第15話 動き出した歯車



「ねえ、栄一郎さん」


 先に帰っていった蒼を見送った二人は、窓辺で肩を並べて座っていた。彼女の手には、栄一郎が差し入れた文庫本が一冊ある。


「私、いいのかしら?」


 濡羽色ぬればいろの瞳を見つめて栄一郎は頷いた。


「いつでも帰ってきていいんだよ。みんなが待っているのだから。ねえ、うみ


「はい」


「僕たちの結婚生活は実質一年もなかった。また一から始めてはもらえないだろうか?」


 彼女の細い指先を握りそっと見下ろした。


 あれから十年以上が経つ。当時の彼女はキラキラしていて眩しかった。

 明治から続く老舗病院の看板を背負わされ、妻に先立たれて途方に暮れていた頃だ。

 友人の誘いで訪れた場所にいた彼女に一目惚れしたのだ。「息子がいるので」と何度も断られたのに、足繁く通いなんとか口説き落としたのが間違いだったのだろうか? いや。そんなことはない。


 過去を振り返れば取り返しのつかないことばかりだが、それでも自分は生きている。これからできることは彼女を幸せにすること。そしてその息子である蒼を見守ること。


 彼の本当の父親は、蒼の存在を知らない。だから彼の目の前に現れる可能性は限りなくゼロに近いのだ。蒼の父親は自分一人なのだと栄一郎はそう言い聞かせていた。


「栄一郎さん。ありがとうございます」


 頭を下げた海の気持ちを理解して、栄一郎は笑みを浮かべた。


「準備しようね」


「ええ」


「蒼も帰ってきてくれるといいんだが」


 栄一郎の言葉に海は首を横に振った。


「あの子はもうすっかり立派な大人になったわ。いつまでも私が引き留めてはいけないと思うのです。好きにさせてやってもらえませんか?」


「そうだね。蒼は友達もいて、仕事も充実しているみたいだ。僕も、もう手が届かないよ」


「もっと蒼の話を聞きたいわ」


「これからたくさんあるよ。それに蒼と話せる時間もね」


 二人は顔を見合わせて頷いた。


 昼下がりの病棟は夢の中の微睡みみたいにぼんやりとした空気が漂う。なにが本当でなにが夢なのか。


 しかし、熊谷家の止まっていた時間の歯車は確かに動き出した。



***



 蒼が出て行ってから一時間が経過した。無事に会えたのだろうか? 持参してきた楽譜を開いて眺めては見るものの、なんの意味もなさないことはわかっていた。


「嘆きのマリアとの対面か」


 マリアは息子を慈悲深き心で受け入れてくれるに違いないとは思っていても心は落ち着かない。


 そわそわと楽譜を捲っては閉じを繰り返していると、ふと助手席のところに人影を認め、驚いて顔を上げた。


 そこには蒼がいたのだ。


 『どうだった?』と尋ねたいところだが、彼の表情を見る限り、この面会の結果は一目瞭然だった。


「ただいま」


「おかえり」


 助手席に乗り込んできた蒼は、少し上気した頬を赤くして関口に頭を下げた。


「ありがとう。関口」


「そっか。よかったな」


「——本当。よかった」


 彼はそれっきりなにも言わない。関口は戸惑い、そしてずっと聞きたかったことが頭に浮かんだ。


「お母さん、どうだった?」


「え? どうって?」


 唐突な質問に蒼は意図がわからないとばかりに眉間に皺を寄せた。


「なに?」


「だからさ。お母さんって蒼に似てるのかって聞いてるの」


「え! ってかさ。なに? 関口は年上好き!?」


「ち、違……!」


「やだー。関口って。あのね、母はちゃんと既婚だし。変な気を起こさないでよね!」


「だから……。もういいや。帰るか」


「そうだね」


 ニコッと微笑む蒼の笑顔は、暖かいお日様みたいだ。彼が笑うと辺りが明るくなる。


 ただ、彼の母親ならきっと彼と同じお日様みたいな女性なのかと思っていただけだ。彼女もまた一時は翳ったのだろうが、きっと蒼と再会してその輝きを取り戻したに違いないと思ったのだった。


 なんだか気恥ずかしいような気持ちを誤魔化すようにエンジンをかけてから、車を発進させた。

 

 梅雨の合間の昼下がりの空は真っ青だ。ジリジリと照りつける日差しが妙に眩しかった。もう夏がすぐそばまでやってきているのだろう。


 しばらく走ると、蒼が声を上げた。


「ねえ、関口」


「なに?」


「あのね。おれに音楽のこと教えて欲しいんだけど……」


 蒼の言葉に目を見張ってから、口元を緩める。


「まあそうだな。出来損ないの職員のままでは星野さんたちに迷惑がかかる。協力できることはするよ」


 可愛くない言い方だが、蒼は文句を言うつもりはないらしい。「ふふ」っと軽く笑うと「そうだね」とだけ言った。もう怒るつもりはないらしい。


 嫌な奴なのに……。蒼が嬉しそうに笑っている横顔を見ているとなんだかくすぐったい気持ちになるのはなぜだろうか? 


「ねえ、来る途中にジェラート屋あったじゃん。寄ってよ」


「僕は東京に帰りたいんだけど」


「いいじゃないの。付き合ってくれたって。そう時間かからないでしょ?」


「と言うか、緊張して黙っていたのかと思ったら、ちゃっかりそういう店は把握していたんだ」


「なにそれ! 食いしん坊みたいに言わないでよ」


「いやいや。食いしん坊でしょ? いやしいって言うか」


「う、うるさいな。おごってあげないからね!」


 蒼は頬を膨らます。怒ったという仕草か。関口は苦笑した。


「べつにジェラートおごってもらうほど生活に窮していないけど」


「ああ、本当に可愛くないね! お礼でしょ? お礼」


「え! お礼ってジェラートで済むと思ってるんだ。うわ、浅はか」


「あのねぇ! 本当可愛くないね!」


 蒼の口から飛び出す悪口を聞くほど心が和んだ。彼は他の誰にも見せない顔を自分に見せてくれている気がするのだ。


 熊谷蒼という男はお日様だ。





― 第二曲 了 —

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