第6話 音楽を愛する心


 演奏を終えた桜は、楽器を抱えてカウンターに戻った。


「こんなん弾けたって、なんの意味もなさないんだ。音楽なんてこんなもんさ」


「いや。桜ねえさんはの腕があるからそんなことが言えるんだよ」


「あのねえ。なに聴いてんだよ。バカ?」


 彼女は楽器をしまってから呆れたように星野を見た。


「音楽やっている奴が羨ましいなんてどうでもいいことさ。立場が違うだろう? 私は演奏家だけど、もうその立場は捨てたんだよ。今はこの店を守るのが仕事だ。そして、若い演奏家を見守るだけの隠居生活だ。あんたの立場は演奏家か? 事務屋か? なんなんだ?」


「おれは……」


 ——おれの立場は……。


 唐突に隣から野木が声を上げた。


「おれは評論家だぜ。演奏のセンスはねえがな。耳だけは肥えてるぜ。おれがいいと思った奴は大概プロになっているんだからよ」


 ——ああ、そうか。


 桜はあおを見る。


「この子は観客向きだよ。感受性豊かそうだ。あんた、クラシックなんて馴染んでないんだろう?」


「は、はい!」


 蒼は慌てて返答した。


「初めて聞いた曲でここまで泣けるんだ。なかなかいいハート持ってんじゃん」


 褒められたのが恥ずかしいのか、蒼は目元を拭いながらおろおろと星野を見た。


「あんたはどうなのよ?」


 最後に星野を見た桜の瞳は優しい。


 ——もうわかっているんだろう?


 彼女はそんな瞳の色をしていた。


「おれは——。おれは音楽ヲタクだ。おれの知らない曲はほとんどない。合唱、管弦楽、室内楽、ピアノ、パイプオルガン、声楽曲、吹奏楽……なんでもヲタクだ。それから、星音堂せいおんどうのことなら、隅から隅まで知っている。あのホールの活かし方だったらおれは誰にも負けねえ。筋金入りの星音堂事務屋ヲタクだからよ」


 ——そして。


「音楽を愛する気持ちってーのも、悪いけど誰にも負けないぜ。黒川にだってよ——」


 星野の瞳がきらりと輝く。吹っ切れた気がした。


 ——なに気後れしてんだ。このクソ野郎。おれらしくもない。おれは



***



「素敵なお店ですね」


 帰り道。星野は蒼と連れ立って歩いていた。あれから、桜や野木と音楽の話で花が咲いた。音楽に詳しくない蒼には申し訳がないと思いつつも、彼も笑顔で参加していたのでよしとした。


「退屈だったんじゃねーか。悪いな。付き合わせて」


「いいえ。すっごく楽しかったです。星野さん、あの桜さんって人は只者ではないですよね?」


 蒼の質問は最もだ。自分も最初に浮かんだ疑問だからだ。


「桜姐さんはすげえ演奏家だ。元だけどな」


 そうだ。彼女は一昔前に世間を騒がせた新進気鋭のヴァイオリニスト。かの有名なチャイコフスキーコンクルーで一位を取った女だ。


 日本中が彼女の快挙に夢を見た。なのに——彼女はその後すぐに世間から姿を消したのだった。


「姐さんにはいろいろな過去がある。彼女は彼女なりにやりたいことができなくていたんだ。おれは浅はかだ。音楽やっている人間が羨ましいってずっと思っていた。だけど、やっている奴らには奴らの悩みがあるんだよ」


 ——黒川や菱沼先生もそうだ。


「黒川だって悪い奴じゃねえ。あいつはあいつの信念を貫こうとしているんだ。菱沼先生もそうだ。あれは音楽家同士の譲れない話だったんだ。なのに、おれは安易に口出しをしちまった。だから悪いのはおれだ。星音堂にいて音楽家の近くにいたから、音楽家きどっていやがったんだ。立場を超えるのはルール違反ってもんだろう?」


 黙り込んでいた蒼は首を横に振った。


「星野さん。でもおれは、そればっかりじゃないと思うんですよ」


「え?」


 蒼はそっと星野に視線を向けた。


「当事者って回りが見えなくなるもんじゃないですか。譲れない者の戦いがあるのかも知れないけど、それで喧嘩別れって悲しくないですか? 星野さんは、むしろ客観的に物事が見れる立場にあるんだと思うんです。だったら、それを伝えるのは星野さんの役割なんじゃないでしょうか」


 蒼の横顔はなんだか妙にすっきりしていて、星野は笑ってしまった。


 ——こんなガキに励まされるなんてよ……。


 星野は蒼の首に腕を回して引き寄せた。


「わわ、星野さん?」


「お前ってよお、本当にいい奴だよな」


「え? 星野さん?」


「——お前ってさ。雨に濡れてしょぼんとしている捨て猫みたいだな」


「えー。それってけなしてますよね?」


「褒めてんだよ」


 星野の態度に満足したのだろうか? 蒼は微笑を浮かべて空を見上げた。


「でも、星野さん。星野さんは、桜さんのことを『桜』って呼んでいましたけど、星野さんよりも年下なんじゃ——」


 蒼が言いたいことはごもっととばかりに星野は笑った。


「だからお前はまだケツが青いって言うんだよ!」


 そして声をひそめる。別に桜がその場にいるわけでもないのだが、これは大きな声で言ってはならないと思うからだ。


「あんな綺麗だけどよ。姐さんはもうすぐ五十だぜ?」


「——えっ!?」


 キョトンとした蒼の顔が面白い。星野はふふふと笑ってから視線を空に向けた。


 夏が近い盆地の夜空は湿度でもんやりとよどんでいる。しかし、どことなしか心はさわやかな風に吹かれているようで、星野は口元に笑みを浮かべていた。









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