第14話 嘆きのマリア
「昔はね。長期入院なんてざらだったんだけど。もうそういうご時世でもない。今は退院支援を積極的に推し進めていてね。
——私たちは。
熊谷家には栄一郎の連れ子である息子が二人いる。再婚した際、必然的に蒼には兄と弟が一人ずつできた。
兄の
弟の
「蒼はどう思う?」
「え?」
「実はね。この前、帰ってきて欲しかったのはこの件を相談したかったんだ。大事なことでしょう? 蒼に相談もしないでってわけにいかないし」
「……父さん」
蒼がそう呼ぶと、彼は嬉しそうに目を細める。
「ああ、まだそう呼んでくれるんだね」
「……嫌いとかじゃないんです。育ててもらった恩はあります。だけど——あの家にいるのが辛いんです」
こんな話、彼にしたことはない。先日から本当に自分が自分じゃないみたいでおかしいと思っている。そう。あの男に様々なことをぶちまけてしまってからというもの、歯車が狂ったみたいにおかしいのだ。
——居心地が悪い。
「それはそうだよね。
——そんな話、聞いたこともない。いや。聞こうとしていなかったのではないか?
「蒼は海が好きかい?」
栄一郎の問いに蒼は小さく頷いた。
「それは、もちろん好きですよ。でも、きっと母さんはおれなんか嫌いです。おれのせいでこんなことになって……」
蒼は栄一郎を見られない。俯いたままぼそっとつぶやく。
「おれなんて、あの時。死んでしまえばよかったのに……」
こんな卑屈な言葉はなんの意味もなさない。他人の関心を引きたくてしょうがない駄々っ子と一緒ではないか。自責の念に駆られるが、栄一郎は立ち止まってから蒼の顔を覗き込んだ。
「蒼。君はあの時の事、どのくらい覚えているのだろうか?」
「あの時……」
海が心中事件を起こした時のことか。
「赤い血と母に腕を掴まれたことしか覚えていません」
「だろうね。あの時、海は衝動的にしでかしたことの大きさに
あの時、母親が蒼に向かって伸ばした手の意味はそれだったのかと今更ながら知る。
あの時のことを栄一郎と話すのは初めてだったのだ。あれは、蒼もそうだが栄一郎にとっても軽々し口にする話ではない。
誰しもが海の話題はタブーのように扱ってきたのだ。だから、今日こうして初めて知ることに動揺が隠せなかった。
——なぜ、もっと早くこの人と話そうとしなかったのだろうか?
今更遅いことではあるが、今からでも遅くないという気持ちもある。今だからこそ受け止められることもあるのだから。
「蒼。海を許してやってほしい。彼女は彼女なりにここでずっと君のことを思い続けてきたんだよ。そんなのは知ったことではないかもしれないけど、僕はそれをずっと見てきたんだ。だから、蒼。どうか……その」
彼は蒼が彼女に対して叱責でもすると思っているのだろうか?
蒼は栄一郎を見上げた。彼も随分と歳を重ねた。自分もそうだ。そして、母親もだ。
もうみんな、あの時のままではないのだ。前に進まなくてはいけないのだ。
関口に押された背中。いつまでも過去から目を背けていじけてばかりいる自分ではない。
「父さん、大丈夫です」
「蒼……」
うんと頷いて見せると、栄一郎はふと緊張したような表情を緩めた。それから目尻に皺を寄せてから歩き出した。
ふと急に視界が明るくなって、蒼は目を瞑る。一瞬の間を置き、目を開くとそこは窓に面した広い空間だ。食堂なのだろうか。複数名の女性たちが、各々のことに取り組んでいる。
夢中になって鉛筆でノートに書き込みをしている女性。看護師とトランプ遊びをしている女性。食堂内を往復している女性。
腰を曲げたり腕を伸ばしたりと運動をしている女性を叱りつけている看護師もいる。なぜ運動をすると怒られるのか蒼には理解できないが、栄一郎が小さく解説した。
「摂食障害の人はああやって痩せようとするんだよね。だから運動禁止」
そんなことがあるのかと目を見張っていると、ふと窓際で文庫本を読んでいた女性が目に入った。
肩下までの黒髪には少し白髪が混じっている。長い睫毛が光に反射してきらきらして見えた。薄手の生成り色のシャツに紺色のカーディガン。入院患者たちは、病衣ではなく私服に近いラフな格好をしていたが、彼女は他の誰よりも普通に見えた。
栄一郎とそこに立ちつくしていると、彼女が顔を上げる。そして、軽く白い手を上げた。
「栄一郎さん——」
彼の名を呼び掛けた女性は、蒼を見つけて瞳を見開いた。その目は蒼の
「あ——あお? 蒼なの?」
——ああ、母さんだ。母さんだ。母さんだ。母さんだ。
心の中で何度も繰り返す名は口から出てこない。なにかで蓋をされたみたいに、声が詰まるのだ。
しかし、彼女のほうが早い。文庫本を床に落としたかと思うと、蒼の目の前に歩み寄った。
彼女は細い指先を蒼に向かって差し伸べる。一瞬、あの時の事を思い出し、蒼の体が強張った。その反応に気が付いたのか、海は戸惑ったように手を止めたが、意を決したように頷くと再びその手を伸ばして彼をぎゅっと抱きしめたのだ。
「ああ、蒼なのね。嬉しい。嬉しいわ」
震える両手を、戸惑いながら彼女の背中に回す。
——温かい。母さんの匂い。
「母さん」
「蒼」
この湧き上がって来る思いがなんなのか見当もつかない。だけど、きっとそれは言いようのない歓喜の気持ちに違いなかった。
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