第5話 金魚のフンは気分屋




「はあ? 幽霊だと?」


 遅番で一緒だった星野に先ほどの邂逅の場面を説明する。


「だ、だって。帰るって言って、玄関の方じゃなくて、奥に歩いて行ったんですよ? しかも水飲み場の角を曲がった途端、いなくなっちゃったんですから!」


 プロ野球中継を小さくかけながら、ソファに寝そべってうちわえ仰いでいた星野は大声で笑い出す。


「お前、疲れてんだって。そんなん、いるわけないじゃん〜」


「え? えっと。幻覚、なのでしょうか……」


 目を擦ってみる。


 ——疲れているというのか?


 残業をしていて、トイレから戻ってきた吉田も事のしだいに笑い出した。


あお〜……。お前、本当に面白いな」


「吉田さんまで……。本当のことなのに」


「ほらほら。そんなこと言ってねーで。戸締りの時間ですよ」


 星野に促されて、時計に視線を向けると針は午後九時を指すところだった。


「わかりました」


「怖いなら一緒に行ってあげよっか?」


 星野の揶揄からかうような言葉に「いいですよ」と頬を膨らませて、蒼は懐中電灯を手に廊下に出た。


 帰宅準備をしている団体に声をかけて歩く。もしかして、彼女が奥から出てくるのではないかとドキドキして見回りをしたが、結局は彼女の姿は見つけることができなかった。


「蒼」


 ラウンドを終えて事務所に帰ろうと歩いていると、ヴァイオリンケースを肩にかけた関口と鉢合わせた。


「大丈夫? なんか顔色悪いみたいだけど」


 彼は眉間に皺を寄せて、少し心配気に蒼を見ていた。


「う、ううん。大丈夫だよ。——練習、お疲れ様」


「もう終わりだろう? 夕飯食べていく?」


「うん。そうだね」


 先日の母親との邂逅を思い出し、なんだか気恥ずかしい。確かに、蒼の中で関口という男は親しい人間のカテゴリーに入っている。


 元々、人との距離感が難しく、近くなりすぎると怖くなるタイプだ。今まで友達にいじめられたり、嫌われたりするようなことはそうなかったが、逆を言えば、あっさりした付き合いばかり好んでしていたのだ。


 だから、こうして社会人になってみると親友と呼べるような相手は皆無だ。地元に戻ってきたというのに、友達と連絡を取る気にもなれない。四月から星音堂せいおんどうに勤務しているが、ほぼ毎日は職場と自宅との行き来のみだったのだ。


 そこに登場したのがこの関口という男。母親に指摘されて気が付いてみると、なんだか気恥ずかしい気持ちになった。


「片付けてくるね」


 関口は蒼にくっついて事務所に顔を出す。案の定、星野に笑われた。


「お前さあ。金魚のフンかよ」


「星野さん」


「蒼のお尻ばっかり追っかけてないでさっさと練習しろよ~」


「なんですか。それ。星野さん」


 蒼は二人の会話を横目に帰宅の準備をした。



***



 蒼の遅番と関口の練習日が重なった日は、よくこうして二人は夕飯を食べた。星音堂の目の前にある喫茶店だ。一階は花屋。二階がこの喫茶店「ソラマメ」。音楽ホール周囲には決まりパターンだ。


 営業時間は十時半まで。比較的遅くまでやってくれているのはありがたい。夜間上演の催しは基本的に夜九時までが多い。演奏会を楽しんだ後の団らんの時間を持ってもらう目的でこの時間に設定されているのだろうかと蒼は思っていた。


 隣には中華料理店があるが、関口は中華があまり好きではないと文句を言うので、ソラマメを利用することが多かった。


 店舗は交差点の角に位置しているため、二方向全面が窓になっている。平日の夜の時間はそう客もいない。近くにある総合病院で勤務している若い女性たちがちらほら食事をしているくらいだ。そんな店内の雰囲気だから、最初は男二人で利用するのは妙に目立っている気がして居心地が悪かった。しかし、そんな居心地の悪さも数回経験するとなんともなくなるものだ。慣れとは恐ろしいものである。


「この前ね。母さんに本置いてきた」


「そう」


「関口にお勧めされたやつ。面白かったから。同じの買って置いてきた」


「なんだ。わざわざ買ったの? あの本、譲ってもよかったのに」


「ううん。大事な本。大丈夫だよ」


 エビのトマトクリームパスタをくるくるとしながら関口は笑う。


「そういうところは真面目だよねえ。蒼って」


「え? おれは至って真面目ですよ。どこからどう見たって真面目です」


「ふうん」


「なあに? その意味ありげな『ふうん』って返事」


「別に~」


「だから! あのさあ。本当にいちいち突っかかって来るんだから……」


 ソラマメスペシャルのピザを頬張る蒼は文句を言い始める。それを見て、関口は笑っているばかりだ。


「本当さ。蒼をからかうと面白いよね」


「ねえ。おもちゃじゃないし。あのね、人をいじって愉快がるって性格悪いよ」


「ああ、悪いね」


「自分で認めたら目も当てられないでしょう」


 こうしていつも他愛もない話になるのに、同年代の人間と時間を過ごすことが、蒼にとっては初体験みたいな感覚で新鮮なのだ。文句を言っていても嫌な気持ちにはならない。


「それよりも、あのさあ——」


 蒼は今日、出会った女性のことを彼に話した。話の間、関口は黙っていたが、ふと声を上げる。


「ってかね。蒼はその子のこと好きなわけ?」


 突然、関口はむっとした顔をした。


 ——怒られること言った?


「怒ることないでしょう? なに? 関口って幽霊話とか嫌いだった? そういう人いるもんね。ごめん。最初に確認しないで話しちゃったし」


「そうじゃないけど」


「あ、そっか。星音堂愛が強いから、そいうの嫌なんだ」


 蒼が話す度にどんどん機嫌が悪くなっていく様は、外から見ていても手に取るようにわかる。小さい頃から人の顔色を伺って暮らしてきたからだ。しかし、なぜ機嫌が悪くなっているのかは理解できない。


「違うし」


「——ねえ、ちゃんと話してくれないとわからないよ。なんで怒ってるの?」


「怒ってないよ。別に。——ごちそうさま。明日早いんだった。少し早く帰ってもいい?」


「え、うん。ごめん」


 話に夢中になっていたおかげで蒼はピザが残っていることに気が付いて、慌ててくるくると丸めてから口に詰め込んだ。


 なんだか後味の悪い会食になってしまった。






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