第274話 記憶:ひどい仕打ち

 眩く輝くビル街と、アスファルトで固められた地面に、喧騒と共に流れてゆく沢山の車。


 気が付いた時にはそれらの光景に囲まれていた『オレ』は、意表を突かれたせいか、思考を停止してしまっていた。


 労働で披露した身体に鞭を打ち、いつもの電車に乗り込むと、最寄り駅で降りる。


 そうして、さっきのビル街より閑静な住宅街にたどり着いた俺は、そのままトボトボと歩きだした。


 夜のせいで暗いが、良く見知っている住宅街だ。


 その様子に思わず、懐かしさを思い出していた俺は、さらに懐かしさを掻き立てる建物を目にする。


 4階建ての集合住宅。


 簡素な造りのその集合住宅は、かつて『オレ』が早坂明だった頃に住んでいた家に他ならない。


『どうなってるんだ、これは? もしかして、全部夢だったとか?』


 そんなことを考えた『オレ』は、しかし、これが夢ではないことに気が付いた。


 というのも、俺の身体を『オレ』の意思で動かすことができないのだ。


『記憶の欠片と同じような感じか』


 そうやって自分を納得させた『オレ』は、事の成り行きを見守ることにする。


 集合住宅の3階まで階段を上った俺は、手に提げていた鞄から鍵を取り出しながら、とある部屋の前まで歩いた。


 その部屋に、俺達は住んでいる。


『ん? 俺達? そっか、この時の俺は……』


 鍵を開けて部屋の中に入った俺の様子を見ながら、『オレ』は少しずつ当時のことを思い出し始めていた。


 玄関にあるハイヒールとピンク色の傘、キッチンには黄色いエプロンが掛けられており、リビングには女性用の洗濯物が干されている。


 それらを殆ど無視しながら、リビングまで入った俺は、電気を付けながら小さく呟いた。


「まだ帰ってないのか……今日は遅くなるって言ってたっけ?」


 言いながら荷物を片づけ、入浴と着替えを済ませた俺は、スマホを片手にキッチンに向かった。


 冷蔵庫から適当に食材を取り出し、いざ調理を始める前にスマホでメッセージを入れる。


『今日も残業? もう外も暗いし、駅に着いたら迎えに行くよ!』


 そのままスマホをポケットに入れた俺は、慣れた手つきで調理を始める。


 そして、2人分の料理を作り終えた俺は、リビングのテーブルにそれらを並べて、1人座り込んだ。


 時計の針は22時を指している。


 いつもよりも帰りが遅い同棲中の彼女は、今日もあくせく働いているんだろう。


 多少は心配をしながらも、きっと、何事も無く帰って来るだろうと信じてやまない俺は、時計を見ながら呟いた。


「遅いなぁ……」


 結局、その日は彼女が帰って来ることは無かった。


 正確に言えば、その日から1か月もの間、彼女と連絡が取れなくなった。


 当然、俺はありとあらゆる方法を使って、彼女を探した。


 彼女が帰ってきていないことに気が付いた翌日の朝には、すぐに共通の知り合いに連絡を入れて回ったり。


 彼女の実家にも連絡をして、彼女に連絡を試みてもらったり。


 それでも全く連絡を取れない状況が3日間続き、彼女の両親と俺は警察に捜索願を提出した。


 警察に全部を任せる気に慣れなかった俺は、捜索願を出した後も、彼女の職場と家までの経路をくまなく探し回ることにした。


 だけど、一向に彼女が見つかる気配がない。


 そうして1か月が経ったある日のこと、彼女の両親から1本の電話が入った。


「娘が見つかった。すぐに〇〇病院まで来なさい」


 涙ながらにそう告げる彼女の母親の言葉を聞いた俺は、仕事をほっぽり出して病院に向かった。


 彼女は無事なのか、どこで見つかったのか、何が起きたのか、なぜ病院にいるのか。


 多くの考えで頭の中がぐちゃぐちゃになっていた俺は、人目もはばからずに全力で街の中を走る。


 病院で受付をしていた看護師も、俺の様子を見てすぐに事情を察したのか、かなりスムーズに病室へと通される。


 そうして、約1か月ぶりに再開した彼女は、意識を失った状態でベッドに横たわっていた。


 今の所、命に別状はないという医師の話を虚ろな頭で聞いていた俺は、穏やかに呼吸をしている彼女を見ていることしかできなかった。


 よくよく見れば、全身の至る所に痣や傷のようなものがある。


 なぜ、彼女がこのようなことになっているのか、医師に尋ねてみると、医師も良く分からないという。


 なんでも、少し離れた郊外の林の中で、倒れているところが見つかったらしい。


 その時の彼女の様子は、誰がどう見てもひどい仕打ちを受けたのだと理解できるようなものだったとか。


 具体的には語らず、言葉を濁しながら伝える医師の表情に、俺は怒りを覚えた。


 この医師は悪くない。捜索してくれていた警察も悪くない。ご両親ももちろん悪くない。


 俺は、悪くないのか?


 メッセージで済ませず、電話をかけて駅まで探しに出ていたら?


 あるいは、この事態を回避できたのかもしれない。


 後悔と自分自身に対する怒りと罪悪感とで、頭がどうにかなりそうになりながら、俺は日々を過ごした。


 仕事を早めに切り上げて、病院に看病に行き、1人で家に帰る。


 そんな日々を送り始めてから1週間後、突然、彼女の容体が急変した。


 仕事中に呼び出された俺は、赤く点灯している手術中のランプを目にして、立ち尽くす。


 このまま、彼女が奪われてしまうような気がした。


 誰に? 何に? どうして?


 このまま先、彼女を奪われてしまった俺は、どうやって生きていけば良いんだろうか?


 そんな考えが脳裏を過った時、俺の身体はゆっくりと動き出していた。


 手術室の前から遠ざかるように、ぽつぽつと歩き出した俺は、病院の階段を登り、屋上へと向かう。


 しかし、屋上への扉が固く閉ざされていることに気が付いた俺は、階段近くのトイレへと向かった。


 まるで、胸の内につっかえている多くの感情を吐き出すように嘔吐した俺は、喉に焼けるような痛みを覚えながらも、顔を洗う。


 酷い顔だ。


 鏡越しに自分の顔を見た俺は、ふと、視界の端に映った窓に目を向けた。


 少し高い位置にあるが、何とか人1人くらいは通れそうだな。


 特に意識することもなく、そんなことを考えた俺は、気が付いた時には、その窓から身を投げ出していた。


 爽やかな風が心地いい。


 耳を掠める風の音と穏やかな日光に照らされながら、俺は真っ逆さまに地面に落ちる。


 その途中、もう少しで地面に衝突してしまうというタイミングで、俺は見てしまったのだ。


 廊下を歩く彼女の両親と、キャスター付きのベッドに横たわっている彼女の目を。


 確実に目が合った。


 そう思った瞬間。俺の意識は砕け散る。


 痛みと暑さと苦しみが、じわじわと全身から抜けてゆく。


 そして、目が醒めた時、『オレ』は地獄に居たのだった。

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