ」
海はそう言うと嬉しそうに笑った。
昔。小さい頃に二人だけで過ごしていた時の笑顔だ。蒼は心配だった。またあの環境に戻って、彼女からこの笑顔が失われてしまうのではないかという心配だ。
蒼の翳った表情に気が付いたのか。海は蒼の頭を撫でた。
「大丈夫だと思うの。当時とは違っているし。栄一郎さんがちゃんとしてくれるって言ってくれたし。それに、蒼もこうしていてくれる。あの時とは違っているでしょう?」
「でも。でもね。おれ。あの家には戻らないんだよ」
「いいわよ。それは蒼が決めることでしょう? 私は栄一郎さんと結婚したけれども、蒼まで無理に熊谷の人になる必要なんてないんだから」
海の言い分は最もだ。蒼はうなずいた。
「父さんには感謝しています。ここまで大きくしてもらったのは父さんのおかげだもの。だから、あの人のことは好きだよ。母さんのこともお願いしたいと思っているし」
「まあ、生意気な口きくじゃない。——やだな。本当に。私の中の蒼は当時で止まっているから。突然大人になったあなたが現れるって幻覚みたいよ。まだ治療したほうがいいのかしら?」
悪戯に笑う海。病気のことで冗談を言えるのだから、かなり
海はふと蒼の持ってきた本に視線を落としてから笑う。
「あら。頼んでいない本だけど、これあなたが選んだの?」
そこにはある音楽家の一生が綴られた一冊の本があった。
「ああ、それは。あの。友達が。面白いからおすすめって言うんだ。おれも読んでみたんだけど、うん。面白かったから。母さんにもどうかなって思って」
「お友達?」
「そう、そうなんだよ。関口って言ってね。ヴァイオリン弾くんだって。えっと、弾くんだって表現したのは、実際に聴いたことがなくてね。だからそういう言い回し」
蒼の説明を海はじっと黙って聞いてくれる。なんだかそれが嬉しくて蒼は関口の話をした。
「なんかドイツに行っていたんだって。すごいよね。海外に留学できるってすごいと思う。だからきっと上手なんだよ。ヴァイオリン。だけど、色々あるみたい。その本読んで思ったけど、音楽家って人に認められないと辛いんだなって。関口もそうなんだよ。きっと辛い中でもがいているんだなって理解した。
でもね。きっと関口はみんなに認められる素晴らしい演奏家になるんじゃないかって思うんだ。悪い奴じゃないし。——あのね。最初にここに来るきっかけを作ってくれたのは、あいつなんだ。関口に会えていなかったら。おれはここに来られなかったんだよ。だから——母さん。退院したら関口に会ってくれる?」
一気に話をしてから、海の様子を伺うようにそっと視線を向けると、彼女は面白そうに笑っていた。
「ねえ、蒼」
「はい」
「あなたの話を聞いていると、その関口って子は女の子なの?」
「え!?」
「お付き合いしているの?」
——ええ!? そんなんじゃないのに。
蒼は目を白黒させた。
「ち、違うよ。関口は男だし」
「え? そうなの? 驚いたわ。話をしているあなた、まるで恋しているみたいに夢中みたい。その関口さんに」
蒼は一気に顔が赤くなるのがわかった。そんなつもりではなかったのに、海には誤解されたというのか?
「そんなに蒼が夢中になる人なんですもの。会ってみたいわね。——そう言えば、栄一郎さんのお友達にも関口さんっていたわね。なんだか懐かしいわ」
口をパクパクとさせてみても言葉が見つからない。結局は黙り込むしかない。
そう。ここのところ、蒼は関口と過ごす時間が増えていていたのだった。まだまだ彼のことになるとわからないことも多いが、関口という男はそう悪い奴でもないということは理解しているところだったのだ。
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