第7話


「姉さんの気持ちは、受け入れられない」


 唇に残る柔らかい感触がまだ残っているうちに、ぼくは口を開いた。


「――うん、解ってる。わたしはあなたに嫌われてしょうがないことをしてきたんだから――でも良いの。わたしは、もう自分の気持ちに背を向けない。あなたを心から愛する人間が、ここにいるとだけ、知っておいて欲しかっただけなの」


 姉さんはすっかり涙を止めて、お互いの鼻と鼻がくっつきそうな距離で答える。

 真っ直ぐな視線は、確かに、偽りのない彼女の気持ちを表しているのだろう。

 それでもなお、ぼくは言わなければならない。


「それじゃいけない。姉さんは、ぼくを嫌っていてくれなきゃだめだ」

「――え?」

「弱いぼくは自殺をしようとした。でも死にきれなかった。ぼくはたぶん、ぼくを信じてくれなかった、嫌ってきたみんなを、見返してやりたいと思って、死ねなかったんだ」


 ぎりっと唇を噛み、言う。

 相変わらず姉さんはぼくのベッドの上にあったけど、段々と、ふたりの身体は離れていった。


「姉さん。【愛している】だなんて言わないで。ぼくは嫌われていなければいけない――そうでないと、死のうとして死にきれなかったぼく・・が浮かばれない。見返してやろうと息を吹き返した意味がない」

「雅美、あんた、なにを言って――」

「姉さん。解ってくれないの? はっきり言うけど――【愛している】なんて言われても、もう遅い・・・・んだ」




 ~海美視点~


 キスをした後、雅美まさよしはしばらく呆気に取られたような顔をしていた。

 それは仕方がない。わたしだって少し前なら、弟相手にこんなこと・・・・・できると思っていなかったから。彼にとっては、わたし以上に、予想外の出来事だったのだと思う。

 

 ――ほんの少しの沈黙の後で聞かれたのは、『受け入れられない』という拒絶の言葉だった。


 そういう返事は理解できた。予想していた。いままで散々に嫌ってきた相手が、突然に掌を返して愛の告白? 受け入れられるわけがない。

 しかも相手はわたしだ。姉弟きようだいで、家族愛以上の感情を持つなんて――気味悪がられて、嫌悪されて、拒絶されても仕方がなかった。

 けれどもわたしは構わない。自分の気持ちに正直になると決めたから。雅美を愛する人間が、この世界には、必ず、常にひとりはいるという事実を知っておいて欲しかっただけだから。


 だから。雅美の言う【嫌っていてくれなきゃだめだ】という言葉は、どんな拒絶よりもダメージがあった。


「嫌われていると思って、ぼくは自殺までした。それを、なに? 実は好きだったって? じゃあ、ぼくは死ぬ必要がなかったじゃないか。

 見返してやると決意して助かったのに、愛していた? じゃあ、ぼくは息を吹き返さなくても良かったじゃないか」


 なんて曲解。わたしはそう思った。

 違う、わたしが伝えたかったのはそういうことじゃない。

 でも、話を遮る前に、雅美はどんどんと続けていく。

 無表情で、淡々と。

 わたしは煮立つような思考の端で、少しばかり考えた。

 ――いまや雅美は裁判官で。わたしはさながら被告人である、と。


「もちろん死のうと思った原因の全ては姉さんじゃない。それはぼくだって解ってる。見返してやろうと思ったけど、それも姉さんにだけじゃない。ぼくを取り巻いてきた全員を、見返してやりたかった。

 でもさ――姉さんの気持ちは、もしそれが本当なら、ぼくの生き甲斐のひとつを、奪うことになるんじゃない」



「だから、姉さん――ぼくを嫌いになってよ。ぼくの生き甲斐を奪わないで。別に難しいことじゃないでしょ? いままで通りなんだから」



 わたしは雅美の言葉はんけつを聞いて、泣いた。

 判決は愛する人を嫌うこと。刑期は無期。

 自分の気持ちに素直に向き合うと決意して。生涯を通して弟と共にある。と決意したばかりのわたしには、これ以上ないほどのむごたらしい判決に思えた。


「――無理なら、ぼくは家を出る。すぐには難しいかもしれないけど、アルバイトでもして、お金を貯めて、きっと家を出ていく。姉さんとの関係はそれでおしまい。姉さんは、いつかどこかで、ぼくが立派になった姿を見てね」


「――そんなの、そんなの――嫌われても仕方ないと思っていたけど――わたしが嫌いになれるわけ、ないじゃないの――」


 もう随分前から、身体の水分の全部を、涙として排出してしまったのではないかと思っていた。でも、まだまだ涙は流れてくる。

 

「――わたしッ、わたしは! なんでもする! なんでもしますから! いくらでも謝ります! 迷惑なら関わらないようにします! だから、だからッ――」


 どうか、愛する雅美を嫌いになれ、なんて断罪はんけつだけは、許して欲しい。

 わたしは止まらぬ涙に構うこともせず、雅美が動けないのを良いことに、その身体にしがみつく。


「――そうだ。身体でいいならあげるから! 雅美が気の済むまで、好きにして良いから!」

「いらないよ。そんなの、ただ姉さんの自己満足でしょう。大体、そんな薄っぺらい身体を、ぼくにどうしろっていうのさ」


 わたしの決意は、そのことごとくが眼鏡にかなわなかった。無理もない。次に出たわたしの持ち札が身体だなんて。浅ましいことこの上なかった。


「――もう気が済んだ?」


 遂に言葉すら出せなくなったわたしが訊くのは、無慈悲な声だった。もう申し開きは終わったのか、なんて言いたそうな、かつての弟と同一人物とは思えない、冷たい声だった。


「――わたしは、もう自分の気持ちに嘘をつかないって。雅美を想う気持ちに目を背けない、て決めたのにッ――それすらさせてくれないなんて。そんなの、むごすぎるよう!」

「それは、ぼくが自分から死ぬと。死ぬしかないと思った現実より、惨いものなの、姉さん?」


 雅美の言葉が胸に突き刺さる。

 最早わたしは、涙すら枯れ果てて、ひたすらに汚い慟哭の声をあげるしかなかった。いまのこの心理状態では、反論すらできなかった。


 結局のところ。

 雅美に贖罪として捧げられるものは、もうわたしにほとんど残っていなかった。

 心も身体も拒否されたわたしは、本当になにもなくなったのだ。

 ――ただひとつ、命を除いては。

 

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