第4話
目が覚めたのは、6時34分だった。今日は休みだと言うのに、なんでこんな時間に起きるのか、不思議である。しかも目が冴えてるときた。仕方なく体を起こす。
部屋を見渡す。しこりが取れたような、そんなスッキリ感があった。昨夜あったもやもや感は、もうなかった。部屋を出て、リビングに向かう。
明かりがもうついていた。母も父も、休日に起きるのはまだ後のはずだ。ドアを開ける。
「お、葵か。はよー」
なんだ、兄か。
「何でまだいんの?」
「ひどくね?俺も今日休みだしってことで、昨日は泊まったの。帰るのもめんどーだしな」
確かにそうか。
兄との仲は、良くもなく悪くもなく、と言う感じだ。7つも離れていれば、趣味も考え方も、周りの環境も違う。兄は大学生になった時に県外に出て一人暮らしを始めていた。たまに帰ってきては、勉強を教えてもらったり、近況を話してくれたり。私にとって、それは心地よい距離だった。
「昨日のことだけど」
兄は、卵かけご飯に醤油を回しかけながら私に話しかける。私もパンを袋から取り出し、トースターに入れ、つまみを回す。ジジジジジ……
「進路に迷ってるって」
ジジジジジ。
「もうすぐ高三になるんだし、そろそろ決めないと、母さんだって心配するし」
ジジジジジ。
「…………」
何で、踏み込んでくるの。そういう関係じゃなかったじゃん、私たち。
「進路に悩むのはわかるけど」
そういうの、いらないから。
兄が何か言っている。でも、全部聞き流して、全部、全部。
でも、次の言葉は、私の耳が掴んで離さなかった。
「あ、そういや、綾野先輩は元気か?」
「……」
「葵のクラスの担任だよな?」
「元気よ」
強がってみせる。精一杯。
「そうだよな。結婚したばっかだしな」
お腹のあたりがぐるぐるする。次は胸のあたりがギュッとなる。何かが、もう喉元のあたりまで迫っていた。
「パン、食べといて」
そう言って兄から逃げた。部屋に戻って、ベッドに倒れ込んだ。
私はそう、逃げてばかりだ。逃げて逃げて。何から?絵。才能。恋心。努力。弱い自分。
絶望したくない。もう、嫌なんだ。目頭がジンジンする。痛い。熱い。
私はそのまま、もう一度眠りについた。
先生は、兄の高校のテニス部の先輩だった。兄の口から「綾野先輩」という人がよく登場し、兄はその人を慕っていたようだった。
その頃、一度だけ「綾野先輩」に会ったことがある。兄の試合を見に行った時だ。直接は挨拶程度。でも、その人の柔和な雰囲気と、テニスをしている姿は、やんわりと忘れられずにいた。
私が高校に入ったのと同じ年に、「綾野先輩」は転勤してきた。昔と変わらない雰囲気を纏っていた。テニス部の顧問になったようで、放課後、テニスをする姿を美術室からよく見るようになった。
それも高一の一学期までだった。私は美術室に行くことがなくなっていった。もともと週一で、しかもゆるい部活のため、何も言われなかった。
それでも、帰りにグラウンドの端を通る時、テニスをしている先生を横目で見ていた。
何か言ってきたのは、美術部の顧問ではなく、この人だった。
「部活、最近行ってないんですか?」
昼休み、職員室の前ですれ違った時、綾野先生からそう言われた。
先生は、私が兄の妹だということもあって、一年生の頃は担任ではなかったものの、時々声をかけてきた。「何か困ったことがあったら言ってください」「今日の国語の授業、わからないところはありませんでしたか?」「わからないところがあれば、言ってください。テストの問題は教えませんけどね」
朗らかに笑う先生は、やっぱり私の目を見て話してくれる。先生の目を見るたび、ふわふわとした心地よい気持ちに包まれる。満たされていく。
「ええ、まぁ……」
私は歯切れ悪く答える。部活に行ってないなんてこの人に知られるのが、恥ずかしいと思った。
でも、この人から怒られるという概念がなかったため、私はこの時、行かなくてもいい、なんて言うんじゃないかと思った。
「まぁ、行かなくてどうこうってわけではないですけどね」
予想通りで、逆に驚く。嬉しさが広がっていく。
「あいつもよく休んでましたから」
先生は横を向いて、懐かしそうに笑う。
「兄、ですか?」
「そうです。まぁ、何してたかはわかってましたから、僕から先生に上手く言ってやってました」
兄は先生を慕っていた。先生も、兄を可愛がっていたことが伺えた。胸が掴まれるような感覚がした。
「でも、部活はやってた方がいいですよ。大切な青春の一つ、ですから」
ごめんなさい、先生。行けなかったよ。
美術室に行こうとした。無理だった。ただの奏江とは話せるけど、絵を描く奏江とは、話せそうも、見てもいられないと思った。
突然、パッと周りが明るくなる。光で目が開かない。
夢は、ここで終わった。
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