第1話 初め式ではじまります。
「えっと……、ハンカチでしょう? ティッシュに……お弁当」
鞄の中身をごそごそと漁ってみても意味のないことはわかっているのだ。こんなのは気休めだ。緊張しているのを押し隠すように誤魔化しているということは自分がよくわかっていた。
時計の針は七時半を指す。もうギリギリタイムアウト。いつもは自転車で出勤する予定だが、今日は特別歩いて行く予定だ。時間的に間に合わなくなりそうだった。
「行かなくちゃ……!」
バタバタと小さい部屋から出て、キッチン、バスルームの前を通過し、玄関を開ける。着慣れていないリクルートスーツに手間取りながら、外付けの古い階段を駆け下りた。
四月一日。
本日は晴天成り——。
***
「若人よ、歓迎する!」
そんなに大きくはないけれど、バリトンの心地の良い声が聞こえた。声の主を見定めようと少し首を左右に振ってみるものの、どう頑張っても無理だということを理解して諦めた。
——どうして、こう気難しいおじさんの話って長くて退屈なんだろう……。
周囲の人間たちは皆リクルートスーツに身を包んでいた。そっと周囲の様子を伺う、どの人も真面目な表情で市長の挨拶を聞いている。
きょろきょろとして周囲を伺っている人間なんて一人もいないようだ。なんだか自分ひとりだけが、落ちこぼれみたいな気持ちになった。そのおかげで姿勢も猫背になって自然と視線を床に落とす。
昔から自分は人よりも劣っていると自覚している。自分だって試験を通過して採用されたのだから、自信を持っていいはずなのに。どうしてもみんなよりも劣っていると思ってしまう。
だが今回ばかりは、自分ひとりの思い込みではないと自覚している。その理由は……自分の配属先だ。配属先の通知を見て、さすがに困惑した。そしてそれは今現在も続いている。
——なんで市役所に就職したのに、市役所で働けないんだろう?
自分たちの組織の頂点にいる市長の話である。一言一句洩らさずに聞き取らなくてはいけないと自分に言いきかせればきかせるほど、意識がぼんやりとしてきて、なんだか眠くなってきた。
朝から……いや昨晩から緊張していたせいだろう。そう寝付けなかったわけでもないが、「よく寝た」というほど睡眠がとれていなかったようだ。
まだ時計の針は午前中の九時を回ったばかりだというのに、緊張が緩んだおかげで睡魔が襲ってくる。
——ダメ、耐えろ。登庁初日から居眠りだなんて、絶対にダメだ。
こうなってくると、自分との闘いだ。朦朧としかけた時、ふいに大きく市長の声が耳を突いたので、はっと意識が引き戻された。
「最後にもう一度伝えます。みなさんは、この
終わりの雰囲気に心がほっとした。
——そうだ。今日からこの梅沢市役所の職員としての人生が始まる。
どんな形であれ、それは事実であった。
初め式を終えると、人事課の担当職員のアナウンスが響いた。
『それでは、それぞれ担当部署に行ってもらいます。各部署の課長級の方たちがお見えになっておりますので、自分の部署の課長について速やかに移動をお願いいたします』
自分の部署の課長と言われても……と思いながら、辺りを見渡す。課長たちは、新入職員がわかりやすいように、『人事課』『長寿福祉課』『市民税課』など、マジックで書かれた紙を持っていた。
次から次へと自分の課長を見つけて、安堵の表情を浮かべている同期たちを横目に、自分の配属先が見つからずに不安になってきた。
遊園地で迷子になった気分だ。
おろおろと視線を彷徨わせていると、ふと肩にかかる手のぬくもりに顔を上げた。そこには、丸眼鏡の優しい笑みを浮かべた男が立っていた。
「
「え! は、……はいっ!」
彼は蒼よりも長身で、スマートな男性だ。年のころは四十台後半だろうか? 紺色のスーツに、おしゃれな桃色のネクタイ。気品のある人だった。
「よろしく。僕はね、
「よろしくお願いいたします」
蒼はぺこっと頭を思い切り下げる。水野谷はにこにことしたまま、「どれ、行こうか」と軽く呟いてから歩き出した。
——この人が上司。なんだかいい人そう。
緊張している気持ちを緩めることはできないが、少しホッとした。人混みの間を縫って歩いていく水野谷の背中を見失わないように、蒼は必死になって着いていった。
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