第5話 音楽の持つ力
「おいおい。変な想像してんじゃねーぞ。おれは普通なの」
秘密の関係という言葉に反応している
「おれはねえ、桜ちゃん一筋。振られて振られて振られまくりだけどよ」
野木は両手を胸に当てて、乙女ばりの表情を見せた。蒼は思わず吹き出す。もうすっかり野木のテンポに巻き込まれて馴染んでいるようだった。
「悪い悪い。星野ちゃん。——で? どうしたの?」
野木は話が脱線したと気が付いたのか、真面目な顔をして星野を見た。星野は微妙な表情を浮かべつつも今日の市民合唱団のいざこざの件を話した。
「ひどい言われようだな。星野ちゃんにいつも世話になっているくせによお」
野木は心底、不快そうに顔をしかめた。これだ——。星野はなにかをして欲しくてここに来たのではない。ただここの人たちなら、自分が受けた思いを共有してくれるのではないかと思ったからだ。
ここは星野にとったら救いの場でもあるのだ。
「おれもお節介だからさ。出過ぎた真似してたんだろうけど。でも、
「本当にお前は人がいいねえ」
野木は星野を優しい目で見てくる。蒼は状況がわからずにただじっとカクテルを飲んでいた。
「黒川にさ、最後に言われた言葉が辛いんだよな。『音楽の一つもやってないくせに』ってよ」
星野はじーっと水割りの水面を凝視して呟いた。隣にいる蒼はその横顔をじっと見据えていた。
一瞬静かな時間が流れたかと思うと、ふと野木の声がそれを破った。
「やりたくでもできねえ人間がいるのを知らねえんだ」
彼は苦虫を潰したように顔をしかめる。
「おれはよお、いくら楽器の練習しても無理なんだよ。どんなに苦労して練習しても、どれもこれも講師から印籠渡されちまっただろう? もうお手上げだ。だからここで、野次でも飛ばしているしかねえんだし」
——おれもだ。
「ずっと音楽に憧れていた。もう遅いけどな。まったくよ。華々しく見える裏側は汚いよな」
星野と野木はお互いにため息を吐いた。ある意味、音楽に憧れているのに、それが叶わない時点で、二人の悩みは同じと言える。だから気が合うのだろうか——。
しかし黙って聞き入っていた桜が突然、テーブルを叩いた。
「ああ、辛気臭いねえ。男どもは。これだから嫌いだよ」
「桜
「だってよお」
ぐずぐずと言い始める野木と星野を無視して、桜はカウンターの下からヴァイオリンを取り出した。
「どいつもこいつもしけた
彼女はそう言い放ったかと思うと、ヴァイオリンを抱えてピアノのところに立ち、弦の調整を始める。他の客たちは「桜さんの演奏だ」、「嘘だろ。今日はラッキーだぜ」とどよめいた。
「桜」
調整を終えた彼女は、野木と星野を見据える。
「いいかい? あんたたち。よく聞いてな」
桜はそう言ったかと思うと、唐突にバイオリンを奏で始めた。それは、J.Sバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004 第5楽章
星野は息を飲んだ。ヴァイオリニストであれば弾いてみたい、しかしその難易度の高さは、演奏する者を選ぶ楽曲だ。そんな神の領域に位置するその曲を桜はいとも簡単に弾く。彼女は童謡でも弾くかの如くあっさりと弾いて見せるのだ。
隣に座っている蒼も口を開けてぼんやりとそれを聞いていた。
——ああ、おれはやっぱり音楽が好きだ。
バッハの救いを与えてくれるようなメロディ。ニ短調の哀愁漂う旋律は、傷ついた星野の心を救済してくれるようだった。
「桜の演奏はしびれる」
隣の野木の瞳から涙が零れ落ちた。しかし、彼は気が付いていない。いや、この店内にいる客の誰もが、それぞれの思うことを突き付けられて涙する演奏だったのだ。
——そうだ。この曲は腕があれば誰でも弾ける。だけど、桜
星野も目頭が熱くなった。
「だからやめらんねえんだよ。——音楽はよ」
店内に拍手が巻き起こる。音楽のなんたるかを知らない、音楽が好きかどうかも知らない蒼も涙を浮かべて拍手をしていた。
——おれもこうしたかったんだ。音楽で人を感動させたい。人の心を動かしたかったんだ。
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