第4話 パイプオルガン奏者
翌日。遅番で施設内を見て回っていた
「こんばんは」
肩下までの髪は真っ直ぐで
「こんばんは」
初めて聞いた声もイメージ通りだ。低すぎず、高すぎず。柔らかい声色に、優しそうな人だということがわかった。
少しクリーム色かかったフワフワのブラウス。浅黄色のスカート。お嬢様みたいに上品な女性だった。
「あの。昨日もここにいらっしゃいましたか」
蒼の言葉に、彼女は頬を少し赤らめた。
——こんなこと言ったら、ストーカーみたい? 変な奴だって思われるのかな!?
一度、口から出た言葉は元に戻すことはできない。蒼は黙り込んで、彼女の反応を待った。
「あの。すみません。場所をお借りしてしまって」
「い、いえ。違うんです。そういうのじゃ、なくて……」
違うのだ。そういう意味じゃなくて……。じゃあ、どういう意味だ? 自分はなぜ彼女の話かけている? なにをしたいのだ? そんなことを自問自答していると、彼女の方が口を開いた。
「ここは、落ち着く場所ですね。つい、気持ちがここに向くんです」
薄ぼんやりとした
確かに落ち着く場所––––なのかも知れない。蒼にとったら職場であるから、当然の場所だが、そう言われてみるとそうなのだと思った。
「そう思ってもらえるなんて、嬉しいです」
彼女は柔らかな笑みを浮かべた。蒼は頬が赤くなっている気がして、なんだか落ち着かなくなった。
「あの。前からいらっしゃる職員さんですか?」
「あ、あの。いえ。四月からこちらに配属になっておりまして……」
「まあ、新人さんなんですね」
「そ、そうなんです!」
必死に答える蒼の様子に、彼女はぷっと小さく吹き出すように笑った。もう、恥ずかしすぎて穴があったら入りたい。
実は彼——彼女いない歴三年。そう言われると聞こえはいいが、前回付き合った彼女とは、ほんの一ヶ月しか持たないという始末。よって、彼女はいても、ほぼ人生の大半を一人で過ごしてきた男なのだ。
一度、彼女ができたおかげで、童貞は卒業できたものの、そう経験もない。女性の扱いなど知るよしもない思春期みたいなものだった。
「え、ええっと……あの。しかし、
話を終えたくない気持ちになって、適当なことを投げかけてみる。彼女は蒼との会話をそう嫌がる様子もなく、読んでいた本を閉じた。金色の黒猫がぶら下がっている金属製のブックマーカーだった。
「ええ。私、パイプオルガンを演奏するんです」
「え! そ、それはすごいですね」
音楽ホールに勤めていても、パイプオルガンの奏者に会う機会はほとんどない。演奏巡業でやってくる奏者を見たことはあるが、地元の、こうして気軽に話ができる人間でパイプオルガンを弾ける人は見たことがないという意味だ。
ぽかんと口を開けていると、彼女は再び笑った。
「まあ、おかしな顔」
「すみません……、失礼ですよね」
「いいえ。この話をすると、みなさん、そんな反応されますから。でも、あなたのようにあからさまなのは初めてかも。おかしい」
かあっと赤くなった顔を引っ込めることなどできるはずもない。蒼は俯いた。
「ごめんなさい。お気に障りましたか?」
「いえ。おれの方こそ。失礼いたしました……」
言葉に詰まりながらも、蒼は言葉を続けた。
「演奏する機会がありますか? あの。是非、聞いてみたいのです」
「まあ、音楽がお好きなんですか?」
「それは……」
素直な反応。彼女は目を細めて肩をすくめる。
「素直な反応ですね」
「すみません。でも、ここに就職して、少しずつ音楽を聴いています。まだ良さを語れるほどではありませんが……。でも、少しずつですけど、好きになっています」
「そうですか」
「音楽って言葉と違って、心に直接、感情で響いてきませんか? 嬉しい。楽しい、悲しい。辛い。そんな感情が……意味はわからないんですけど。心がぐらぐらって動かされます」
蒼の言葉に、彼女はうんうんと頷いた。
「素敵な感想ですね。そういう方に演奏を聞いてもらいたいって、演奏家なら思います。……もう少ししたら、演奏をする機会があります。その時は、あなたにも聴いてもらいたいです」
「はい! もちろんです!」
蒼の返答に満足したように、彼女は立ち上がった。
「今晩はもう帰らなくちゃ。楽しい時間でした。熊谷蒼くん」
ふわっとスカートを翻して歩き出した彼女の後ろ姿にはっとした。
「あの、なんで、おれの……名前……」
慌てて追いかけて、角を曲がった彼女を追いかけたのに、そこに彼女の姿はなかった。
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