第3話
わたしは
弟――雅美は、わたしにとって可愛い弟だった。
わたしの成長期が早かったのはあるし、弟の成長が遅いのはある。わたしが高校2年に、弟が高校入学する現在でも、頭半分程度には、まだ身長はこちらが高かった。
だから、可愛かった。
わたしが中学に上がるまではお互いに夜遅くまで遊んだり、一緒にお風呂に入ったり。そりゃあもう、いつでも一緒にあった。
弟はわたしを姉として慕ってくれた。
なにかあれば、
『お姉ちゃーん!』
なんて
わたしは姉らしく、弟の悩みごとや困りごとに耳を傾け、ときには助言をして。
その度に弟は感謝し、可愛らしい笑顔で、
『ありがとう』
なんて言ってくれた。
わたしは、嬉しくて仕方なかった。
ただ。
わたしが中学に入って少ししたくらい。
わたしの心にある変化があった。
いまでこそ客観的に見て、冷静にその状態に向き合えるけれども。
その当時のその状態のわたしは、反抗期にあった。
父親に反抗した。母にも反抗した。
思春期特有の感情だったと思う。いまではすっかり心の整理がついて、なんであのときに、あんな風だったのか。反省しきりである。
もちろん、弟にも――年下に『反抗』というのもおかしいけれども――辛く当たった。
両親に対する反抗期を迎えても、しばらくは、弟に対してだけは、それまで通りに接していたと思う。
それは弟が可愛いかったから。
大人たちにあれこれ言われても、弟だけはわたしを解ってくれて、こちらの言うことも素直に聞いてくれる。
可愛かった。愛しかった。血の繋がった実の弟が、好きで好きでたまらなかった。
でも。
どんなきっかけがあったのかは判然としないけれども。
あるときに、わたしは気付いてしまった。いや、本当はとっくに気付いていた。
弟とは、結婚できない、と。
わたしたちは、たとえどんなに想い合ったとしても、結ばれることはないのだ、と。
『お姉ちゃん。一緒にお風呂入ってくれないの?』
『ひとりでも入れるでしょ――これからは、ひとりでお風呂しなさい』
わたしが中学1年。弟が小学6年のときだ。
そもそもにして、そんな歳まで一緒に入浴するのは異常に違いない。
わたしは世間一般の認識を盾にして、弟に告げた。
彼はすごく残念そうな表情をしていた。
心がずきり、と痛んだ。
でも、これが当然。あるべき
その日の入浴時に、わたしは泣いた。
弟とは結ばれることがないんだと、嘆いた。
嘆きの涙は、すべてシャワーで洗い流した。
弟への愛情を落とすかのように、いつもより念入りに身体を洗った。
――結局のところ、
だから、わたしは精一杯、彼に嫌われようと思った。
残念ながら、わたしが彼を嫌うなんてことは、できなかったから。弟よりも素敵な男性を好きになって、弟への愛情を忘れようと思った。
無理して年上の先輩と付き合おうとした。
上手くいかなかった。
同年代でも、だめだった。
わたしの愛情は、どうやら生半可なものでなかった。
ただ、幸いにして弟には相手がいた。
このまま二人が上手くいけば、きっと結婚をするのだろう。
いまは嫌われても構わない。それが、たぶん、普通なのだから。
二人の結婚式で、弟に、笑顔で『おめでとう』と言えれば。わたしはそれで良かった。良い、と思い込むことにした。
そうしたら。
わたしが中学3年のとき、事件は起こった。
弟が傷害だの暴行だのするはずがない、というのは、よく考えなくとも判ったはずだ。
もちろんわたしは信じていた。
けれども、一番に仲の良かった幼馴染の赤城澪は、弟の言い訳を信じなかった。
一番の理解者であるはずの、わたしたちの両親でさえ、息子を責めて詰った。
それから弟は学校で虐めを受けた。
毎日
ある日――今にして思えば、あの日あのときが、わたしたちの
『あんたが弟だってだけで恥だわ』
優しい言葉を掛けられなかった。
弟が、わたしに依存することがあってはならないから。
だから、胸が張り裂けそうな想いを押さえつけて、酷いことを口走った。
弟はそれ以来、ほとんどわたしと会話することはなくなった。
――弟は不登校になった。
でも。それでも、わたしも両親も、さほど心配していなかったと思う。
なぜなら、弟が努力をしていたのを知っていたからだった。
わたしのお下がりの教科書を使い、昼間は部屋に籠っていたものの、ずっと勉強をしていた。
夜は遅くまで筋トレしていたし。朝は誰よりも早く起きて、外にジョギングをしに出ていた。
時おり見ることのあった顔は、髪はぼさぼさ、無精髭を伸ばして、いかにも引き籠りな感じだったけど。その瞳に宿る意志の力は、きっと同年代の誰よりも強かった。必ずや再起を図ると、弟の顔は雄弁に語っていた。
不登校ではあったけど、それでも受け入れてくれる学校を探し、さらに勉強を重ねて、入試に合格した。
家からは遠かったけれど、弟の再起を決意した気持ちの前には、なんら障害となることはあるまい。
わたしも、嬉しかった。
これで佐伯雅美は、過去を克服して、新たな学校で新たなスタートを切る。
散髪して髭を剃った弟の顔は、わたしには眩しすぎるくらい格好良かった。
――そして入学初日に、弟は自殺しようとした。
最初は事件に巻き込まれたのかもしれない、と言われた。
ビルから落ちて、大怪我をしたそうだ、と。
わたしは学校で呼び出しを受けて、両親が迎えに来て、家から車で一時間の病院に行った。
きっと大丈夫。不運ではあったが、大怪我で済んだのだ。すぐに治して、学校に通えば良い。
そんなわたしたちの楽観視は、集中治療室から出てきた、包帯でぐるぐる巻きの弟の姿を見て、消し飛んだ。
医者は命に別状はないと言った。わたしたちはほっと安心した。しかし――と、医者は続けた。
『今後、意識が戻る可能性は五分です。脳へのダメージが大き過ぎる』
レントゲン? みたいな写真を見せられた。
そこに映る真っ黒な箇所が、出血の様子らしいとは、話を聞いてもすぐに理解できなかった。
だって、ほとんどが真っ黒だったのだから。
『意識が戻っても、今までのような生活は望み薄かもしれません。我々も全力を尽くしますが――』
『いま呼吸をして、脈がある時点で、前例のない奇跡です。息子さんも頑張っています。皆様も、どうか希望を捨てずに、息子さんを支えてあげて下さい』
医者の話の後には、待ち構えていたように、私服姿の警察官がいた。
ビルから人が落下するなんて、そうそう自然に起きては堪らない。事故や事件を考慮して、捜査をしているとの旨を伝えられた。
そしてもちろん、自殺の可能性が高いと、暗に仄めかされた。
ビルの防犯カメラの映像は見せられなかったが、既に警察は確認しているはずだ。
だから、ある程度の確信を持っていて。『なにか悩みがありましたか?』なんて訊くのである。
その質問の意味を理解したとき――わたしはその場に崩れ落ちた。
涙が勝手に溢れてきて、口を出るのは嗚咽ばかり。
父に至っては、病院の床に額を擦り付けて、すまない、と繰り返し言っていた。
警察官は『大変なときにすいませんでした。落ち着きましたら、捜査にご協力下さい』なんて言って、その場を後にした。
残されたのは、雅美という肉親を、永遠に失ったわたしたち佐伯家だけだった。
病院での話はまだ続く。
すっかり泣き疲れて、流す涙が枯れ果てたわたしたちが弟の病室にいると、来客があった。こんこん、と。病室の扉を叩く音がした。
誰であろう? 医師か看護師か。
親戚は近くに住んでいなかったし、弟を見舞いに来る人物にも心当たりはなかった。
わたしが扉を開けると、そこには――
彼女はこちらが嫉妬するくらいに美しく成長していた。
可愛らしかった幼い顔形は、凛とした大人びたものになっている。まっすぐな黒髪は、艶のある薄い茶に染められていた。目立たない程度に、でも彼女の魅力を引き出す程度に施された化粧は、きっと男受けは良いのだろう。
体つきも女性ぽく、出るところはきちんと出て、締まるところは締まっている。
アイドルみたいに美しくなった赤城澪が、弟の病室の前に立っていた。
『お見舞いに来ました』
赤城澪は短く用件を伝える。そして小さな赤色の薔薇の花束を出して、
それからわたしは、赤城澪に対して、何事かを叫んだ。喚き散らした。
なんと言ったのかなんて覚えていない。でもきっと、弟を救えなかった自分のことなど棚に上げて、悪者はお前だと責め立てたのだと思う。
赤城澪はこちらの剣幕に驚いた様子だった。けれど、弟の自殺未遂と、全身に怪我を負ったというのを察知したところで。表情を真っ青にしていた。形の良い唇を
すぐに帰らせようとした。
でも、花束だけは置いていきたい、と言っていた。花束には『赤城澪』と送り主の名前が入っていた。
そんなもの、弟に渡そうとしているのか?
わたしは激昂して、病院の中だというのも完全に忘れて、ほとんど半狂乱になった。
赤城澪は、今度こそ溢れる涙を我慢しきれなくなって、その場を去っていった。
――後には、脱け殻みたいになったわたしと、差出人の名前のない花束が残された。
わたしはこの上なく後悔した。
どうしてあのとき、雅美の一番大切なときに、優しい言葉を掛けてやれなかったのだろう。
どうして雅美が一番辛いときに、支えになったてやれなかったのだろう。
『――でも、これからはずっと一緒にいるよ、雅美』
後悔の念は、ひとつの決意を生んだ。
結婚式で『おめでとう』という言葉は、たぶん掛けられまい。
だったら代わりに。わたしの人生を掛けて、贖罪していこう。弟に許してもらえるまで、死ぬまで、そばにいよう。
両親の見ている前で、唯一ギプスのない左手を握る。そして、そっと手の甲に口付けした。誓いのキスのつもりだった。
すっかり枯れてしまったはずの涙が、また溢れてきた。涙は頬を伝って、弟の手を濡らした。
こうして佐伯海美の、高校2年生の報われぬ恋は終わりを告げた。
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