第6話


『ほんと、まさよしはわたち・・・がいないとだめね』


『また転んで怪我したの? もう四年生でしょ――ほら、泣くんじゃないの』


『これからは、ひとりでお風呂しなさい』


『明日から中学生なんだから! わたしの弟でしょ、みっともないことしないでね』


『あなたが弟だってだけで恥だわ』






『どうしたの、雅美まさよし。そんなところで泣いて――え、違う? 泣いているのはわたし?』


『――待って、雅美。どこに行こうて言うの!』


『ごめん、なんて良いから! ねえ待ってよ、ねえ!』


『――わたしを置いていかないで――!』





 夢だというのは判っていた。

 過去の美しい記憶と、あのとき・・・・の心底悔やむべき記憶が去来し。最後には、雅美がいなくなってしまう。そんな内容だ。


 わたしは一晩で同じ夢を何度も見た。睡魔に負けて、少し微睡んだだけで、脳裡に浮かぶのは雅美の夢。

 目を覚ます度にわたしは全身にぐっしょりと寝汗をかいて、頬を濡らしていた。

 これが夢で良かった? ――いつもなら悪夢から覚めて、ほっとひとつ安心していたのかもしれない。

 でも。今回ばかりは違う。なぜ、悲劇は夢の中で終わらないのだろう。


 悪夢に苛まれて身を起こす度に、それこそ一時間か二時間おきに、わたしは雅美の部屋を訪れた。

 そっと扉を開ける――もしかしたら、本当にそこに雅美は寝ていて。物音を立てて起こしてしまわないか、心配だったから。

 けど、彼の部屋は暗かった。何度見直したって、いつものベッドに雅美の姿はなかった。


 ――とても、悲しかった。


 時刻は午前7時の少し前。

 夜はすっかり明けていた。

 わたしの心情とは裏腹に、雲ひとつない快晴だった。

 憎たらしいくらいに、太陽は輝いて、その顔を窓の向こうから覗かせている。


 ついに眠ることを諦めたわたしは、再び雅美の部屋に入った。

 相変わらずの空のベッドに腰掛ける。

 久しぶりに見る雅美の部屋は、綺麗なものだった。


 昔は活発でやんちゃな性格で、服は脱ぎっぱなし、鞄はだらしなく放り投げられていた。宿題も机の上に広げられたままで、てんで手を付けられていない。おもちゃやゲームも散らかされていて、よく叱りつけたものだ。

 それが、いまでは綺麗に整頓されていた。

 教科書や参考書は本棚にしっかりと入れられ。服は畳まれて箪笥にあり。鞄は机の脇に掛けられている。

 おもちゃやゲームは、ひとつも見られなかった。

 中学1年までは秘かに隠し持っていたえっちい本も、当時の隠し場所にはなかった。

 よくよく整頓された部屋。まるで、すぐにいなくなっても困らないように配慮されたようだった。


 わたしは何の気なしに、ベッドから腰を上げ、机の抽斗ひきだしを開ける。そこに、なにか彼の思い出があるかもしれないと思って。


 果たして、机の一番右上の抽斗には一枚の写真が入っていた。

 裏返しにしまってあったそれを、ひっくり返して見てみる。

 そこに写っていたのは、わたしたち家族と、赤城あかぎれいの姿だった。

 確か、わたしが中学2年のときに行った、家族旅行の写真。まだ仲の良かった頃の澪を誘って、一緒に温泉に行ったのだ。

 みんな笑顔で、楽しそうに、写真を撮影するカメラに向かって、ピースしている。

 ――これはたぶん。雅美が最後に経験した、美しい記憶なのだろう。


「ごめんなさい、まさよしッ――」


 わたしはその写真を胸に抱いた。

 誰も聴いていないのに、口からは勝手に謝罪の言葉が出た。

 もしかしたら雅美は、この写真のときのように、いつか皆が仲良くなることを願っていたのではないか。

 そう思うと、勝手に涙が頬を伝った。酷く寝汗をかいて、寝ながら涙していたというのに。この身体には、まだまだ水分が残されていたようだった。


 この写真のように、皆が集まることなんて、二度とない。

 

 わたしは写真を抱いたまま、それがくしゃくしゃになるのも構わずに、持ち主のいなくなったベッドに倒れ込んだ。


 ――ここで泣いて跡でも付けたら、帰ってきた雅美はなんて言うだろう。どんな文句をわたしに垂れるだろう――


 そんな悲しい想像をして、嗚咽を枕で殺しながら。

 わたしはまたいつしか、浅い微睡みの中に落ちていた。




 ――深く暗い夢の中で、わたしはとりとめのないことを考えていた。


 なぜ、わたしたちは姉弟きようだいとして生まれたのだろう、と。

 1年の違いしかない。別にふたりが1つの命として生まれても、大して違いはなかったのではないか。


 もし、ふたりがひとりだったとしたら。


 わたしたちは、互いに好きとか嫌いとか、変な感情に紛らわされず、平穏な日々を送っていた。


 わたしたちは、楽しいことも辛いことも誤解なく、過ごせていた。


 わたしたちは、高校生になっても、同じ校舎に同じ服を着て、通っていた。


 ――わたしたちは、悲しい別れを経験せずに、済んでいたのに。


 なぜ、わたしたちは姉弟として生まれてしまったのだろう。





 ――遠くで、電話の音が聴こえる。

 微睡みから覚めたわたしは、ぼんやりと時計を見た。

 時刻は9時。朝の時間に、携帯でなく家電に掛けてくるとは、今日日珍しい。

 まあ、ろくな用事でないだろう。

 家に直接掛かってくる電話なんて、ほとんどが迷惑電話だ。間違いか、営業か、そんな内容。

 だから我が家では、電話を設置しているものの、留守電機能は設定していない。いちいち確認するのも面倒だから。

 そのうち、相手も諦めて電話を切るだろう。もしかしたら、その前に両親が取るだろう。

 わたしは眠気の中で、ぼう、とそんなことを考えていた。

 

 なかなか、電話のコール音は止まなかった。

 両親ともに不在なのか。家にいると思っていたけれども。

 両親は、旅行や冠婚葬祭以外では滅多に取らない有給を取った。とてもでないけど、息子が大変な目にあっているのに、おちおち仕事なんてできやしない。上司からの勧めもあって、一週間の休みである。

 新学期の開始早々だったわたしも、もちろん休みだ。勉学など身に入るわけがないから。

 遅めの朝食を摂り、面会の開始時間を待って、家族揃って面会に行く算段だった。


 ――まだ、電話は鳴り止まない。もう3分は鳴っている。随分熱心な勧誘だ。

 両親は本当に不在のようだ。食材の買い出しかもしれない。

 寝不足で胡乱な状態の頭に、電話のコールは煩わしく響く。いい加減鬱陶しい。


 わたしは雅美の部屋を出て、一階の、電話の置いてあるリビングに入る。

 受話器を上げて、すぐに切ってしまおう。そして受話器を上げっぱなしにしておけば、電話を掛けてこれなくなるはず。

 そう考えて、わたしは受話器を持ち上げ、すぐに下ろそうとした――


『もしもし! こちらは松枝労災病院です!』


 すると、小さく、女性の声が聞かれた。

 矢継ぎ早に電話の声は言う。


『佐伯雅美さんのお宅ですか!? もしもし!』


 それまで動きの鈍かった脳は、一気に動き出した。

 相手の声の様子は、ただごとでないように聞こえた。

 わたしは受話器を取った右手が震えるのを感じた。


 ――まさか、雅美になにかあったのか――


 命に別条はないと言っても、彼は自分で身動きひとつ取れない。意識もない。苦しくても声を上げることすらできないのだ。医療事故、なんて言葉もある。

 わたしは震える手をなんとか、動かして。同じく震える口で、話した。


「雅美に、なにかあったんですか――?」


『あ! やっと出てくれた! 佐伯雅美さんのご家族の方でお間違いないでしょうか?』


「はい――教えて下さい。雅美に、なにかあったんです、か?」


 上手く舌が回らない。わたしの脳は、どうしたって最悪の言葉を想像してしまう。せっかく命が助かって、これからわたしは、一生掛けて傍にいると誓ったのに――まさか。


『雅美さん、意識が戻りました!』

「――え?」


 咄嗟に、なにを言われたのか理解できなかった。意識が、戻った?


『いまは医師の診察を受けています。それが終われば、面会して頂けます。雅美さんは、本当に頑張りました!』


 ほとんど反射的に、わたしは家を飛び出していた。携帯電話と財布だけ持って、駅に向かって全力で走り出した。


 雅美が起きた――!


 1分でも1秒でも、早く会いたい。

 冷静に考えれば、両親の帰りを待って、車で向かった方が早いのに。そのときのわたしは、居ても立ってもいられなかった。

 パジャマ姿のままで駅まで行き。ちょうどタイミングよく到着した電車に乗る。周囲の人びとがどんな顔をしようが、知ったことではない。雅美に会えることを思えば、そんなの些細なことに違いなかった。


 でも、と。

 途中でわたしは、ふと思い当たる。


 ――雅美は、わたしと会ってくれるだろうか?

 ――そもそも、わたしを姉の海美うみと認識してくれるのか?


 電話の主は、『意識が戻った』としか言っていない。どんな状態かまでは教えてくれなかった。

 いや、もしかしたら、あのまま会話をしていれば教えてくれたかもしれないが。

 こちらから電話を掛けて訊いてみるか?

 ――なんだか恐ろしくて、できなかった。

 もし植物状態の雅美がいたら。なんて思うと、身体の震えが止まらなくなった。

 もしわたしが来たと聞いて、面会を断られたら。そう考えると、涙が出てきた。


 人目も憚らず、到着の間までずっと泣いていた。

 何人かの親切そうなひとが声を掛けてくれた。

 わたしは首だけ振って、なんでもない、とアピールした。



 やがて電車は目的地に着く。

 すぐにタクシーを拾って病院に向かった。

 タクシーの運転手は終止怪訝な顔でいたけれど、特に事情を訊いてきたりはしなかった。


 すぐに、5分ほどで目的地に着いた。わたしは多目の料金をチップとして支払った。

タクシーの運転手は、こちらの色々を全く知らないくせに、『がんばりな』と言った。


 病院に入ってもなお、わたしはどんな顔をして雅美に会えば良いのか判らなかった。そもそも彼は、意識はあれど記憶はあるのか。受け答えができるのか。わたしをわたしと認識してくれるのか――わたしを受け入れてくれるのか。

 心配でならなかった。

 受付に行くと、係員はこちらを見て、一瞬驚いた顔をした。我ながらにして思う。1分1秒が惜しかったといえ、ちゃんと着替えてくるべきだった。


 すぐに病室に促される。どうやら診察は一通り終わっていたようだ。

 501号室が、嫌に遠く感じた。結局のところ、どんな顔をして会うのか、結論なんて出やしない。

 もう出たとこ勝負だ。たとえ雅美が全てをうしなっていても。全てを覚えていても。

 わたしはこれ以上、自分の気持ちに蓋をして、想いを伝えられないままに後悔したくなかった。

 わたしは生涯を通じて、雅美と共にありたい――そういう願いだけは、真実だった。





「――姉さん? えっと、父さんと母さんは?」


 思わず手に力が入り、勢いよく開けてしまった扉の向こうには。いつもとなんにも変わらないような顔色をした弟があった。


「あんた、無事、なの?」


 目を覚ました、とは聞いていたけれども。植物状態ではないかとある程度の覚悟はしていたのだ。

 それが、目の前にいるのは普段の雅美だ。包帯とギプスでぐるぐる巻きにされているが、そこにいるのは、紛れもなく雅美だった。


「見ての通り、無事ではないけど――ごめんなさい、姉さん」

「――――え?」


 突然に喋り始めた雅美。それは謝罪の言葉から始まった。

 謝るのはこちらの方だ。わたしが、わたしたちが、もっと優しく接していれば。自殺なんて、彼はしなかっただろうから。

 でもさらに雅美は続ける。その表情には、深い悔恨の念があるように思えた。手足の震えが、また止まらなくなった。


「ぼくは死にきれなかった」

「なに、を、言って――」

「生きていたらまた引き籠りになって、また余計な心配をさせて、迷惑かけて。恥をかけると思ったんだ。だから、死のうとした。でも、死ねなかった」

「――――ッ!」

「それでこんな・・・になって、自由に身動きも取れなくなって。また、迷惑になって――姉さんに恥をかけた」


 あのとき・・・・に言ったわたしの一言を。雅美はずーっと覚えていた。わたしの胸は、罪悪感で激しく締め付けられた。

 これ以上、彼に話をさせてはいけない。

 罪悪感に押し潰されてしまいそうな我が身を守るため? それはあったかもしれない。

 けれども、本当にわたしが懸念していたのは――言いながらも、今にも雅美が消えてなくなってしまうのではないかと、そんなとりとめのない感覚だった。


「いまは、死ねば良いと思っているかもしれない。なんで生きているのだろう、て憎んでくれても良い。けど、きっとぼくは――」


 そこまで聞いて、わたしはわたしを制御できなくなった。

 これはきっと、死のうとして死にきれなかった人間の持つ、後悔の念。こうして助かったのに――助かったこと自体が、彼にとり不幸だったのだ。

 そんな悲しい話が、愛する弟の口から話されるのは、耐えられなかった。

 あれこれと思考を巡らせる前に、わたしの身体は飛び出していた。

 『ぼくは――』の後に続く言葉を聞きたくなかった。その言葉は、たぶん悲壮な決意なのだろうと勝手に決め込んだ。最後まで言わせてしまえば、もう後戻りがきかなくなると思った。

 これ以上、わたしはわたしの想いに蓋をして。心にもないことを吐いて。雅美を喪うわけにはいかなかった。


「――愛しているわ、雅美――死ぬなんて、言わないで」


 嘘偽りのない、本当の本音を、わたしは告白した。

 そして、雅美が怪我で身動き取れないのを良いことに。わたしは雅美の唇に口付けをした。

 


 わたしの初めてのキスの相手は弟の雅美で――

 そのキスは――雅美らしく、優しく甘い、ココアの味がした。

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