第8話
前世では何人も見てきた。君主として、何人もの部下や敵が、そういう感情を持ったのを見たのだ。
姉さん――
姉さんは一頻り涙を流した後で、ようやく身体を除けてくれた。あんまり重くもなかったし、痛みもなかったのだけど。少しばかり、
大体にして、こんな包帯とギプスで拘束された弟にのっかかろうなんて、姉さんもだいぶん精神的に参っていたのだろう。
だから、いまのこの状態も、理解できないわけでない。
「――――、――――、――――、」
姉さんは、完全に表情を失って、でも顔を真っ青にして。静かな病室なのに聞き取れないくらいに小さい声で、何事かを呟いていた。
【ごめんなさい】と。姉さんはずーっと繰り返し呟いていた。日本人らしい薄い唇を懸命に動かして。彼女は延々と謝罪の言葉を口にしていた。
唇は水分を失い、見る間にして荒れていく。僅かずつ乾燥した皮膚が捲れあがる。姉さんはそれを気に留めない。ひたすらに、謝罪の言葉を、とても小さな声で述べるだけだった。
紛れもない絶望という感情。
己の心に穴を掘り、そこに心の全部を押し込んで。入りきらないから、どんどんと深みに嵌まっていく。心の穴は段々に深くなる。周囲の声や光が届かない、とても深い場所まで、掘り進められていく。
その穴に潜り込んだ人間は、そう易々と出てこれない。
よほど強い感情がない限りは、永遠に脱出できない。
絶望は絶望を呼び寄せる。なにせもう、ひとり分が通れる穴は空いているのだ。
ひとりの絶望は、また誰かの絶望を生む。この場合はおそらく――父さんか母さんか。身近な人間を、巻き込んでいくのだろう。周りの親しい人間までも不幸にして、絶望の穴に進ませる――それは
下手を打てば、姉さんは絶望の穴の道の向こう側まで行き着く。ちょうどかつての
絶望の穴の先にあるのは――自害である。己の命を自主的に諦める手段だ。
もしくは。さらに弱い人間は、自分で自分の結末を迎えさせることもできないから――ちょうど暴発する鉄砲玉のように、突飛な行動に出る。世間でごくたまに騒がれる、連続殺人だの通り魔だの銃乱射事件だのの犯人は、おそらくは絶望を
そして自殺志願者の通った深い穴に、また続々と、絶望にうちひしがれた人間が入っていくのだ。
さて。ここで困ったことになった。
見返してやろうと思っていた存在が、いざ見返してやりたい瞬間に、この世にいない――そんなのは容認できない。
姉さんはそこまで弱い人間だと思っていなかった。
おそらくは、
だから、神経が衰弱していたから、易々と
なんだか、可哀想になってしまった。
「――なーんて、ね」
つい
「えっ?」
「冗談――ではないけどさ。姉さん、
まあ、嘘だけれども。嫌いになってもらった方が、今後の
ただ、それと姉さんの将来や命なんかを量りにかけたときに、どちらが重いのか。そりゃもちろん姉さんだ。
自分でも甘いとは思う。けど、人間どうしたって、【嫌い】と言われるよりは【好き】と言ってもらった方が嬉しいに決まっている。
――元々の前世での皇帝ぶりが嘘のような、あまっちょろい考えだ。どうやら
「許して――くれる、の?」
ずっと謝罪の言葉を小さく口にしていた姉さんは、一筋の
もうすっかり涙も枯渇していて、真っ赤に腫れた瞳が酷く痛々しい。
「見返してやりたい気持ちは変わらない。それに、勘違いしてもらっちゃ困るけど、全部が全部冗談というわけでもない。
――本当に、心の底から、さっきみたいなことを考えて、姉さんに言っていたとしたら? 姉さんは反論できなかったでしょ?
姉さんの考える最悪の結末も有り得た、とだけは認識して欲しい」
そんな姉さんに、
一瞬明るくなった表情を、すぐにまた曇らせて、姉さんは俯いた。
「姉さんがなにを思って
「それは、分かっている、わ。反省してる、してます。ごめんなさい――」
姉さんは顔を下に向けたまま、両の掌をぎゅっと握っていた。
「じゃあ、今回はこれで終わり。嫌いになれ、なんて言わないよ。姉さんは、しっかり者で、
「――ありがとう、雅美」
姉さんはそれだけ言った。
すっかり涸れた涙の水源は、まだ復活していないらしい。
うん、とりあえずはこれでいい。甘すぎるかもしれないけど、今は満足していよう。
「さあ、もう泣くのはおよしよ。いまから
これは恩赦か。あるいは
そうしたら。今度こそ、姉さんは落涙した。
「ねえ、雅美」
「なに?」
「ひとつだけ、どうしても言わなきゃいけないんだけど。聞いてくれる?」
「なんだい」
「文句というか、苦情よ」
「――聞くよ、もちろん。姉弟なんだから。間違いがあればお互いに正すのは当然だ」
「『薄っぺらい身体』とは大変な侮辱よ。さすがに聞き逃せない。あんたなんて――
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